海沼實は才能にあふれ、自身仕事が早く、また上質な曲を数多く手がけた。その仕事の手早さや上質さを、他者にも要求した人かもしれない。もちろん、その方たちの才能や質を、海沼が信頼していたからに違いないが。
「スグオイデコフカイヌマ」の電報に呼ばれた斎藤信夫は、千葉の成東町から急ぎ上京し、海沼の家を訪ねた。それは芝であったろうか。その頃の海沼は自分が歌唱指導する音羽ゆりかご会の童謡歌手・川田姉妹の家の二階に暮らしていたらしい。
海沼はJOAK(NHK)ラジオの依頼で、「外地引き揚げ同胞激励の午后」という特別組のために曲をつくるのだが、その詞を斎藤の「星月夜」にしたいと言った。そして新しい三番の詞を書いてくれという。
聞けば、12月の24日の1時半ころに、最初の復員兵を乗せた船が浦賀に入港するので、彼らを迎えるため、1時45分からの現地生中継放送になるのだという。
船が接岸し、船を降りた将兵たちを前に「引き揚げ援護局」の偉いさんが挨拶し、その後、海沼のピアノを伴奏に少女歌手の川田正子の歌で、そのご苦労を慰め、励ますという。海沼はすでに「星月夜」に曲を付けていたのに違いない。
しかし海沼が局からの要請を受けてから、詞を選び曲を作るまで十分な時間があったとは思えない。彼は手元のたくさんの詞の中から、記憶に残っていた詞を探し、「これだ」と決めたに違いない。
おそらく海沼は斎藤に「こんな感じの曲を付けました」と、聴かせたのではないか。
斎藤信夫は焦ったかも知れない。ほとんど時間がない。おそらく斎藤はその日は成東に戻らず、旅館に投宿して、そこで三番の詞を作ったのでないか。
斎藤がその詞を渡したのが当日の朝である。ここで初めて海沼から「里の秋」に改題しませんか、と提案されたのだろう。そして、浦賀港からの生中継は回線故障のため、内幸町のスタジオから放送に変更になったことを聞いた。
彼らは(おそらく斎藤も同行したのではないか)川田正子を連れて、共に内幸町に行ったのではないか。局の担当者が、すぐにGHQの民間検問部の許可をもらいに走り、OKをもらってくるまでの間、海沼はいつものように川田正子の音域に合わせ、ワンフレーズごとに歌って彼女に教えた。この天才的童謡歌手はすぐに覚え、歌えた。
まことに忙しい「師走」のクリスマスイブだったのだ。まあ当時はクリスマスイブなんていう時代ではなく、みんな飢え、生き延びるのに必死だったのだ。…私の勝手な想像まじりの「里の秋」の話である。
ちなみに川田正子と音羽ゆりかご会のことである。昭和8年、海沼が音羽の護国寺の貫主・佐々木教純の共感を得て、寺内の一室を借り受け、児童合唱団の会をつくった。それを喜んだ海沼實の同郷(松代)で彼の恩師であった草川信が、自分の代表曲「ゆりかごの歌」を会歌として贈り、「音羽ゆりかご会」となった。川田正子とその妹の孝子、そして美智子の姉妹はそこから育ち、正子は童謡のスター歌手となったのである。
築地市場最後のイベント、築地市場祭り「ありがとう築地」のステージで、童謡歌手の雨宮知子さんに歌っていただいた。その時に私から「必」としてリクエストしたのは、「かわいい魚屋さん」であった。それは歌っていただいたが、彼女がオープニングの曲に選んだのは「みかんの花咲く丘」であった。築地には青果市場もあり、それもいいだろうと思った。
「かわいい魚屋さん」は加藤省吾の作詞、山口保治の作曲である。そして「みかんの花咲く丘」の作詞も加藤省吾であった。
加藤省吾が生まれ育った静岡県の大潟村(現富士市)は、高台に位置し、田子の浦が眺望でき、さらに駿河湾が霞みながらどこまでも広がっていた。
田子の浦では、荒天や波の高い日を除けば、朝ともなると地曳網が引かれ、種類も豊富なたくさんの魚が獲れた。昼頃には、天秤の両端に魚を入れた籠を担いだ行商(振り売り)が、村々の家を回って歩いた。威勢良く「こんちわーす!魚いかがです?」
加藤省吾の家は十代続いた旧家で裕福だった。しかし父親が相場で失敗し、両親は四人の子を残して失踪した。兄弟も離散し、彼は富士宮の菓子屋の子守奉公に出され、その後に叔父の家に預けられた。辛い日々であった。しかし両親を恨む気持ちはわかなかったという。きっと、止むに止まれぬ事情があったのだろう…。
昭和10年に東京に出て、薬屋に勤め、旋盤工になり、やがて印刷会社に就職した。自転車に乗って回る営業だったという。
彼は以前から古賀政男作曲、島田芳文作詞の「丘を越えて」を聴いて励まされ、自分もああいう詞を書きたいと思い、詞を書いてはレコード会社に持ち込むようになった。
しかしどこのレコード会社にも専属の作詞家がいて、流行歌を手がけていた。加藤はそれらの専属作詞家があまり手がけることのないジャンルの詞を書こうと思った。例えば童謡もいい、そうだ童謡を書いてみようと思った。
