古いCDのデータに「プチ・ファーブル」という小文を見つけた。2009年8月18日に書いたものだ。その5日前に画家、絵本画家の熊田千佳慕さんが亡くなられた報を知り、彼を偲んだのである。
その朝、友人から熊田千佳慕さんの死を伝えられた。新聞社会面の訃報欄に小さな記事が載っていた。「絵本作家『日本のプチ・ファーブル』」とあり、一センチ角の写真は、彼が最も気に入っていた「ファーブルの帽子」を被ったものであった。おそらく後日開かれるというお別れ会の遺影も、これを使用するに違いない。九十八歳の大往生である。
昨年、NHKの番組で、元気に取材に応じていた熊田さんを見た。今年の八月十二日から銀座松屋で個展開催中であるらしく、その最中の死となった。
私も熊田さんには展覧会で何度かお世話になったことがある。彼の家に打合せに行った二十歳そこそこのアプローズの女性社員は、当時八十歳の熊田さんを「可愛い、家に連れて帰りたい」と言った。小柄で、優しく穏やかで、目がくりくりとした熊田千佳慕は、それほど可愛らしいお爺ちゃんだった。
彼はファーブル会とファーブル博物館から「プチ・ファーブル」と呼ばれた。
2001年、熊田さんから葉書をいただいた。直筆で「私もだいぶ歳をとりました。自分で手紙が書けるうちに、お別れのご挨拶をさせていただきます。本当に大変お世話になりました」という文に、可憐な野の花が描かれたものである。熊田さんからのお別れの手紙だったのだ。私は胸が締めつけられた。
気になってご自宅に電話を入れた。受話器の向こう側から、「このあいだ病気をして、何日間も寝込んでしまいました。…私も九十歳です。いつお迎えが来ても不思議でない歳になりましたから…。自分で手紙が書けるうちに、お別れのご挨拶をしておかなければと思い、お世話になった皆さんに葉書を出しました」と、小さく笑った。その声は、かつての張りが失われて、かすれていた。
「このごろ、外に出るのが、とても億劫になりました。家から離れて写生に出かけることもなくなりました。今はもっぱら庭におりて写生するだけです」と言った。
彼は1911年に横浜に生まれた。東京美術学校の出身である。写真家の名取洋之助が創立した「日本工房」でデザイナーとなった。そこで写真家の土門拳や、東京オリンピックのポスターで知られる亀倉雄作らと一緒に働いた。土門拳は彼の生涯の親友となった。土門の恋愛の相談に乗り、その失恋を慰めたという。
戦災で家が全焼したが、焼け跡から焼け残った色鉛筆を見つけた。その色鉛筆が「これで絵を描いて」と彼に語りかけたと言う。終戦直後から、その色鉛筆で絵を描き始めた。野に咲く小さな花や、それに集まる小さな小さな虫たちの絵である。
もともと彼は「ファーブル昆虫記」が大好きだった。彼の絵は自然に、かつて「ファーブル昆虫記」で見た昆虫写生画の、細密画をその手法とするようになった。絵本作家として本も出したが、ちっとも売れなかったらしい。
貧しく、生活は実に質素なものであったという。その頃の代表作が「みつばちマーヤ」である。彼の質朴な生活は、その生涯変わることがなかった。
熊田さんが有名になったのは、ボローニャの国際絵本原画展で初入選した七十歳のことである。そう言えば、ファーブルも七十歳を過ぎてから昆虫学者として有名になったのである。ファーブルも実に長命であった。またファーブルも生涯貧しく、質朴な暮らしをした。
熊田さんがボローニャの国際絵本原画展で初入選した後、彼と作品は新聞や雑誌にも取り上げられるようになり、彼の絵本はやっと売れるようになったらしい。
私が最初に彼を知ったのはそんな雑誌のひとつの「BE-PAL」であった。誌中に彼の記事と作品と、写生中の彼の写真を見つけた。それは、原っぱに腹這いになって、小さな野の花や虫を写生する、とても目のきれいなお爺さんの写真である。熊田さんが楽しそうに言う「行き倒れ」ポーズの写生姿である。
実際に、草むらに腹這いになっていた彼を見かけた女子高生が、「どこかのお爺ちゃんが原っぱで倒れている」と消防署と警察に通報したことがあったらしい。私はすぐ小学館の「BE-PAL」編集部に電話を入れ、熊田さんの連絡先を教えてもらった。そして彼に電話を入れた。具体的な企画があったわけではない。いつの日にか、彼を企画提案する機会の到来のために、準備したのである。
実に凄い細密画である。彼に作品を見せてもらいながら、「目がかすんだりしませんか」と尋ねると、「それが不思議なものです。歳をとれば取るほど、ものが見えるようになりました」と張りのある声で笑った。
フランスのファーブル会とファーブル博物館は、彼の一連の作品を高く評価した。ファーブル博物館に招かれた彼は、ファーブルが実際に愛用していた帽子を被ることを許され、記念写真を撮った。その写真の一葉に、ファーブルと同じアングルで撮られたものがある。これが熊田さんの一番のお気に入り写真となった。熊田さんは、自分のこれまでの生涯で一番嬉しかったことは、このファーブルの帽子を被った時だったと語っていた。
彼は大変な猫好きだった。彼が草むらに腹這いになって写生をしていると、その傍らに猫が寄ってきて遊ぼうよと言い、待ってね今写生中だからねと言うと、彼の横に腹這いとなって、その写生が終わるのを待ったという。あるいは写生中のその小さな花の匂いを共に嗅いだという。
彼は「都内なら出かけますが、地方の展覧会には行けません」と言った。「猫たちにご飯をあげなければいけないので…」と目を細めながら、にこにこと笑った。小柄で、優しく穏やかで、「家に連れて帰りたい」ほど愛らしいお爺ちゃんだった。