あまり童謡や唱歌を耳にすることがなくなって久しい。はなはだ残念なことだ。
これまでも童謡唱歌の逸話を、勝手な想像まじりに「掌説うためいろ」と題して書いてきた。「勝手な想像まじり」というのは、詩人や作曲者に関する様々な解説や逸話を読むと、どうも違うのではないか、あるいはその時代が立体的、重層的にとらえられていないのではないか、と感じられるため、こうではなかったのか?ということからくる想像なのである。
これといった劇的な逸話が少ない童謡唱歌は、「掌説うためいろ」に入れなかった。しかし、二木紘三先生、池田小百合先生や、童謡唱歌の仕事に携わっておられる方々には、とてもとても及びもしないが、私にも大好きな童謡や唱歌が数多くある。
「どこかで春が」はそのひとつである。作詞は百田宗治、作曲は草川信で、大正12年(1923年)に発表された。
百田宗治は明治26年(1983年)大阪生まれである。大正4年(1915年)に個人雑誌「表現」を出し、その翌年に詩集「一人と全体」を出版した。彼は人道主義的、民主主義的な傾向を強め「民衆」派詩人の一人と目された。その後は贅句を削った現代的な詩風に一変した。昭和7年以降は童謡詩、児童詩・作文教育に取り組み、児童文学者や全国の教師たちと綴方運動を始めた。
一
どこかで「春」が生まれてる
どこかで水が流れ出す二
どこかで雲雀(ひばり)が啼(な)いている
どこかで芽(め)の出る音がする三
山の三月(さんがつ)東風(こち)吹いて
どこかで「春」がうまれてる
「緑のそよ風」も草川信の作曲である。昭和22年(1947年)に、清水かつらがNHKラジオの依頼を受けて作詞し、草川の最晩年の童謡となった。この頃の彼は、南方に出征したまま生死も知れぬ長男・宏のことや、罹病のため塞ぎ込むことが多かったという。
しかしこの歌は明るい。彼の希いを込めた最期の明るさだったのだろう。この「緑のそよ風」は翌年の1月に放送されたが。彼はラジオから流れるこの曲を聴くことができなかった。
一
みどりのそよ風いい日だね
ちょうちょもひらひら豆の花
なないろ畑にいもうとの
つまみ菜つむ手がかわいいな二
みどりのそよ風いい日だね
ぶらんこゆりましょ歌いましょ
すばこの丸まどねんね鳥
ときどきおつむがのぞいてる三
みどりのそよ風いい日だね
ボールがポンポンストライク
打たせりゃ二塁のすべり込み
セーフだおでこの汗をふく四
みどりのそよ風いい日だね
小川のふな釣り浮きが浮く
静かなさざなみはね上げて
きらきら金ぶなうれしいな五
みどりのそよ風いい日だね
遊びに行こうよ丘越えて
あの子のおうちの花畑
もうじき苺(いちご)が摘めるとさ
「村の鍛冶屋」は大正元年(1912年)は「尋常小学唱歌(四)」として全国の小学校で歌われた文部省唱歌だ。したがって作詞者・作曲者は不詳で特定されていない。時代を経て、少しずつ歌詞が変えられている。
昭和60年に音楽教科書から姿を消した。そのときの文部省の役人の話が忘れられない。要約すると「今の子どもたちには『鍛冶屋』だとか『ふいご』と言っても理解できない」と言った。そんなもの、教えればいいことだろう。
「チャンバラ時代劇の刀を作る職人さんは刀鍛冶という。農業に使用するクワ、カマ、スキ、ナタ(黒板に白墨で簡単な絵を描き)などを作る職人さんは野鍛冶という。鍛冶仕事には鉄を真っ赤に焼く炭火が必要で、フイゴはその火を盛んにするため風を送り込む装置だ」…何の不都合やある。明治初期の唱歌は、全国的に統一した「国語」、さらに品格のある日本語、万葉以来の伝統の五七調の言葉のリズム、韻律も教えることでもあったはずだ。また音楽好きの教師たちは、算数の授業で節を付けた数え歌を教えたこともあった。何の不都合やある?