ある日、自転車で回っているときに、庭先でゴザを敷いて「ままごと遊び」をする幼い子どもたちを見た。彼は着想を得た。このままごと遊びの中に、当時普通にあった「御用聞き」を入れよう、いや生まれ育った村でよく見た「振り売り」「棒手(ぼて)ふり」の魚屋さんを入れよう…。江戸時代の話に登場する一心太助も「棒手ふり」だ。その晩、彼が書いたのが「かわいい魚屋さん」である。
一
かわいいかわいい魚屋さん
ままごとあそびの魚屋さん
こんちわお魚いかがでしょ
お部屋じゃ子供のお母さん
きょうはまだまだいりません二
かわいいかわいい魚屋さん
てんびんかついでどっこいしょ
こんちわよいよいお天気で
こちらのお家じゃいかがでしょ
そうねえきょうはよかったわ三
かわいいかわいい魚屋さん
ねじりのはちまきはっぴ着て
こんちわお魚いかがでしょ
大だい小だいにたこにさば
おかんじょじょうずにいっちょにちょな
昭和13年、「かわいい魚屋さん」はビクターから8インチ盤で出て、加藤省吾の初ヒットとなった。加藤省吾、23歳のときである。翌年に10インチ盤をつくると言われて収録スタジオに行った加藤は、「四番の詞を急いで書いてくれ」と言われた。本番録音の一時間前だったという。
四
かわいいかわいい魚屋さん
ままごと遊びの魚屋さん
こんちわお魚売り切れだ
まいどありがとございます
にこにこ元気でまたあした
そして加藤は消息も知れなかった両親と再会した。両親はずいぶん小さく見えた。彼には二人を恨む気持ちはなく、ただ生きて会えた喜びを素直に伝えた。
やがて彼は印刷会社を辞め、音楽新聞社に入って雑誌の記者をしながら作詞も続けた。
終戦後の昭和21年8月のまだ暑い盛りの頃である。加藤は月刊誌「ミュージックライフ」の編集をしていた。当時12歳の川田正子を取材に、芝の川田家を訪ね、そこで作曲家の海沼實にも会う約束をしていた。後に加藤は「運命の日」と言った。
「加藤さん、昼飯はまだだろ。お赤飯があるんだが、どうぞ召し上がれ」
まだ昼には早かったが、お赤飯は滅多に食べられない時代だった。加藤は遠慮なくご馳走になった。食べている間に海沼が恐ろしいことを言った。
「加藤さん。実は正子が明日、静岡県の伊東市で、生放送のラジオ番組に出るのだが、その時に歌う曲がまだできていないんだ。これは東京のNHKのスタジオと伊東市の西国民学校の講堂をつないで、ラジオ初の二元放送をやるんだ。『空の劇場』という番組なんだがね。まあ、一回限りの放送なんだが…。今日の午後一番の列車で伊東に向かわなければならない。加藤さん、ちょうど良かったよ、詞を書いていってよ」
「ええっ~」
時計を確認すると猶予は30分もない。しかも海沼は加藤に注文を出した。
「伊東の丘に立って、海に浮かんだ島を眺めていると、黒い煙を吐きながら船が通っていく…。そんな情景を入れてほしいね…」
「…ぼくは静岡県の田子の浦を望む高台で育ちました」
「おお、いいねえ。それはちょうどいい」
故郷の情景、なだらかな丘、みかんの木、みかんの可憐な白い花、海に浮かぶ島、沖を行く船を思い浮かべ、そして幼い頃の楽しい暮らし、母の笑顔も思い浮かべた。それは優しい母の顔だった…。戦争で母親を失くした子どもたちがたくさんいる。彼らの母親への想いも歌に託したい。
加藤は20分で一気に「みかんの花咲く丘」を書き上げた。
海沼はその原稿用紙をひっつかみ、正子の手を取って飛び出していった。列車の中で、海沼は加藤の詞を読み、曲を作っていった。列車は八分の六拍子で伊東に向かった。
一
みかんの花が咲いている
思い出の道丘の道
はるかに見える青い海
お船が遠くかすんでる二
黒いけむりをはきながら
お船はどこへいくのでしょう
波にゆられて島のかげ
汽笛がボウとなりました三
いつか来た丘母さんと
いっしょに眺めたあの島よ
今日もひとりで見ていると
やさしい母さんおもわれる
伊東の旅館に着くと、海沼は東京のNHKの担当者に電話かけ、加藤の詞「みかんの花咲く丘」を書きとらせて、すぐにGHQ民間検問部の許可を取るよう伝えた。そして正子に列車の中で作ったメロディーを教えた。旅館の海沼に、GHQ民間検問部の許可も出たという電話が入った。…
翌日、正子は海沼が自分の名刺の裏に書いた詞を見ながら、間違えないように歌ったという。
やがて「みかんの花咲く丘」は大ヒットした。
それが契機となって、加藤はコロムビアレコードと専属契約を結んだ。その後にキングレコードに移籍し、子ども向けのテレビ番組「隠密剣士」や「怪傑ハリマオ」などの主題歌を書き、それも大評判になった。
そして加藤は年老いた母を引き取り、その最後を看取った。