土井(つちい)林吉は当初両親から進学を許されなかったため、第二高等中学に入学した時は、同級生の中では最も年を食っていた。親しくなった同級生にずっと年下の吉野作造がいた。林吉がその号を晩翠と名乗ったのは、その二高時代の明治二十六年のことであった。晩翠は二十二歳である。新体詩を試み、すでに高踏で重厚な詩格を備えていた。
同年、夏目金之助は帝国大学の英文科を卒業し、柔道の創始者で高等師範学校校長の嘉納治五郎に熱心に勧誘され、同校の英語教師となった。さて治五郎と金之助の関係である。ある時治五郎は、学生たちが壮士風の男たちに因縁を付けられているのに出会った。助けてやろうと思ったが、向こうっ気の強そうな二人の学生が、壮士たちの前に立ちはだかり、逆に彼等をやり込めていた。それが金之助と正岡升(のぼる)だったのである。「ほおう」治五郎は彼等が気に入った。むろん金之助はそんなことは覚えてもいなかった。
彼はすでに漱石という雅号を名乗っていた。四年前、大学予備門で出会って親しくなった正岡升(子規)から譲り受けた名である。漱石は愚陀仏という俳号も使用していた。
明治二十七年、晩翠は住み慣れた仙台を後にし、東京帝国大学の英文科に進んだ。入れ替わるように島崎春樹(藤村)は仙台に赴き、東北学院で教師となった。かたわら、詩作に没頭した。繊細な抒情性にあふれた詩である。
この年、滝廉太郎は大分県竹田から東京音楽学校入学を目指して上京し、義兄の建築家・滝大吉宅に寄寓した。音楽の道に進みたいと言った廉太郎に、父の吉弘が大反対した。それを説得したのが大吉である。廉太郎は東京音楽学校助教授の小山作之助の私塾・芝歌唱会に通い受験に備えた。小山はすぐにこの少年の並々ならぬ才能に気づいた。その秋、最年少の十五歳で仮入学を果たした。小山が学校の教授たちに強く推挽したのである。
晩翠が夏休みで帰郷した時のことである。二高と帝大の先輩である玉虫一郎一が、
「友人の夏目君がいま塩竃、松島を旅行中で、菖蒲田海水浴場のホテルに宿泊しているから会いに行く。君の帝大英文科の先輩だ。挨拶しといたがいい」
と晩翠を誘った。これが晩翠と漱石の初めての出会いであった。夏目先輩は寡言で厳粛であったという。つまり不機嫌だったのである。その後も晩翠は玉虫に同道し、本郷の漱石の下宿に遊びに行っているが、漱石はやはり不機嫌であった。彼には神経衰弱と胃弱の兆候が現れており、肺疾にも罹患していた。肉体的にこれほど不快なことはない。君、あははなんてお気楽に笑えるものか…。
翌二十八年、島崎藤村は東京に移り、第一詩集「若菜集」を刊行して一躍詩壇の注目を集めた。彼はその後も「一葉集」「夏草」と発表を続けた。
この年、夏目金之助は高等師範学校を辞し、嘉納治五郎の紹介で愛媛尋常中学(旧制松山中学)に赴任している。松山は親友の正岡子規の故郷である。しかし彼は、「先生…ぞなもし」という学生たちの、何とも人を小馬鹿にしたような、のんびりとした締まりのない話し方や態度に苛ついた…「ずいぶん馬鹿にしてやがる」。学生たちは学校伝統の「先生数え歌」に「七つ夏目の鬼瓦」と金之助を歌い込んだ。彼は鬼瓦のように恐い仏頂面をしていたのだ。いつも不機嫌だったのである。
廉太郎は晴れて本科に入った。同級生に幸田幸(こう)がいた。彼女の姉の延(のぶ)は東京音楽学校の講師である。姉妹の兄は幸田露伴であった。廉太郎と幸は互いに意識し合った。「あの人には負けられない」…それは小さな恋だったかも知れない。
明治二十九年、島崎春樹(藤村)は東京音楽学校選科に入学し、奏楽堂で若き天才・滝廉太郎のピアノ演奏に耳を傾けている。
夏目漱石は「せいせいしたような」気持ちで愛媛尋常中学を辞し、熊本の第五高等学校に赴任した。かたわら「ホトトギス」に掲載された俳句で、その名を俳壇に知られつつあった。また彼は中根鏡子と結婚したが、彼女はヒステリー症で自殺未遂騒ぎまで起こした。漱石自身にも再び神経衰弱の兆候が出た。