一
暫時(しばし)も止まずに槌打つ響
飛び散る火の花はしる湯玉
ふゐごの風さへ息をもつがず
仕事に精出す村の鍛冶屋二
あるじは名高きいつこく老爺(おやぢ)
早起き早寝の病(やまひ)知らず
鐵より堅しと誇れる腕に
勝りて堅きは彼が心三
刀はうたねど大鎌小鎌
馬鍬に作鍬(さくぐは)鋤よ鉈よ
平和の打ち物休まずうちて
日毎に戰ふ懶惰(らんだ)の敵と四
稼ぐにおひつく貧乏なくて
名物鍛冶屋は日日に繁昌
あたりに類なき仕事のほまれ
槌うつ響にまして高し
「村祭り」もいい。これも文部省唱歌で、作詞者・作曲者は不詳(南能衛作曲とする記述もある)。明治45年の文部省「尋常小学唱歌(三年)」に掲載され、昭和17年の「初等科音楽(一)」で歌詞が改められている。
一
村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日(おまつりび)
ドンドンヒャララドンヒャララ
ドンドンヒャララドンヒャララ
朝から聞こえる笛太鼓二
年も豊年満作で
村は総出(そうで)の大祭(おおまつり)
ドンドンヒャララドンヒャララ
ドンドンヒャララドンヒャララ
夜まで賑(にぎ)わう宮の森三
治(おさ)まる御代(みよ)に神様の
めぐみ仰(あお)ぐや村祭
ドンドンヒャララドンヒャララ
ドンドンヒャララドンヒャララ
聞いても心が勇み立つ
私は「あの町この町」という童謡を聴くと、なぜか横浜の夕焼けの坂道を思い出す。この曲は大正13年(1924年)に「金の船」に発表された。
それにしても野口雨情と中山晋平コンビは「証城寺の狸囃子」「兎のダンス」「黄金虫」「雨降りお月さん」「シャボン玉」など、何と多くの素晴らしい童謡を残してくれたことか。
一
あの町この町日が暮れる
日が暮れる
今きたこの道帰りゃんせ
帰りゃんせ二
おうちがだんだん遠くなる
遠くなる
今きたこの道帰りゃんせ
帰りゃんせ三
お空に夕べの星が出る
星が出る
今きたこの道帰りゃんせ
帰りゃんせ
「仲よし小道」は、三苫やすしが、ガリ販刷りの同人誌「ズブヌレ雀」に、昭和14年(1939年)1月に発表した童謡詩である。キングレコードの専属作曲家になっていた河村光陽が、これを偶然見つけて曲を付け、キングのディレクターに持ち込み、光陽の娘の順子と、金子のぶ子、山元淳子の三人の歌で2月にはレコード化した。すごいスピードである。この時、作詞の三苫には無断で勝手に三番、四番の歌詞を変更したという。そういう時代だったのだ。
「仲よし小道」はヒットした。日中戦争が拡大しつつあった頃である。
三苫やすしは明治43年(1910年)に福岡に生まれた。福岡師範学校を出て教職に就き、川崎の小学校、生田の中学校に勤務するかたわら、詩作を続けた。などいた。彼は昭和24年亡くなっている。
河村光陽も福岡出身で、小倉師範学校を出て地元で音楽教師をした。その後作曲に専念し、キングレコードの専属となった。
やがて時代は太平洋戦争に突入し、小学校は国民学校に、子どもたちは少国民になり、集団で登下校するようになった。「仲よし小道」の楽しい日々は、ごく短い間だったのだ。
一
仲よし小道はどこの道
いつも学校へみよちゃんと
ランドセル背負(しょ)って元気よく
お歌をうたって通(かよ)う道二
仲よし小道はうれしいな
いつもとなりのみよちゃんが
にこにこあそびにかけてくる
なんなんなの花匂(にお)う道三
仲よし小道の小川には
とんとん板橋(いたばし)かけてある
仲よくならんで腰(こし)かけて
お話するのよたのしいな四
仲よし小道の日ぐれには
母さまお家(うち)でお呼びです
さよならさよならまた明日(あした)
お手手をふりふりさようなら
「歌の町」も好きな曲だ。終戦後の世相に、子どもたちに明るさを与えてくれた曲の一つだろう。
作詞の勝承夫(かつよしお)は明治35年(1902年)東京四谷生まれである。旧制中学の頃から詩人として知られ、東洋大学に進んで「新進詩人」「新詩人」に参加した。大学卒業後は報知新聞社の記者となり、昭和18年に退社して文筆に専念した。戦後は音楽教育活動や全国の学校の校歌も手がけ、日本音楽著作権協会の会長となり、また東洋大学の理事長も務めた。
作曲の小村三千三は明治33年(1900年)神奈川県三崎町の生まれである。彼もまた全国の小・中・高・大学の校歌を作曲した。
一
よい子が住んでるよい町は
楽しい楽しい歌の町
花屋はちょきちょきちょっきんな
かじ屋はかちかちかっちんな二
よい子が集まるよいところ
楽しい楽しい歌のまち
雀はちゅんちゅくちゅんちゅくな
ひ鯉はぱくぱくばっくりこ三
よい子が元気に遊んでる
楽しい楽しい歌の町
荷馬車はかたかたかったりこ
自転車ちりりんちりりんりん四
よい子のお家がならんでる
楽しい楽しい歌の町
電気はぴかぴかぴっかりこ
時計はちくちくぽんぽんぽん
私の幼少期、横浜には子どものお馬車が走っていた。それ以前に馬車道という地名もあった。少年期に銚子に暮らしたが、ヤマサやヒゲタの醤油工場の荷馬車が、醤油樽を積んで公道をガラガラと行き来していた。花屋は今も「ちょきちょきちょっきんな」のままだが、さすがに鍛冶屋は町から姿を消した。しかし下町でたまさか見かける板金屋は「ばんばん」と叩き、通りかかった町工場の音は、今でも「がったん、がったん」と耳にすることがある。自転車の「ちりりんりんりん」は蕎麦屋の出前の兄さんか、三河屋の御用聞きのおじさんの自転車か。いきいきとした小さな産業と、暮らしの音があった。