~北千住と門人たちの謎~
さて、「北千住の仙人」橋本律蔵という人は、どうして「自然真営道」百巻九十三冊を秘蔵していたのだろうか。彼の先祖は昌益の門人だったのだろうか。
元報知新聞の記者・川原衛門の「追跡安藤昌益」(1979年、図書出版社刊)は、なかなか感動的な著作である。
川原は「北千住の仙人・橋本律蔵」というだけで何の手がかりもない情報から、足立の慈眼寺に橋本律蔵とその一族の過去帳と戒名と墓を見つけた。さらに彼の孫に当たる婦人に面会し、律蔵とその一族の情報を聞き出している。それは片々たる情報なのだが、実に含みがあって面白い。
先ず律蔵が「金座と米相場に係わる役人」で、千住掃部宿の「千住御殿」と呼ばれる家に住んでいたとのことである。律蔵と長男知宜は次々と不孝に見舞われる中、明治十五年に律蔵が亡くなり、千住御殿は没落していく。相続をめぐる争いも起こり、律蔵の膨大な蔵書類も売りに出されたらしい。
千住の旧家・織畑家所蔵の亨保十九年現在寛保三年作成の「千住街道図」がある。掃部(かもん)堤と荒川堤に挟まれた街道、百八十四間の距離に連なる掃部宿の詳細家並図で、一軒残らず商家と屋号と住人名が記入されている。
これによると千住御殿があった場所は、穀物屋藁屋兵右衛門(藁屋は屋号、橋本兵右衛門)で、隣が酒荒物屋中村屋甚平衛、そしてその隣に藁屋兵右衛門(橋本平右衛門)の土地があり、これを「医師橋本玄益」が借地している。
「橋本玄益」の住まいは、隣の酒荒物屋中村屋甚平衛家の一室もしくは敷地内の一軒家である。同じ街道並びの中央あたりに穀物屋穀屋甚兵衛(穀屋は屋号、橋本甚兵衛)があり、この家が橋本家の本家に当たる。穀屋も藁屋も、橋本家は代々米穀商で米座に係わっていたらしい。穀家は後に屋号を古久屋(こくや)に変え、商売替えをしている。律蔵の長男・知宣の妻もとは、この本家の古久屋から嫁いでいる。
さて、「千住街道図」によれば、街道をはさんだ穀物屋穀屋甚兵衛の向かいが「川魚屋鮒与」の内田魚屋(鮒与が屋号)である。橋本律蔵はこの内田魚屋の親父にだけ、「自然真営道」という本を秘蔵していることを漏らしていた。鮒与は今もその地で営業を続けており、川原は当主に面会している。
また川原は橋本律蔵と金座の関わりを調べた。金座は徳川幕府において日本銀行と造幣局の役割を担っていた。所管は勘定奉行で、御金改役「後藤庄三郎」官邸と金局は江戸本町一丁目にあった。今は日本銀行である。
初代後藤庄三郎光次は、少年時代、橋本庄三郎といった。流浪の少年時代を経て金匠後藤徳乗に弟子入りした。彼は家康に眼をかけられ、江戸で小判を鋳造する時に江戸に移った。橋本庄三郎が金座の長・御金改役に出世した時、師匠の後藤姓を名乗ることになった。初代後藤庄三郎光次である。二代後藤庄三郎広世(光次の正妻に子がなかったため、家康から侍女大橋局を妾に賜り、広世が生まれた。巷間、家康の子と囁かれた)は父の職を継ぎ、金座・銀座・米座を経営した。彼は大坂、伏見、京都、駿府、江戸、佐渡など数カ所に屋敷を賜わり、実に破格の扱いである。(「街談文々集」「徳川時代の金座」」
広世は病弱を理由に、若くして銀座と米座の職を辞し、金座経営のみに専念した。またほどなく後藤徳乗の曾孫を養子に迎え、彼に家督と御金改役の地位も譲った。しかし病弱のくせに子供が十一人もいたらしい。(「街談文々集」「徳川時代の金座」)
広世がこれらの子の何人かに初代光次の、元々の橋本姓を名乗らせ、米座や銀座の運営を任せたのではないかと川原は推理している。先ずは橋本家が米座と金座に深い関わりがあることは間違いなさそうである。
さらに川原は「元文五年、三井家(呉服店)の江戸における得意先」(「江戸会誌」)を調べたのである。そこには顧客の支払い方法も記載されている。大岡越前は年三回払い、大奥の初瀬は年一回払い、そして御町方では後藤庄三郎光品と橋本甚三郎(後藤家家中)が節句払い、大塚屋次郎右衛門が二季払い等…とある。金座・米座に係わる橋本という姓は、金座後藤家と同根なのだ。
さて金座のすぐそば、本町二丁目に「村井中香」という安藤昌益の門弟が住んでいた。本町一丁目は金座があり、金吹が行われていた金吹町もある。本町二丁目、三丁目、室町、駿河町周辺は、昔も今も金融街なのである。
村井中香は金座、両替あるいは三井家等に関わる人ではなかったか、と川原は推理している。
また、三井家のお得意先・大塚屋次郎右衛門という人は、昌益の門人で住所が不明の「大塚屋鉄次郎、薬種屋」と同一人物なのではないかと言うのである。
さらに京都の昌益門人・明石龍映の住所は京三条柳の馬場上るにあり、この辺りは銭売所と生糸貿易商が集まる京の金融街なのである。当時、銭座を請け負っていたのは生糸貿易商たちであった。
もう一人の京の門人・有来静香の住まいは京三条富小路だが、京三条馬場とは隣町である。川原は、元文二年より銭座請負人・有来新兵衛は京都糸割符(いとわっぷ)年老で、京都三条馬場で銭売所を経営していたという記録を見つけた(「日本貨幣金融史研究」「銭の歴史」)。
