領事館の職員がモスクワに住むステパノヴィチ・ワホーヴィチの兄に連絡を入れたらしい。パリに住むという叔母のラリーザが、漢口までキヨスキーを引き取りにきた。もちろん初対面である。
「おまえがキヨスキーかい?」
頷くと彼女はキヨスキーを強く抱きしめ、何か話続けたが判らなかった。おそらく「さぞ心細かっただろうね、もう大丈夫だよ。私と一緒にパリに行こうね…」等と言ってるのだろうと、キヨスキーは勝手に想像した。
ラリーザがキヨスキーを連れて行ったのはバリではなかった。彼女は彼をモスクワで医者をしている伯父の家に連れて行ったのだ。もちろんこの伯父とも初対面である。伯父も、その妻のターニャも人柄が良かった。
キヨスキーはこの伯父の家から地元の小学校に三年間通ったが、最初の半年間は言葉が分からなかったため、唖のふりをして通した。
しかしキヨスキーはこのターニャ伯母のうるさいほどの親切と饒舌が大嫌いだった。饒舌に話しかけられても、ほとんど理解できなかったし、彼はすでに孤独が好きな少年だったのである。
伯父の家にはコロドナという名のユダヤ女が女中として働いており、彼女がキヨスキーの面倒を見た。美人でもなく、のろまな女だった。キヨスキーは彼女を馬鹿にしつつ親しみを覚えた。のんびりとしたコロドナの話し方はキヨスキーがロシア語を覚えるのに適していた。
ある日伯父がキヨスキーに言った。「クリスマス前に一度村に帰る。村の患家も回らなければならないが、どうだ、お前も一緒に行かないか。お前の親父がどういうところで生まれ育ったのか、見ておくのもよいだろう、ん」
キヨスキーはすぐに「行く」と応えた。嫌いなターニャから離れたかったからである。
キヨスキーは伯父と共に、馬車橇に乗って、亡父ワホーヴィチの郷里であるヤースナヤ・ポリャーナに行った。ヤースナヤ・ポリャーナとは森の中の明るい草地という意味である。豊かな森に囲まれた穏やかな農村だった。この村の墓地には村中の先祖の墓があり、すでに亡父ワホーヴィチもそこに眠っていた。
村に着いてから数日後のことである。伯父と一緒に馬車橇で患家回りの途中、みすぼらしい野良着姿の老人に出会った。老人は痩せっぽちの犬と散歩中だった。老人の頬から下は豊かな白髭に覆われていた。真っ白い眉毛が目を隠すように垂れていた。
伯父は馬車橇から降りて、帽子に人差し指をあてがって丁寧に挨拶した。伯父は「これからお訪ねするつもりでした」と言った。伯父と老人の一通りの挨拶が終わると、伯父はその老人の歩みに合わせ、その後ろをゆっくりと随って行った。
その家に入ると老人は椅子に座り、叔父にも椅子をすすめた。老人は低い穏やかな声で「キヨスキー…」と呼んだ。老人はキヨスキーの片腕をつかみ、自分の膝のほうへ引き寄せた。老人はキヨスキーの顔をまじまじと覗き込んだ。
少し片目が白濁していたが優しい目であった。老人は嗄れた声で「ステパノに似ているな」と言って微笑み、彼を軽く抱くようにした。ステパノとはキヨスキーの父の名前である。
その老人の名をトルストイと言った。キヨスキーの母のケイタが、息子がトルストイに抱かれたことを知ったら歓喜で卒倒したことだろう。しかしキヨスキーは、このトルストイ爺さんがそんなに有名な人とは知らなかったのである。
トルストイ爺さんは「お父さんのお墓へ行ったかい」とキヨスキーに尋ねた。キヨスキーは黙って頷いた。トルストイ爺さんも、ゆっくりと何度も頷いた。それからキヨスキーの両手を、しわくちゃで厚い大きな手のひらで包み込んだ。その手のひらは柔らかかった。
その二ヶ月後、キヨスキーは再び村の農家でトルストイ爺さんと出会った。その家の農夫が亡くなったので、伯父とキヨスキーとトルストイ爺さんは、一緒にその家の面倒事を手伝ったのである。
…「ヤースナヤ・ポリャーナなしに、私はロシアとロシアに対する私の気持ちを表現することはできない」と、トルストイは語っている。
再びモスクワ生活を送っていたキヨスキーに、パリに住むラリーザ叔母から、こっちで中学に入りたければ迎えに行くと便りが届いた。彼は渡りに舟と、さっさと荷物をまとめ、迎えに来た叔母と共にモスクワを出てパリに向かった。
パリではローマ教会の学校であるサン・ジェルマン・リセに籍を置き、寄宿舎に入った。キヨスキーはロシア人ということになっていた。ここでも言葉の問題があった。キヨスキーは今度はフランス語を身につける必要があったのだ。しかし勉強なぞにはなかなか身が入らなかった。毎日、寄宿舎の二階の窓からノートル・ダムの屋根を眺め、ぼんやりと日々を送った。
やがて不良少年たちと交わるようになった。バリは移民の街である。彼らは実にいろいろな国の出身者だった。彼らはキヨスキーと似て、祖国やナショナリズムとは縁薄いデラシネだったのである。彼らの使うフランス語のほうが理解しやすかった。