晩翠は明治三十年に東京帝大を卒業後、本郷の郁文館中学で英語を教えた。英文を読んでは訳出する授業で、発音にも訛りがあった。バイロンの詩を訳し、カーライルの「英雄論」を訳し刊行した。またその頃に書いた詩は、明治三十二年に第一詩集「天地有情」として刊行された。漢文調の気品と悲愁を帯びた詩である。晩翠は、先に詩集「若菜集」を出していた島崎藤村とともに詩壇の寵児となり、「藤晩時代」と称されるようになった。晩翠はこの年、東京音楽学校の学生だった林八枝と結婚した。媒酌人は帝国大の先輩で国文学者の芳賀矢一である。
明治三十三年、晩翠は第二高等学校に教授として赴任した。この頃、廉太郎は日本初の組曲「四季」に取り組んでいた。武島羽衣の詩に曲をつけた「花」はその最初の曲である。
文部省が東京音楽学校の教師の中からドイツに留学生を派遣することになった。廉太郎と羽衣はそろって申請した。健康診断で廉太郎はすこぶる健康と診断されて合格し、羽衣は繊弱として落とされた。廉太郎の出発は六月とされたが、彼は文部省に出発の一年延期を願い出て了承された。この間に廉太郎にはどうしても試したい音楽、作りたい曲が山ほどあったのだ。彼は組曲「四季」を完成させた。
晩翠に文部省から中学唱歌用の詩作の依頼が来た。曲は懸賞募集するという。晩翠は「荒城の月」を書いた。廉太郎は「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」の三編の詩に曲を付けてこれに応募し、全て中学唱歌として採用されることになった。彼は何かに憑かれ生き急ぐように「お正月」「鯉幟」「桃太郎」などを作曲した。おそらくこの間に彼の胸に病魔が忍びこんだのだろう。
漱石は文部省から「英語研究」のためのイギリス留学が命じられた。晩翠の媒酌人をつとめた芳賀矢一も、文献学研究のためドイツへの留学が命じられた。
漱石らの送別会が神田一橋の学士会本館で開かれ、そこには仙台から駆けつけた晩翠も列席した。晩翠は留学する先輩たちを見ながら、羨望と焦燥感を抱いた。九月、漱石、芳賀矢一ら総勢五人の留学生は、プロイセン号で横浜港を出航した。彼らは上海、福州、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデン、ポートサイト、ナポリ、ジェノバに寄港し、パリ万博を見学した後、十一月それぞれの留学地に散っていった。
年がかわり、ロンドンの漱石は激しく落ち込んでいた。容易に通じぬ英語、官給が物価高に追いつかぬ生活不如意と人種差別に傷つき、大学の聴講も無意味に思え、英文学に違和感を抱いた。彼は下宿を転々とした。
晩翠と廉太郎の「荒城の月」が載った「中学唱歌集」が刊行された。しかし晩翠と廉太郎が会う機会はなかった。
四月、廉太郎は恩師ラファエル・フォン・ケーベルの紹介状を持って、ライプツィヒ王立音楽院に向かった。ケーベルは父がドイツ人、母がロシア人の、ロシア生まれである。チャイコフスキーに師事し、モスクワ音楽院を出た。明治二十六年から帝国大学でカント等のドイツ哲学、ギリシア哲学、哲学史、西洋古典学を講じた。漱石や姉崎正治、岩波茂雄、安倍能成、阿部次郎、和辻哲郎、九鬼周三らは彼の教え子たちである。東京音楽学校ではピアノを教えた。後にケーベルは第一次世界大戦の勃発のため帰国を果たせず、大正三年に横浜で死んだ。
廉太郎は六月にライプツィヒに到着した。王立音楽院の試験にも合格し、九月から授業が始まった。十一月、オペラを観劇に行った夜、ぞくぞくと悪寒を覚えた。風邪のようである。しかしその風邪は長引き、気だるく微熱と咳が続いた。診察した医者から肺病と告知された。
このライプツィヒで廉太郎は、宗教学の研究のために官費でドイツに留学していた姉崎正治と出会った。姉崎は廉太郎の健康や生活を気遣い、親身になって世話を焼いた。この後、姉崎はイギリスに渡っている。
晩翠は第二詩集「暁鐘」を刊行した。同郷の先輩で赤痢菌の発見者、志賀潔が官費留学生としてドイツのフランクフルトに赴くことになった。羨望と焦燥が晩翠をとらえた。彼は二高教授を辞し、父を説得して私費で欧州に遊学することにした。六月に晩翠は常陸丸で日本を発った。この常陸丸は後の日露戦争の際に撃沈されている。
