大正十年の初夏である。せかせかと忙しそうな中年の女性秘書をつかまえて、一人の青年が吃るように懇願した。
「ほんのちょっとばがりでいいンです。智学先生とお話しする時間(じがん)はありませんか」
「またあなたですか。何度もお話ししたように、先生は大変ご多忙なのです。各界の要人の方々とのご面談のご予定でいっぱいなのです」
「そのご面談のあどでもいいンです」
「その後はご執筆の時間となっておられます」
女性秘書は階段を駈けるように上がっていった。青年は今日も取り付く島がなかった。
会館の玄関ホールの空気が変わった。数人の男たちにガードされるように、田中智学が入ってきた。男女の客人を伴っている。その場にいた人々は皆廊下の端に寄り、深々と一行に頭を下げた。先ほど青年につれなく当たった女性秘書が小走りに出迎え、腰を低くして先導した。東北訛りの青年は尊敬し憧憬する智学先生を間近に見て、その場に突っ立ったままであった。
「これ、道を空けて頭を下げんか!」
きつい目をした三十代半ばの僧侶風の男が、青年を鋭く叱責した。青年は慌てて壁際にへばり付くように身を寄せ、深々と頭を下げた。
智学の客人は新聞やポスター等で見かけたことのある顔であった。智学は手で客人を階段に誘いながら、太くよく通る声で話しかけた。
「わざわざ小田原からお出でいただき恐縮です」
「いえいえ、早くご挨拶に伺わねばと思いながら、どうも遅れて申し訳なく思っています」…
一行は階段を昇り、智学専用の応接室へ向かうようであった。張りのある智学の豪快な笑い声が会館に響いた。
階段へ客人を見送った人々が「北原白秋先生だ」「菊子さんもすっかり奥様らしくなられて…」と囁いた。青年は「あ」と思った。そうだ、どこかで見かけた顔だと思ったが、あの高名な詩人・北原白秋であった。女性は、つい昨年まで田中智学の秘書をしていた佐藤菊子女史で、この春白秋の夫人となったという噂を聞いた。
北原白秋の半生は火宅であった。実家の破産、姦通事件、離婚、困窮、結婚と失敗を繰り返していた。そして山田耕筰の紹介で国柱会の田中智学に会い、菊子とも邂逅し、彼女と三度目の結婚をした。菊子との結婚によって、白秋はやっと平穏を迎えたのであった。
ちなみに、つい先ほど青年を叱責した僧侶風の男は、事実日蓮宗の僧侶で、井上日召といった。後に團琢磨や井上準之輔を暗殺した血盟団というテロリスト集団を率いたことで、この僧侶は歴史にその名を残した。
田中智学が興した国柱会は、日蓮の「我れ日本の柱とならん」から名付けられた。「純正」日蓮主義を標榜すると共に、国粋主義、天皇主義を説く、強烈な右翼的日蓮主義者の団体である。智学は「日本書紀」の神武天皇の条より「八紘一宇」の言葉を造語した。後に「八紘一宇」は大東亜戦争における日本のスローガンとなったのである。
田中智学の国柱会館は下谷鶯谷に大正七年に落成した。以来、各界の要人、著名人が頻繁に出入りした。まさに政財界、軍の高級官僚、文学者、音楽家、芸能人と華麗なものであった。政治家では若き近衛文麿なども出入りしている。財界人では伊勢丹の小菅丹治、軍官僚では永田鉄山、板垣征四郎、若手の軍人では石原完爾、服部卓四郎…。文芸関係では高山樗牛、思想哲学では姉崎正治、音楽家では山田耕筰、信時潔、芸能人では尾上菊五郎…。そして怪しげな思想家・大川周明、北一輝…。
彼等は互いに引きつけ合ったのである。智学の説く日蓮主義と天皇主義、文明観、宇宙観、人生談、芸談は、とても魅力があったのである。また智学にとってこれら有名人は、実に有効な宣伝塔であった。東北訛りの無名の青年などの相手をすることは、智学にとって何ら魅力は無かったのである。
青年の東北訛りは、岩手県花巻周辺のものである。青年の名を宮澤賢治といった。信仰に関して両親と激論を交わし、この年の一月に故郷を出奔した。賢治は本郷菊坂の近くに下宿屋を見つけて、筆耕や校正の仕事を拾いながら自活していた。彼は時間を作っては積極的に街頭に立ち、奉仕の布教活動に務めていた。
