掌説うためいろ 椰子の実

宿の人が恋路ケ浜というのだと教えてくれた。その浜の名が、青年の胸に少し切ない想いをよみがえらせた。教えられたとおり、小山の裾を東へ回って、松林の外に出る。浜辺が広がり、汐風が吹き渡っていた。
それからというもの、雨の降っていない日は毎朝夕その浜辺を散策した。昼の間は宿の部屋で読書をし、倦めば外に出かけ、土地の人たちと話を交わした。

草履を通して伝わる砂の感触が足裏に心地よい。潮の香が心地よい。頬を撫でる朝の風が心地よい。松岡國男は両手を広げて伸びをした。穏やかに寄せては引く汀をゆっくり歩いた。足指の間に砂が入った。と、風が彼の袂や袴を旗のようにはためかせた。
今の汀線より一、二間も先に藻屑や木切れが黒い汀線を残している。昨夜は風が強かったため、吹き上げられ、流れ寄ったものであろう。
舟の出入りには使われそうもない湾曲した砂浜が四、五町ほど続き、それに沿うような黒松林の上空に、二羽の鳥影が見えた。それは中空に浮かんだまま、ほとんど動かず、その高度は測りがたかった。トビだろうか。いやトビより少し小さいようだ。おそらくあれが、西行が歌に詠み芭蕉が句に詠んだ、サシバという鷹だろうと見当をつけた。その鳥は不意に素晴らしい速さで横に滑空し、やがてさらに上空に舞った。羽ばたくでもないのに、不思議な、見飽きぬ動きである。風に身を委ねつつ自在な飛翔を操っているのだろう。この鷹は春から初夏の季語なのである。
國男は西行の「山家集」の歌を思い浮かべ反芻した。

      巣鷹渡る伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな

彼は芭蕉の「笈(おい)の小文」の中の一句も思い浮かべた。当時、弟子の杜国が商い事で罪を問われて、流寓の身に堕ちており、芭蕉は彼を慰め励まそうと訪ねる旅の途次であった。芭蕉は敬愛する西行が詠んだ伊良湖岬を見たいため、わざわざ道を変えて立ち寄ったのだ。彼は伊良湖岬の上空にサシバを見つけ、実に素直な句を詠んだ。

      鷹ひとつ見付けてうれしいらご崎

西行や芭蕉を思い浮かべ、その句を諳んじる國男は、典型的な文学青年であった。少年時代から膨大な書物を濫読し、実際の年齢よりずっと老成した面立ちをしていた。自らも歌を詠み、新体詩も作っていた。
サシバという鷹は四月から五月頃に日本に姿を見せる渡り鳥であると聞く。ニューギニアや東南アジア辺りから、台湾、八重山列島を渡り、宮古島を経て、沖縄、奄美諸島を超えて、佐多岬や伊良湖岬に集結してくるのだという。彼らは季節の変化に乏しい熱帯や亜熱帯にいながら、どうやって日本の春や初夏を知るのだろう、と國男は考えた。彼らは気流を体感する。その気流には大陸の季節の変化を報せる匂いがあるのかも知れない。その気流の吹き渡る先に、空の道ができるのだろう。彼らはその空の道を飛んで来るのだ。東京に帰ったら一度調べてみようと國男は思った。このような仮説と論証のための知的探求欲は、文学青年に似ぬ彼の資質なのであった。

國男は藻屑や木っ端の黒い汀線の中に、黒い楕円の球体を見つけた。何だろうと近づいてみると、その楕円の球体は二つに割れており、真っ白な果肉が露出していた。國男はしゃがみ込んでしばらく観察した。椰子の実のようだ。木切れを拾い突いてみた。転がしてみた。けっこう重いものだ。これが海面に浮くのである。國男はさしたる詩的感慨は涌かなかったが、その椰子の実が辿った遙かな波路の旅に驚いた。彼はようやく立ち上がって、再び浜辺の散歩に戻った。…椰子は南国の植物である。さすればあの実は、どこか南の島から黒潮に乗って流れて来たに違いない。國男はその事実に刮目した。
國男は再び上空にサシバを見つけた。鳥は四羽に増えていた。空中戦をしているらしい。サシバが二羽、カラスらしいのが二羽である。サシバに気流という渡りの道があるように、流れ着いた椰子の実にも海の道があるのだろう。遠い昔、我々日本人の祖先は、その海の道を、黒潮海流に乗って渡って来たに違いない。…
この夏休みの間、國男は親しくなった地元の漁師たちに頼んで、ときに船遊びをし、伊勢の海や神島に渡ったりもした。彼は神島の習俗に瞠目し、強い関心を示した。東京に戻ったら、一度じっくりと調べてみよう。…これが彼の資質なのである。