この不良団と酒を飲んで大騒ぎをしていたところを警察が踏み込み、彼はサン・ジェルマン・リセを退学させられることになった。退学させられる日、友人の母親がキヨスキーを詰問するように言った。「あなたには将来の夢とか、志望とかないの? 人生の目的を持ちなさい!」
キヨスキーはその夫人に言った。「将来の夢? 志望? そんなものはないよ。おばさん、俺には死ぬまで志望も目的も無いんだ。ロシアは恐ろしく広いんでね。志望とか目的なんていう小さなものが、無意味なくらい茫漠とした世界なんでね…そんなもの無いのさ」
パリのリセを追放されたキヨスキーに、長崎の曾祖母が亡くなったという報せが入った。キヨスキーは日本に、長崎に帰ることにした。もう日本語はほとんど忘れかけていた。
長崎では大泉清として暮らすことになった。地元の鎮西学院中学に編入し、何とかそこを卒業した。長崎は当時の日本国内では比較的に異人の多い街である。しかし毛色の違う彼にとって、日本の同世代との学校生活は暮らしにくかった。また家には彼を庇護していた曾祖母もいない。まるで他人の家のようだった。何しろ彼の母の恵子(ケイタ)は、親戚からも見限られた人だったからである。卒業すると、彼は「日本は小さい。俺はロシアで出世するよ」と言い残して再び日本を飛び出した。
モスクワに舞い戻ったキヨスキーは伯父の家では暮らさなかった。饒舌なターニャ伯母が嫌いだったからである。彼はかつて伯父の家で女中をしていたコロドナと同棲した。彼女はキヨスキーより十五歳も年上だった。おっとりとしていて、お人好しのコロドナとの暮らしのほうが、ずっと気楽だったのだ。
学校に行くという約束で、スイスで学校経営に関わっていたラリーザ叔母から学資を送ってもらうことになった。しかし学校には籍を置いたものの、たまにしか出席しなかった。叔母からの学資はコロドナの帽子や指輪、そしてキヨスキーの劇場通いに消えた。
ある日、モスクワの街区に激しい銃声音が弾けた。銃声はあちこちで弾けるように響いた。市街は騒然としてきた。1917年、3月11日のことである。ロシア革命が起きたのである。この日は「赤い月曜日」と呼ばれ、この革命は「三月革命」と呼ばれた。
学校帰りのキヨスキーは若者たちに包囲された。彼らはキヨスキーに革命団に加わるよう強制した。彼らはモスクワ大学の学生である。何をされるかわからないので、キヨスキーはその一団に加わることにした。
キヨスキーの加わった一団は裁判所を襲撃した、黒い自動車も分捕り、街のあちこちの建物の窓を破壊して回った。砲煙が漂い、街頭に二百体は超える死体が転がっていた。彼らが奪った車はその上に乗り上げ、轢き潰して走り回った。車の中から盲滅法射撃した。恐怖と痛快さがキヨスキーを捕らえていた。騒擾は面白い、破壊は痛快だ。
キヨスキーは「革命」の仲間のしるしに、木綿の赤いリボンをもらった。
夜になった。キヨスキーはモスクワ大学の学生たちと別れた。コロドナの家に入ったところを巡査隊に襲われた。家は火に包まれた。コロドナと一緒に、転げ出るように家の外に抜け出し、伯父の家を目指して逃げることにした。
ネヴァ河のアレキサンドル橋にかかったとき、「止まれ!」と声がかかった。見るとよぼよぼの老兵と若僧の兵士である。
「どこへ行く?」と尋ねられたのでデタラメを応えた。若僧が突っかかってきた。「何をする。俺は人民の味方の大学生だ」と叫んで、赤いリボンを見せた。老兵士の方が「美しい皇后様よお、俺とあっちで寝ようぜ」とコロドナの豊満な身体を抱き寄せた。コロドナがその老兵士を突き倒した。その隙にキヨスキーは若僧に飛びかかり、その銃を奪って、台尻で思い切り殴りつけた。若僧の兵士がひっくり返った。
キヨスキーは銃を捨てて、のろまなコロドナを励ましながら、夢中で走って逃げた。気づくと二人は、騎馬隊と労働者隊の銃撃戦の真っただ中に飛び込んでしまっていた。
コロドナが雪の上にのめるように倒れ込んだ。あわてて抱え起こすとコロドナのこめかみから血が流れていた。その血はキヨスキーの指を濡らした。立ち上がって走ろうとすると、コロドナの手がキョスキーの長靴を掴んで離れなかった。死に際に掴んだものであったろう。十メートルほどコロドナを引きずって進んだが、これではとても先に進めたものではない。蹲って、長靴からコロドナの指を一本一本引きはがした。彼女の手から自由になると、後は一目散に走って、伯父の家に逃げ込んだ。
キヨスキーは翌日にはモスクワを離れ、スイスに入った。ジュネーブで学校を経営していたラリーザ叔母を訪ねた。
叔母はキヨスキーの先行きを心配した。「パリで暮らすにせよ、日本で暮らすにせよ、必ず上の学校に行きなさい」と彼女は言った。「学校に行くと約束するなら、学費は出してあげる」とも言った。キヨスキーは、「混乱したロシアには戻れないし…いったんヨーロッパを離れて日本に戻る」と言った。そして必ず上の学校に行くとも約束した。
こうして彼はラリーザ叔母の元に数日滞在後に、お金をもらってフランスのマルセイユに出て船を探し、また日本に向かったのである。