八月、ロンドンのヴィクトリア停車場に彼を出迎えてくれたのは、夏目漱石であった。駅でも道でも、晩翠は臆せずイギリス人に話しかけた。彼の英語は仙台訛りである。いっこうに通じぬのに平気で話しかける晩翠を、漱石は呆れたように見やった。漱石は晩翠をクラパム、コンモン付近の下宿屋まで案内し、その後も何かと面倒を見た。漱石は意外に面倒見のよい男だったのである。
しかしこの1901年(明治三十四年)、漱石の気鬱は重くなるばかりであった。ドイツのライプツィヒに留学していた化学者の池田菊苗が、ロンドンに半年ばかり滞在した際、漱石の下宿に二ヶ月間滞在してくれた。親しい池田と暮らして、漱石は少しばかり明るくなった。この池田が味の素の素なのである。
実証主義の科学は良い、訳の分からぬ文学などよりずっと良いと漱石は思った。彼は研究に熱中する科学者というものが好きになった。後に寺田寅彦を可愛がったのも、寅彦が科学者だったからである。
池田に触発された漱石は、下宿に籠もって研究に没頭するようになった。文部省へ送る申報書は白紙で提出するようになり、留学生仲間との交流も疎遠になった。漱石の下宿屋を訪ねた晩翠は、女主人のリイル婆さん姉妹から漱石の様子を聞いた。婆さんたちはこの下宿人の健康、特に精神状態を心配していた。晩翠は漱石に気晴らしをさせるため、十日ほど彼の下宿に泊まって話し相手になった。漱石にとって晩翠の存在は鬱陶しく、邪魔だったにちがいない。漱石は話などしたくなかったのだ。
この年、島崎藤村は詩集「落梅集」を出した。この中に、後に親炙する唱歌となった「千曲川旅情の歌」と「椰子の実」が収められていた。
1902年(明治三十五年)三月、東京音楽学校のオルガニスト島崎赤太郎が、文部省の官費留学生としてライプツィヒに渡った。彼のライプツィヒ王立音楽院での授業は九月からである。赤太郎はいよいよ病の重くなった廉太郎の世話を、何かと焼いた。彼は帰国することになった廉太郎の手続きや、船の切符の手配などに奔走している。
廉太郎が赤太郎に付き添われてベルギーのアントワープに着き、日本郵船の若狭丸に乗船したのは八月二十四日で、二十三歳の誕生日だった。若狭丸はその日の午後五時に、ロンドン郊外のテムズ川河口のチルベリー・ドックに入り、ここで五日間停泊した。
この間、姉崎正治が土井晩翠を伴って若狭丸の滝廉太郎の船室を訪ねた。廉太郎の見舞いと誕生日祝いと、惜別の訪問である。晩翠にとっては「荒城の月」の作曲者との初めての顔合わせであった。
「いやあ、たぎさんですか。おはづにお目にかがります、〈つぢい〉です。あ、いやいや、〈どい〉でけっこうです」
「晩翠先生、初めまして、滝です」
晩翠と廉太郎はお互いに手を取り合い、喜び、思わず涙ぐんだ。晩翠は
「たぎさんには素晴らしい曲を書いでくださって、本当に感謝してます。あなだのお陰で『荒城の月(つぎ)』は後世に残ります」
と言った。廉太郎は
「いえいえ、晩翠先生の詩が素晴らしいのです。あの詩に巡り会えて幸せです」
と頬を赤らめた。姉崎はかたわらで微笑み、二人を羨ましそうに見た。
姉崎と晩翠は、ワグナーの「ニーベルングの指輪」第二夜「ジークフリート」のピアノ連弾譜を廉太郎に贈った。
晩翠は
「元気になったら、まだわだしの詩さ曲を付けてください」
と言った。廉太郎は
「ええ、ぜひ、ぜひ」
と言った。
晩翠は
「まだ日本でお会いしましょう」
と言って、廉太郎の女性のような小さな柔らかい両手を強く握った。
「ええ、ぜひ、ぜひ」
と廉太郎は繰り返してその手を握り返した。しかし彼らの再会が叶うことはなかった。
若狭丸はコロンボ、シンガポール、香港を経由し日本に向かった。航海の途次、廉太郎は島崎赤太郎に二度手紙を出している。十月十五日に神戸に入港すると、安達孝子が廉太郎を出迎えた。彼女は東京音楽学校の同級生で神戸第一女学校に音楽教師の職を得ていたのである。二日後、船は横浜に着いた。廉太郎は義兄の滝大吉の家に直行し、身を寄せた。
