暮れなずむ八月末の上野恩賜動物園である。園内で蝉がかしましく鳴きかわし、ますます暑苦しく思われた。
象の担当飼育員・菅谷吉一郎と渋谷信吉は、痩せこけてふらふらになった牡象のジョンを見つめていた。ジョンも彼らを見た。優しく潤み、そしてどこか哀しく恨めしげな目である。ジョンはもう歩くことも難しいだろう、繋いだ鉄の鎖を外してやろうと菅谷は思った。
ジョンは気の荒い象であった。鉄鎖は、動物園非常処置要綱が現実味を帯び始めた頃から、何事かを察したか、暴れるようになったジョンの前脚に取り付けられたのである。すでに絶食が始まってから十七日目になる。背と胸腹と尻に浮き出た骨が哀れだった。
昭和十七年四月、帝都は初空襲を受けた。そのことから、動物園の動物の殺処分が検討され始めた。ひとつは人間様も食糧事情悪化という非常時である。そして空襲によって壊された檻から、猛獣が逃げ出すことを事前に防止することである。動物の危険度は四分類された。先ず殺処分すべき危険動物の第一種は、猛獣や毒蛇である。ライオンや熊、豹などと共に、象もその中に含まれていた。
翌十八年七月一日、東京府は都制に移行した。上野の動物園も、東京都上野恩賜公園動物園が正式な名称となった。官選の初代東京都長官には、内務官僚の大達(おおだち)茂雄が就任した。
昭和十七年二月、日本軍は四万人とも言われる昭南(シンガポール)華僑大虐殺の暴挙を犯した。その翌三月、大達は昭南市長兼陸軍軍司政長官になった男であった。大達は東京都長官に就くと、学童疎開と御真影疎開の実施を策定した。翌八月、上野と井の頭の動物園に動物処分命令を発し、一月以内に行うよう下達した。方法は硝酸ストリキニーネや青酸カリによる毒殺である。
昭和十二年、上野動物園に園長制が導入されたとき、初代園長に就任したのは古賀忠道である。彼は日本軍政監獣医事業部司政官として、上野に派遣されたのである。その古賀が応召し、上野で飼育員二十年の福田三郎が園長代理を務めることになった。
福田は以前から密かに恐れていた動物処分命令に苦悩した。福田が獣舎を見回ると、動物たちは甘えるように近寄ってくる。彼は動物たちの黒目がちの目を避けるようになった。
福田らは地方の動物園に、二頭の豹やジョンを除く二頭の牝象トンキーとワンリー(花子)の疎開を打診していた。しかし大達長官の命令は、一月以内に殺処分を完了せよとの督促であった。やむなく福田は飼育員等を集め、第一種動物の殺処分を伝えるとともに、箝口令を布いた。家族にも言ってはならないと厳命した。殺処分は閉園後に行われることになった。
先ず、二頭の熊に硝酸ストリキニーネを混ぜた好物のサツマイモが与えられた。熊はしばらく悶絶した後に息絶えた。その様子に飼育員らは胸をつまらせた。翌日はライオンと豹も処分された。
象のジョンにも好物のジャガイモに毒を混ぜて与えたが、ジョンは毒入りのジャガイモだけを選り分け、これを食べなかった。象の皮には注射針も通らなかった。彼らはジョンを餓死させることにした。こうしてジョンの絶食が始まったのである。普通ならあと二十年は生きるであろうジョンであった。
福田も菅谷も渋谷も、何とかトンキーとワンリーを助けてあげたいと思っていた。トンキーは人間で言えば女盛りの歳頃である。ワンリーはまだずっと若かった。子象のワンリーがタイから上野動物園にやって来た時、南国風の彩り鮮やかな花の冠と花のレイで飾られ、美麗な刺繍布を背中にかけられて、音楽隊とともに行進して入園した。子どもたちが沿道で小旗を振り、歓声で彼女を出迎えたものである。そうしてワンリーは子どもたちによって花子と名付けられたのだ。