東京帝国大学の学生、松岡國男は苦悩を伴う激しい恋をし、その挙げ句失恋してしまった。彼はさらに失恋に懊悩した。國男はその悲傷をいつまでも引きずっていた。
國男は友人の国木田独歩に、その心の苦しみを打ち明けた。詩人の独歩は、惚れやすく、思いこみが激しい青年で、彼もまた、恋に勝手に苦しみ、武蔵野の雑木林をほっつき歩いて苦しみを紛らわしていた。独歩は親身に國男の恋の悩みに耳を傾け、同情し、うっすら涙すら浮かべた。同病相憐れんだのである。しかし女々しく俯く二人の青年に、効果的な薬も解決策のあるはずもなかった。
と独歩が顔をあげ
「あ、君の悩みを解決する良い方法がある」
と言った。
「え」
と國男も顔をあげた。
「どこかの山の湯治場か海辺にでも行ったらどうかね。旅はよい気散じになるし、精神の苦痛を和らげ、癒してくれるよ」
と独歩は言った。
「なんだそんなことか」
と、國男はまたがっくりと項垂れて、洟をすすった。
「君は路銀の苦労はあるまい」
と、独歩は言葉を続けた。
「僕はあまり金がない。だから歩いても行けるこの周辺の雑木林を彷徨ってるのさ。金はかからん…」
と独歩は勝手に喋り続けた。哀愁も翳りもない即物的な物言いである。國男は詩人が少し嫌いになった。

國男の懊悩は続いた。彼はついつい、文学仲間の一人である田山花袋にその胸の苦しみを打ち明けてしまった。花袋の魁偉な獅子頭のような顔の真ん中には、大きな鼻がデンと胡座をかいていた。彼は小鼻をうごめかし、大きな黒々とした鼻の穴を広げた。そして「ふんふん」と、親身に國男の悩みに耳を傾ける様子を見せた。花袋は別に同情したわけではない。いい小説のタネを見つけたと考えただけである。いかに図々しい花袋でも、まさか懊悩する國男を前にしてメモはとれない。だから勝手にぼそぼそと、ときに涙ぐみ、洟をすすりながら語る國男の物語を、「ふんふん」と、一言洩らさず聞き逃さず、記憶しようとしていたのである。
話し終わった國男は、ふと花袋の尋常ならぬ様子に気づいた。花袋は腕を組み、その大きな顔の大鼻に乗せた眼鏡越しから、上目づかいで中空を睨み、ぶつぶつと何かを呟いていた。よく聞けば、いま語り終わった國男の恋の物語を、一語一句牛のように反芻していたのである。國男は小説家が少し嫌いになった。そして花袋に打ち明けてしまったことを、少し後悔した。
やがて花袋は言った。
「君の今の恋の話は、僕以外の誰にも話さぬがいい。…大丈夫、僕は口が堅いから、そこは安心したまえ」
と花袋は請け合った。國男は少し嫌な予感がした。この後、やはり花袋は、これを小説にした。

松岡國男は明治八年、兵庫県神崎郡福崎町に父・操、母たけの六男として生まれた。操(賢次)は医者であり、儒者でもあった。國男が十一歳のおりに旧家の三木家に預けられた。彼はここで三木家の蔵書を読み漁っている。十三歳のとき、長兄で医者の鼎に引き取られ、茨城県の利根川の河畔に暮らした。隣家に膨大な蔵書を持つ家があり、國男はここでも濫読した。
それから三年後に上京し、井上家の養子になっていた兄の通秦と暮らすことになった。通秦も医者であった。通秦は森鴎外と親しく、その紹介で鴎外と知り合った。通秦は読書と文学好きの國男に、親しい詩人や歌人を紹介した。國男は新体詩を書き、歌を詠んだ。鴎外の「しらがみ草紙」や「文学界」「国民之友」「帝国文学」等に投稿した。この縁で、蒲原有明、国木田独歩や田山花袋、島崎藤村らと知り合い、親しくなったのである。特に独歩や藤村とは、宗教、恋、芸術などの話を交わし、互いに刺激し合った。國男は第一高等学校から東京帝国大学に進み、農政学を専攻した。
兄の井上通秦は実に交友の広い人であった。その友人の中に何人かの画家がいた。弟の松岡輝夫は彼らの影響を受けて、後年日本画家の道を歩み、その号を映丘と名乗っている。
兄の家に出入りしていた画家の一人が國男に言った。
「伊良湖崎は素晴らしい土地だ。騙されたと思って、ぜひ行ってごらん」…
彼は会うたび國男に勧めた。明治三十一年のことである。國男もやっと失恋の悲しみが薄れ、そろそろ大きな転機を迎えねばと考えていた。たしかに気分転換も良いだろう。彼は画家の勧めに従い、夏から初秋の二ヶ月間を伊良湖で過ごすことにした。
國男はその夏、滞在した伊良湖岬で、流れ着いた椰子の実を三度も見た。