晩秋、その大吉が脳溢血で倒れ、ほどなく逝った。彼の死は廉太郎に激しい衝撃と深い悲しみを与えた。廉太郎は両親の暮らす大分に帰った。この大吉の死は、廉太郎の心身に大きな打撃を与えたものと思われる。
晩翠と姉崎が廉太郎を見舞い、見送った秋、芳賀矢一は彼らからロンドンにおける漱石の噂を耳にした。下宿の部屋をほとんど出ない、誰とも付き合いたがらない、相当神経が参っている、と聞いた。芳賀は漱石を心配した。
「夏目はろくに酒も飲まず、あまりにも真面目に勉強に根を詰め過ぎたのだろう。予定の留学期間はまだ少し残っているが、早めに帰国させたほうがよいのではないか」
と、芳賀は文部省にいた親友の上田萬年に連絡を入れた。やがて姉崎はインド留学に向かい、晩翠はフランスとイタリアの旅に出た。
漱石の気分をさらに悲しませ沈ませる報が届いた。親友の正岡子規の死である。漱石は周囲の勧めと文部省の帰国辞令を受けて、十二月五日にロンドンを発った。同船にはドイツ留学を終えた精神科医の斎藤紀一がいた。航海中、彼は何度も漱石に話しかけたが、漱石は言葉少なく無愛想であった。斎藤は機知に富んだ話し上手で、壮大な話題を好んだが、漱石にはその全てが煩わしいのである。
ちなみに斎藤は彼の故郷山形の少年を、将来娘の婿とすべく家に置いて学ばせていた。彼の名を守谷茂吉という。後の精神科医で歌人の斎藤茂吉である。
さて、その船が長崎に入港したのは、明治三十六年の一月二十日のことである。
大分に戻った廉太郎が、昨秋から取り組んでいたメヌエット「憾(うらみ)」を二月に完成させた。これが彼の遺作である。曲名にその想いが込められているようで悲しい。六月二十九日、この不世出の天才は早すぎる死を迎えた。留学審査の健康診断で合格した廉太郎は、留学早々に病を得て早世し、不合格となった武島羽衣は九十五歳まで長生した。
イギリスからインドに回った姉崎正治は、帰朝後、東京帝国大学に宗教学講座を開いた。
漱石は親友の狩野亨吉の誘いで、彼が校長を務める第一高等学校と、東京帝国大学の講師となった。明治三十七年の末、漱石は「我が輩は猫である」を書き始め、翌年の一月に「ホトトギス」に発表した。彼は動物好きである。猫は無論、犬や文鳥も飼っていた。ちなみに「猫」の苦沙彌先生は狩野亨吉がモデルになった。黴臭い古書に囲まれながら暮らしていた亨吉は、クシャミが止まらなかったらしいのだ。「それから」の長井代助も彼がモデルと言われている。亨吉の専門は数理哲学なのだが、志築忠雄や本多利明、安藤昌益を発掘した大学者である。
晩翠は日露戦争のさなか帰朝し、仙台の第二高等学校の教授に復職した。漱石は「倫敦塔」と「坊っちゃん」を書き、その文名を高めた。
ドイツで文献学を学んで帰朝した芳賀矢一は、文部省から委嘱を受けて国定教科書「尋常小学読本」の編纂校閲や、「尋常小学唱歌」の歌詞校閲や作詞、補作に携わった。また明治三十九年に帰朝した島崎赤太郎も、音楽教育者、オルガニストとして活躍し、「尋常小学唱歌」「中学唱歌」の編纂委員となった。
島崎藤村は詩作から小説に転じ、詩壇に於ける藤村晩翠時代は終わった。
明治日本は、西洋の工業技術、軍事技術、科学や医学そして社会制度やその基礎をなす思想哲学や法学等を貪婪に吸収移植しようとし、富国強兵策を打ち出していた。それにしてもその中にあって、文学や音楽、果ては文献学や宗教学という一見不急の摂取に、よくぞ実に多くの留学生たちを送り出したものである。ちなみに漱石がロンドン留学で得た結論は、文学なんてものは不要不急なものである、というものだった。
春高楼の花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝わけいでし
むかしの光いまいずこ天上影は替わらねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
嗚呼荒城のよわの月