賢治は智学と直接話を交わすことはできなかった。しかし国柱会の高知尾智耀から声をかけられ、何度か彼と話す機会があった。賢治は自らの文学の夢や、創作活動と信仰の齟齬についての迷いや悩みを、朴直に彼に打ち明けたのである。智耀は、いかにも重々しく賢治に言い聞かせた。
「ペンを執るものは、ペンの先に信仰の生きた働きが現れるものだ」…
いかにもそれらしく意味ありげで、何とも勿体ぶった言い様であるが、実のところ何のことかよく分からない。本当は特に深い意味などなかったのだ。智耀自身、純朴な東北の青年に上手く感銘を与えることができたとしか思っていなかった。しかし信仰に全身を浸していた賢治は、たちまちこの言葉に感ずるものがあったらしい。彼は本郷菊坂の下宿で、せっせと「注文の多い料理店」や「雪渡り」等を書いた。そのペンの先に信仰の生きた働きが現れたかどうかはよく分からぬ。
賢治が国柱会に入会したのは昨年のことである。宮澤家は代々浄土真宗を信仰していたため、賢治は父の政次郎や母のイチと口論することが多くなった。賢治は両親に強く改宗を迫った。また山梨県韮崎に戻った親友の保坂嘉内にも、熱心に入会を勧めた。保坂は賢治が勧める法華経を理解しようと努め、法華経を学んだ。国柱会についても知ろうとした。しかし彼が入会することは決してなかった。
賢治には保坂以外に、不思議なほど友達がいない。これほど友人というものを持たない人も珍しい。賢治にはなぜ友人ができなかったのだろう。この賢治をめぐる寂寥感はどうであろう。唯一の友、それも親友、心友が保坂嘉内なのである。
賢治も保坂も理想主義者だった。二人は学生寮の同室で、文学を通じて親しくなった。彼等は文学や哲学を語り明かし、作品を見せ合った。賢治の保坂に対する感情は、友情を超えたものがあった。それが賢治の性向なのである。
賢治は本郷菊坂の下宿から、かなりの頻度で両親や保坂に国柱会入りを勧める書簡を出し続けている。勧誘ばかりではないが保坂への手紙は七十通に及んでいる。そしてとうとう、保坂嘉内というかけがえのない唯一の親友を失うに至った。賢治が法華経と国柱会入りを勧めれば勧めるほど、保坂は賢治が理解できなくなっていった。すでに賢治と保坂は、遠く懸け離れてしまったのだ。
この年の秋、妹のトシの容態が悪化したとの報せが賢治に届いた。トシ子は賢治にとってもう一人のかけがえのない存在だった。賢治はトシの看病のために、蒼惶として帰郷した。賢治のトシに対する感情は、妹への愛情を超えたものがあった。それが賢治の性向なのである。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ(雨雪を取ってきてちょうだい)」
とトシは、全く生色を失った唇で、看病する兄に喘ぐように甘えた。兄は
「おゝ待ってろ、とてきてやっぺ」
と、どたどたと家中の物にぶつかりながら、変に明るい霙まじりの雪降る戸外に飛び出した。賢治は
「けふのうちに とほくへいつてしまふ」
妹のために、縁が少し欠けた二つの藍模様の陶椀に、かき氷のような雪を掬って泣いた。妹は、賢治にとって全く特別な存在だったのだ。
愛する「けなげないもうと」トシ子の死は賢治に深い喪失感をもたらした。また彼の詩や童話に宇宙的な幻想性と陰翳をもたらした。
賢治は彼だけの法華経の宇宙をひとり遊泳し、あのように親友の保坂嘉内を失い、このように妹のトシを失って、寂寞とした幻想宇宙を、孤独に彷徨した。彼はその詩や童話を鈴木三重吉の主宰する「赤い鳥」にも寄稿したが、三重吉は賢治の作品が全く理解できず、それを評価することはなかった。
賢治は現実と夢想の境界が幽かになった世界を生きていた。愛する岩手をエスペラント風に造語して、理想郷を意味する「イーハトーブ」と名付けた。
海を見たことがない貧しい農学校の生徒たちのために、北上川と瀬川の合流する川岸を「イギリス海岸」と名付け、生徒たちの水遊びの場を作った。イギリス海岸としたのは、川底の白い泥岩層がドーバー海峡のものと似ているからだそうである。
賢治はその海岸に見立てた岩の上を叫びながら跳びはね、生徒たちを笑わせた。
突然、田の畦道を奇声を挙げて走り出し、踊って、生徒たちを呆然とさせた。
そして、
ウォーーー、海(うンみ)だべがど思たればァ、ハァやっぱス光(ひが)る山(やンま)だたぢゃい、
