草川信と戦争の時代

「兵隊さんの汽車」は富原薫の作詞、草川信の作曲である。


 汽車汽車ポッポポッポ
 シュッポシュッポシュッポッポウ
 兵隊さんを乗せて
 シュッポシュッポシュッポッポウ
 僕らも手に手に日の丸の
 旗を振り振り送りませう
 萬歳萬歳萬歳
 兵隊さん兵隊さん萬々歳


 汽車汽車来る来る
 シュッポシュッポシュッポッポウ
 兵隊さんを乗せて
 シュッポシュッポシュッポッポウ
 窓からヒラヒラ日の丸の
 旗を振ってく兵隊さん
 萬歳萬歳萬歳
 兵隊さん兵隊さん萬々歳


 汽車汽車行く行く
 シュッポシュッポシュッポッポウ
 兵隊さんを乗せて
 シュッポシュッポシュッポッポウ
 まだまだヒラヒラ日の丸の
 旗が見えるよ汽車の窓
 萬歳萬歳萬歳
 兵隊さん兵隊さん萬々歳

御殿場に陸軍の演習場があった。連日、御殿場駅から送り出される兵隊たちを見送る光景が続いていた。小学校教師・富原薫はそれを詞にし、草川信が曲を付けた。
信は大好きなシューベルトの「軍隊行進曲」を参考にしたという。「いただいちゃったよ」と悪戯っ子らしく笑いながら、次男の誠さんに言ったらしい。
この歌は戦中大ヒットした。しかし草川は軍歌や軍国的作曲を嫌い、その後はクラシックの演奏家や声楽家のための作曲に専念した。やがてその曲調から明るさが消え、悲しげな曲が増えた。

1945年の年の瀬である。御殿場の富原の家に日本放送協会の近藤という番組制作者が訪れた。日本放送協会は大晦日に「紅白音楽合戦」という番組を企画しているが、GHQがタイトルの「合戦」を不許可としたため「試合」と修正したと言う。またその番組で「音羽ゆりかご会」の童謡歌手・川田正子に、「兵隊さんの汽車」を歌わせたいと考えているが、やはり軍国主義的な歌詞であるとされたため、その詞を改作してほしいとの依頼であった。富原は近藤を待たせて歌詞を直し、題名も「汽車ポッポ」に変えた。


 汽車汽車ポッポポッポ
 シュッポシュッポシュッポッポ
 僕らを乗せてシュッポシュッポシュッポッポ
 スピードスピート窓の外
 畑もとぶとぶ家もとぶ
 走れ走れ走れ
 鉄橋だ鉄橋だたのしいな


 汽車汽車ポッポポッポ
 シュッポシュッポシュッポッポ
 汽笛を鳴らしシュッポシュッポシュッポッポ
 ゆかいだゆかいだいいながめ
 野原だ林だほら山だ
 走れ走れ走れ
 トンネルだトンネルだうれしいな


 汽車汽車ポッポポッポ
 シュッポシュッポシュッポッポ
 煙をはいてシュッポシュッポシュッポッポ
 行こうよ行こうよどこまでも
 あかるい希望がまっている
 走れ走れ走れ
 がんばってがんばって走れよ

敗戦の世相に希望を持たせ、平和になった日本に願いを込めた詞となった。歌う川田正子もそれを強く感じ、明るく歌い上げた。

「夕焼け小焼け」「揺籠のうた」で知られる作曲者・草川信は、1893年(明治26年)に、信州の松代町(現長野市)に、銀行員の四男として生まれた。兄弟は三人が音楽に、一人が博物学に進んだ。信は母の琴や兄のオルガン、バイオリンの影響を受けたのだという。また長野師範学校付属小学校で、後年武蔵野音楽学校を創立した福井直秋に音楽を学び、彼のその後を決定づけた。
1913年(大正2年)に東京音楽学校に入学し、バイオリンとピアノを学んだが、そのときのバイオリンの師は安藤幸(幸田露伴の妹)、ピアノの師が弘田龍太郎であった。

成田為三と弘田はともに「赤い鳥」に参加したが、その成田がドイツ留学で抜けるため、弘田が草川信を「赤い鳥」運動へ誘った。
信は1921年(大正10年)に「夕焼け小焼け」を作曲して、童謡作曲家としてその名を知られるようになっていった。その後も「揺籠のうた」や「どこかで春が」など、バイオリン奏者らしい流れるような旋律の、心に残る美しい曲を世に送り出した。

後に自身が「想い出の記」に記しているように、少年時代の信はとんでもない腕白坊主だったらしい。ドジョウを獲るため田んぼの畦に穴をあけ、田の水を流れ出させて大目玉を喰らい、酒を買ってきたお使いの少年に悪戯してその酒瓶を割って泣かせ、いつも遊び場にしている寺の裏山から大きな石を転がし落とし、寺の屋根に大穴をあけ、またオルガンの鍵盤を箒の柄でグリッサンドして黒鍵をすべて折ってしまったという。野球に熱中する一方で、水彩画の高名な先生について学び、これにも夢中になっていたという。
彼のゆったりとした美しい旋律からは、なかなか想像がつかぬ、やんちゃ時代の逸話の数々である。

大正11年に北原白秋の「揺籠のうた」に曲を付け、「赤い鳥」10月号に発表され、これが彼の代表曲となった。
同郷の松代出身の海沼實は、草川信に学んだ。海沼が音羽の護国寺に児童合唱団を作ったとき、信は「揺籠のうた」を会歌として送った。児童合唱団はそれにちなみ「音羽ゆりかご会」となった。
草川信は「ねんねこねんねこねんねこ、よ」のあの詞に合う旋律を生むにあたり、「子供の頃、灰色の空から雪の舞い下りる様子を炬燵の中からじっと見ていたことや、薄い氷の張った床を打つ、つららの五太鼓を、夢の枕に聞いたことを思い出していた。あのリズムをね。」と語っている。彼にとってそれはやんちゃで楽しい、美しい時代だったのだろう。

東京音楽学校で学んでいた長男の宏が、応召されフィリピンに出征すると、信は次第に塞ぎ込むようになった。終戦後も宏の安否は全く知れなかった。
1947年、信は病に倒れた。翌年5月に草川家に宏の戦死公報が入ったが、家族はそれをあえて信に伝えず、隠した。信の心と健康を気遣ったのである。その9月に信は帰らぬ人となったが、まだ55歳という若さであった。