福田らに朗報が届いた。仙台市動物園が象を引き取りたいというのである。彼らは急ぎ象の移動方法を段取った。田端駅操車場の貨物ホームから積み込むことも決めた。後は大達長官の許可を取るばかりである。ところが大達はこれを厳しく叱責し、いっさいの例外を認めなかった。福田等は落胆した。やむを得ない。彼らはトンキーとワンリーも餓死させることにした。
その時、ジョンは鼻を高く持ち上げると、まるで霧笛のような鳴き声をあげた。そして崩れるように横倒しになった。その末期の鳴き声は、隣の象舎にいるトンキーやワンリーへの永訣の声であったのだろう。トンキーとワンリーも哀しげに鳴いた。
福田三郎はジョンが絶命したと聞き、息を切らしながら丸い体を象舎に走らせた。飼育員の菅谷吉一郎と渋谷信吉が、倒れたジョンを見つめながら唇を噛みしめていた。
見開かれたままのジョンの目が福田を見つめているようだった。その目の縁にこびりついた目ヤニは、ジョンの涙が乾いたものだったのだろう。ジョンの足元に、どこからか飛び落ちてきた蝉が、腹を見せたままジジジと鳴いて一回転し、そのまま動かなくなった。
第一種に分類された危険猛獣類は、トンキーとワンリーの二頭を除いて完了した。九月二日に猛獣類の殺処分が公表され、四日の日に死んだ動物たちの慰霊法要が行われることになり、上野動物園の入口には葬祭用の鯨幕が張られた。
團伊玖磨は東京音楽学校への通学途次、鯨幕と「戦時殉難動物慰霊祭」の看板の前を歩きながら、強い憤りを覚えた。全く人間ほど身勝手な動物はいない。ライオンも熊も虎も象も殺されたという。以前から、動物たちが殺されているという噂は聞いていたが、あらためて彼らの死が哀しく、胸が締めつけられた。
象のトンキーとワンリーはまだ生きていた。飼育員の菅谷吉一郎がこっそり水と少しばかりの餌を与えていたのである。しかし二頭も骨と皮ばかりになっていった。やがて完全な絶食が始まった。
二頭は飼育員の菅谷や渋谷の姿を見ると、お互いもたれかかり支え合うように、ふらふらと立ち上がった。そして片脚で立ってポーズをとった。そして
「ねえ、上手にできたでしょう。ご褒美に何か食べ物をくださいな」
と言うように、二人の飼育員らを見た。さらに後ろ脚を上げ、衰弱しぶるぶる震える前脚で逆立ちの姿勢をとった。しかしトンキーもワンリーも、後ろ脚は片方しか上がらなかった。でも、
「ねえ、上手いでしょう。ご褒美をくださいな」
と食べ物をせがんだ。続いてお尻をついて座って見せたり、鼻を高々と上げ、二本の前脚でバンザイのポーズをして見せた。トンキーもワンリーも、芸をすれば食べ物がもらえると思っているのだ。それを見た福田は小太りの身体を震わせ、
「花子、トンキー…ごめん、ごめんな。もういい、もういい」
と泣いた。菅谷は慟哭した。渋谷は嗚咽を噛み殺した。
その後もトンキーとワンリーは二人の飼育員の姿を見つけると、衰弱でふらふらになりながら立ち上がり、彼らに必死の芸当を見せた。
九月十一日、ワンリーが倒れたまま全く動かなくなった。トンキーが鼻でワンリーの体をさすっていたわっていた。ワンリーが象舎から運び出されると、トンキーは今まで聞いたこともないような、か細い声を出し続けた。その十二日後、トンキーもついに倒れた。
二年後、戦争は終わった。上野動物園にはほとんど動物がいなくなっていた。渋谷信吉は全く飲めなかった酒を飲むようになった。やりきれなかったのだ。すぐに酔って「もう戦争なんか嫌だ」と呻き、吐き、翌日は頭痛に悩まされた。菅谷吉一郎は、以来つらい罪悪感を抱き続けていた。ジョンの悲しい目や、トンキーやワンリーの必死の姿が去来し続けた。福田三郎は薬殺した猛獣たちや、餓死させた象の夢を見ては、布団の中で藻掻いたことが何度もあった。