夏休みが終わり、東京に戻った國男は、家も近かった島崎藤村を久しぶりに訪ねた。彼は伊良湖岬で、西行や芭蕉が詠んだサシバという鷹を見たことを話した。藤村は鳥にはさして感興を持たなかったようである。神島の話にもほとんど興味を示さなかった。
國男が浜辺で漂着した椰子の実を見たと話したときである。藤村は目をきらきらさせた。そして
「君、その話、僕にくれたまえ」
と言った。
「な、その話、ぜひ僕にくれたまえよ」
と繰り返し、國男に躙り寄った。懇願である。國男は
「えゝいいですよ」
と了承した。藤村はさらに言った。
「うん、この話、秘密にしてくれたまえよ」
「え?」
「君が伊良湖で椰子の実を拾ったことを、誰にも話さないと約束してくれたまえ」
「わかりました。いいですよ」…
國男は詩人が少し嫌いになった。
島崎藤村はその年の内に、いや、話を聞いたその週の内に「椰子の実」を書いた。それから時間をおき、何度も推敲を重ねた。その推敲は年を越しても続けられた。藤村は、何度も何度も、舌の上に言葉を転がすように、推敲した。
明治三十三年、藤村は「新小説」に「海草」という題名を付して、五編の詩を発表した。その中の一編が「椰子の実」である。藤村は國男に
「おい、あれ、もらったよ」
と伝えた。

    名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

旧(もと)の木は生いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ

実をとりて胸に当つれば
新たなり流離の憂(うれい)
海の日の沈むを見れば
滾(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々
いづれの日にか国に帰らむ

詩を読んで國男は微苦笑した。さすが藤村は詩人である。自分は実を木片の先で突いたり転がしてはみたが、「実をとりて胸に当つれば」なんてことはしなかった。「流離の憂」も湧かなかった。「滾り落つ異郷の涙」とは何と大仰な…。しかし、さすが一流の詩人の言葉は違うものだ。自分が想ったのは、遠い日本人の祖先たちが辿った波路であった。稲が辿った旅路であった。黒潮の道であった。我々日本人の起源のひとつは、南海にあるのではないか…。

國男はほとんど詩歌を書かなくなった。全く興味が薄れたというわけではない。相変わらず多数の文学書を読み、相変わらず独歩や花袋、藤村、小山内薫らと交流した。しかし國男の読書は、傾向的に農政学などの専門研究書や、膨大な歴史や伝承の書物に移行していた。
その年の七月、國男は東京帝大を卒業し、農商務省に入省した。官僚の道を進んだのは、畏敬する森鴎外の姿勢に倣ったのである。あのように両立は可能なのだ。
國男は調査や指導、講演のため、あちこちの農山村に出かけ、早稲田大学で農政学の講義をした。彼は訪れた土地の歴史や伝承、文物に惹かれた。各地の方言や、民俗の差異と共通点に瞠目した。佐々木喜善と出会い、彼の郷土である岩手県の遠野に強い関心を抱いた。
明治三十四年、藤村は「落梅集」を刊行した。「椰子の実」はこの中に収められた。この年、國男は大審院判事の柳田直平の養嗣子として入籍した。三年後に直平の四女、孝と結婚した。

「椰子の実」が歌として披露されたのは、ずっと後のことである。雪の日の二・二六事件が世間を震撼させた昭和十一年、季節は夏を迎えていた。
NHK大阪放送局が六月から「国民歌謡」の放送を始めた。その番組企画趣旨は「家庭で高らかに歌える歌詞も楽曲も清新で健康的な歌を、ひろく国民に」歌ってもらいたいというものであった。
作曲者は大中寅二である。彼の音楽の師は山田耕筰だった。寅二は同志社大を卒業後、教会音楽を学ぶためにドイツに留学した。帰国後、東京霊南坂教会のオルガン奏者となり、教会近くの東洋英和女学院で音楽教授を務めていた。
寅二は局から四つの詩を手渡され、その全てに曲を付けた。「椰子の実」はその中の一つだったのである。
歌ったのは人気絶頂の東海林太郎だった。太郎は三十四歳にして、それまで勤めていた満鉄の鉄嶺図書館館長の仕事を辞し、歌手の道に転じた。昭和八年に時事新報社主催の音楽コンクールに優勝し、歌手デビューを果たして、レコードも出たが、鳴かず飛ばずの苦しい時期を過ごした。やっと「赤城の子守唄」がヒットし、その名を全国に知られることとなった。「椰子の実」が流れたのは七月十三日に入ってからである。一週間、太郎が歌った「椰子の実」は評判を呼んだ。
八月に入ると二葉あき子が同じく一週間これを歌い、晩秋に入ってからは多田不二子、十二月には柴田秀子がそれぞれ一週間歌った。こうして「椰子の実」は、この年内にたちまち全国に広められた。
「椰子の実」の歌の評判を、藤村がどう聞いたかは全く知られていない。おそらく嬉しかったに違いない。彼が國男に迫った約束も、すでに忘れていたかも知れない。

柳田國男は律儀に、島崎藤村と交わした約束を守った。國男が「椰子の実」という詩の成立の秘密を明かしたのは、約束から六十余年も過ぎてからである。すでに藤村はいない。そして國男も最晩年にかかっていた。國男は「海上の道」でこの逸話を明かした。この著作は柳田民俗学の中にあって、もっとも詩的で、その伊良湖岬で見つけた椰子の実の逸話は、偉大な柳田民俗学の、もっとも最初の一歩だったことを偲ばせていた。椰子の実は遙かな波路の涯に、根付いていたのである。