と雄叫ぶように詩った。
ホウーーー、髪毛(げ)ェ風吹げばァ鹿(すィすィ)踊りだぢゃい…。
羅須地人協会を設立し、篤農家や青年たちに稲作等を教え、肥料の開発に当たった。鉱物や地質学に興味を抱き、石を収集した。天文学に強い関心を示した。賢治は多忙だった。そして彼は「…どこまでも孤独を愛し、熱く湿った感情を嫌」っていた。
それらが法華経信仰の具現化なのか、どうも判然としない。特に強烈な右翼的国粋主義・天皇主義の日蓮主義が、どんな「信仰の生きた現れ」として賢治の行動や作品に反映したのか、どうもよく分からない。賢治は、深い謎なのである。
過労と栄養失調で急性肺炎に倒れた賢治は、その後体力が衰え、すっかり病気がちになった。三十五歳のとき「風の又三郎」を書いた。「風の又三郎」のどこに法華経信仰が現れたというのだろうか。
上京したおり発熱し、這々の体で帰郷した。彼は死を覚悟し、手帖に「雨ニモマケズ」を書き記した。さらに「遺書」を残した。その日付は昭和六年「九月二十一日」である。
この前後の話しとなるが、昭和六年、石原完爾は満州事変を引き起こす。翌年に満州帝国が建国され、山田耕筰がその国歌を作った。国柱会に出入りしていた軍人たちはますます増長し、傲慢に威張り散らし、侵略を推進した。僧侶の一人はテロリストの頭目となり、怪しげな思想家たちは若手の将校たちのファッショ思想の背骨となって彼らを唆し、また彼らは維新だ革命だ天皇御親政だと、五・一五や二・二六事件を引き起こした。
昭和八年、ついに宮澤賢治が病死した。その日付は「九月二十一日」であった。看取った両親への遺言は、法華経を頒布して下さいというものだった。彼の遺骨は日蓮宗の古刹、身照寺に葬られた。賢治は三十七歳で逝ったのだが、彼が生前身を置いた場所の片隅には、はにかむような笑みを浮かべた少年の霊が佇んでいる…。賢治とはそういう幻影を残す謎なのである。
その翌年、北原白秋は「赤い鳥」の鈴木三重吉と絶交している。絶交の本当の原因は知らない。伝えられるところによれば方針の違いということだが、三重吉は思いこみの激しい我が儘な性格で、喧嘩っ早く、酒癖が悪かった。酔っては師である下戸の夏目漱石にもからみ、突っかかった。白秋も大の酒好きで、豪宕でやんちゃで我が儘で癇癪持ちで喧嘩っ早い男だったから、ぶつかるべくしてぶつかったのであろう。
昭和十一年、その三重吉が癌で死んだ。二人が仲直りすることはついになかった。
三重吉の死から一年、白秋は糖尿病のため、その視力を失った。白秋は山田耕筰らに促されて軍歌の詞作をしている。天才白秋の、言葉の華や優しさに満ちた風韻は、すでに失われていた。
昭和十四年に日本文化中央連盟の委嘱で交声曲詩編「海道東征」(信時潔作曲)を書き、長唄「元寇」を書いた。他につまらぬ軍歌の詞を書いた。
ここで逸脱を許されたい。信時潔のことである。おそらく彼は、交響曲を書かせれば当時最も優れた作曲家だったのではないか。この田夫野人の風貌をした右翼国粋主義的音楽家は、戦後は全くといってよいほど公的な場や表に出ることを控えた。己の思想信念に殉じ、自ら厳しく身を律したのである。もし彼が戦後に映画音楽などを手がけていたら、世界は信時潔の作り出す荘厳に瞠目したことであろう。
かつて白秋の私生活は「桐の花事件」として有名な姦通罪事件や、実家の破産と貧窮、離婚等で乱れ、詩壇の寵児の名声も地に堕ちた時代があった。その後、鈴木三重吉に誘われ「赤い鳥」運動に参加することで、彼は大きな新生のきっかけを掴んだのである。白秋がその詩作や童謡で見せた天才性は実に輝かしいものであった。また弟の鉄雄とはじめた阿蘭陀(おらんだ)書房、後のアルスの出版事業も価値が高い。
たしかに、菊子夫人は素晴らしい女性で、彼女との出会いと結婚が、白秋に真の清貧の思想と詩想、静謐と平和な家庭をもたらしたのである。
だが白秋はその詩業の晩節を貶めたかのようだった。まさに右翼的国粋主義をとる国柱会の日蓮主義こそ、白秋にとっての「邪宗門」ではなかったか。
そして若い賢治の「春と修羅」ではなかったか。しかし死んでからの賢治は、「よだかの星」のように輝いた。