上野動物園園長に復帰した古賀忠道は、「動物園は平和の象徴」だと言い、食糧難と資金難の中、動物園の復興に取り組み始めた。
ちなみに大達茂雄は、後に第五次吉田内閣で文部大臣に就いている。この時から、文部行政は再び右に旋回した。
終戦から四年後の二十四年九月に、上野動物園に再びタイから子象が贈られて来ることになった。「花子」と呼ばれていたワンリーや、トンキーが死んでから、ちょうど六年の歳月が経っていた。その子象はワンリーと同じ「ハナコ」と名付けられた。彼女はきれいな花飾りを掛けられ、子どもたちの歓声で迎えられた。
続いてインドのネール首相が、本物の象を見たことがない日本の子どもたちが描いた「ぞう」の絵と手紙に心を揺さぶられ、自分の娘と同じ「インディラ」と名をつけた子象を贈ってくれた。インディラも華やかに飾られてお披露目された。ハナコとインディラは、平和と友好の象徴として各地を巡回し、子どもたちを喜ばせた。その後ハナコは井の頭の動物園に移っていった。
昭和二十六年、戦前から童謡の詩人として知られていた〈まど・みちお〉に、幼児教育家の酒田富治が幼児向けの詞を書くよう促した。まどは台湾で徴兵され、南方から復員すると工場の警備員などで糊口をしのいだ。その頃は知人に紹介されて児童雑誌の編集の仕事に就いていた。貧しく、生き延びるのに必死だった。
酒田に作詞を督促されたまどは、一枚の葉書に六編の詩をびっしりと書き込んで投函した。虫眼鏡が必要なほど小さな字である。まるで「ありさん」が書いた詩集のようではないか。彼が酒田富治に送った詞の中に、「ぞうさん」があった。
酒田は「ぞうさん」に自ら曲をつけた。童謡や童話作家の佐藤義美がその歌を聴き、「うーん、この詞と曲が合っていないよ。愛くるしい良い詩なのにもったいない」
と言った。酒田はしきりに頭を掻いた。佐藤は
「よし、ぼくが何とかしよう」
と言って、その詞をNHKに持ち込んだのは翌年のことである。ちなみに佐藤は後に「いぬのおまわりさん」の作詞で知られる。
そのころ團伊玖磨は、NHK専属の新進作曲家として地歩を固めていた。まどの「ぞうさん」の詞は團の目にとまった。彼は九年前の初秋、上野動物園の入口に設けられた葬式用の幕と「戦時殉難動物慰霊祭」の看板や、それを目にしたときの胸の痛みを思い出した。
團の中で「ぞうさん」のメロディはすぐに浮かんだ。「ぞうさん」はNHKのラジオで流されると、すぐに全国の幼童たちに歌われるようになった。
ぞうさん
ぞうさん
おはながながいのね
そうよ
かあさんもながいのよぞうさん
ぞうさん
だれがすきなの
あのね
かあさんがすきなのよ
上野のインディラの象舎の前で、團は東京放送児童合唱団の子どもたちにタクトを振って「ぞうさん」を初演した。それは母象にぴったりと寄り添う、愛くるしい子象の姿を歌ったものである。團と合唱の子どもたちは、その歌を何度も何度も繰り返した。するとインディラがその三拍子のゆったりとしたリズムに合わせるように、身体を左右に揺すり始めた。そして高々と鼻を上げて笑ったような表情を見せた。
福田三郎も菅谷吉一郎も渋谷信吉も微笑んだ。彼らの脳裏にジョンやワンリーやトンキーが浮かんだ。やんちゃで、きかん気だったジョン、素直で優しかったトンキー、甘えん坊で愛らしかったワンリー。ジョンの断末魔の声が耳朶によみがえった。必死に芸当を見せるトンキーとワンリーが、
「ねえ、上手にできたでしょう。ねえ、ご褒美に食べ物をくださいな」
と彼らに訴え、哀願する目を思い出した。胸にこみ上げるものがあり、彼らはそっと涙ぐんだ。
象は楽しそうに身体を揺すり、嬉しそうに高々と鼻を上げた。子供たちは歓声をあげ、口々に「インディラ~」と象の名を呼んだ。