昌益門人・有来静香と有来新兵衛は、同一人物か何か関係があるのではないか、というのが川原の推理なのだ。面白い。そうかも知れない。いや、おそらくそうだろう。
橋本律蔵の四代前の「藁屋米屋兵右衛門」は、昌益と同時代人である。この兵右衛門は、昌益の門人の一人、信奉者の一人で、スポンサーの一人ではなかったか、という川原衛門の推理に私も与したい。
橋本兵右衛門は「橋本玄益」なる医師にアジトを提供したのではないか。このアジト、北千住・掃部宿で、昌益の秘密結社「転真敬会」の全国シンポジウムが開かれたのではないか。北千住の掃部宿は、奥州街道の起点である。当時この千住掃部宿(現北千住仲町)は、奥州への起点の宿場町として商家や宿屋が櫛比し、旅人、荷車、荷馬車、駕籠、物売り、客引き、飯盛女の嬌声など、殷賑を極めていたのである。
ここから宇都宮(日光)、須賀河そして八戸、陸奥、松前に至る。この人馬往還の激しい宿場町なら、旅人も、人の出入りも怪しまれることはないだろう。しかも大坂や京都の門人が八戸に旅行するには、距離的にいかにも大変である。また余程の理由がない限り道中手形や各種証文は発行されないだろう。松前や八戸と、京、大坂の中間に位置する江戸、北千住の宿場町は都合がよいのだ。
もしシンポジウムが八戸で行われたとするなら、昌益の隣に住む中村忠平が参加しなかったのはどうしてだろう。また田舎町の八戸に、続々と旅人たちが集結するのはいかにも怪しく、すぐ目を付けられるだろう。北千住掃部宿の医師「橋本玄益」宅は都合がよい。医師の家なら患者の出入りも多いからだ。
そしておそらく、このアジトにも「自然真営道」一式が秘蔵され、穀物屋藁屋橋本兵右衛門によって厳重に管理されたのではないか。さらに代々、それを引き継いだのではなかったか。
後年医学資料として発見された宇都宮の医師・田中真斎の「真斎謾筆」は、焼失した「自然真営道」の医学論の部分を筆写したものであった。また奥南部・医師錦城が書いた「医真天機」には、昌益の医説がつぶさに紹介され、昌益の人物が書かれている。
錦城は昌益と親しく交流し、彼に感歎し、かつ新しい医説と昌益の医説を比べたりしているのである。錦城の本名は不明で、「奥南部」と書かれているが、最新の医説をすぐ仕入れていること等から、奥南部居住説より江戸居住説が根強いようである。そして田中真斎は医師・錦城の弟子なのである。
この錦城の「医真天機」をそのまま筆写したサイズの異なる「医真天機」も発見されている、これは田中真斎の弟子の医師・橋栄徳の手になることも判明している。
私の記憶では、橋栄徳は日光の医師だったかと思う。昌益と錦城は同時代人だが、真斎はその後の世代、栄徳は昌益よりずっと後の人である。しかし、北千住、宇都宮(日光)、奥南部という相互のルートは、昌益医学の情報のルートのようにも思えてくる。
いったいに、昌益門人衆は経済的にゆとりのある人たちが多いようである。藩の上級役人、医師、商家の主人、神主、僧侶、そして二井田の村は昔から豊かで、どの家にも書籍がたくさんあったという。肝煎や長名、百姓代を務めたような旧家の土蔵は、書籍類、古文書類が多く残されていたという。彼らはみな好奇心、向学心に富み、昌益の話を理解しうる知的な人たちだったのだろう。
私は昌益の門人衆は、今現在知られている人たち以外にも、北千住掃部宿の橋本兵右衛門のような知られざる門人衆が、全国に散在していたのではないだろうかと推察している。
~炎の言 断片~
穏やかなる人、昌益の言葉は、さながら龍の口から吐き出される炎のように激しい。太古の理想社会「自然世」「聖人の失りと不耕貪食」「軍事力廃絶の論」「釈迦の失り」「仏教の失りと堕落、軍用の大寺」「私有制」「軍隊の本質」「理想の社会」「鉱山公害」…しばらく列記したい。
彼は太古に次のような「自然世」があったと言う。「彼(かしこ)に富みもなく、此に貧もなく、此に上もなく、彼に下もなく…男女も上下なく…貪り取る者もなければ、貪り取られる者もなく…上なければ下を責め取る奢欲もなく…上なければ、法を立て下を刑罰することもなく、…五常、五倫、四民等の利己の教…売仏(まいす)・売神(どろぼう)の法(こしらへ)なければ、…各々耕して、…この外に一点の私事なし。是れ自然の世の有様なり」
「法は、自然にこれ無き私作の法(こしらへ)にして、失(あやま)りの根源なり」
「天下は、立上の天下にあらず、…天下は天地が直に衆人となりたる天下にして、…誰を治め、誰に治めらるると云うふことこれなし」
「自然の直耕・安食衣して転定と与(とも)に同行の世に治乱無き則(とき)は、軍学の名無きなり。然るに聖人出でて王と為り上に立ち不耕にして衆人を貪食し、栄華を極め衆人に視す。故に之れを羨む者の出来り王位を奪ふ。己も王と為り栄華を為さんと欲する故、兵乱を起こし一たび勝つ者は王と為り不耕・栄華を為す。此の如く伏義より今日に至るも會(かつ)て止むこと無し。軍学は戦ひに勝ち王と成らんが為め、国家転下を奪はんが為めなり。…速かに軍学を止絶して、悉く刀剣鉄砲弓矢凡て軍術用具を亡滅せば、軍兵大将の行列無く、止むことを得ず自然の世に帰るべきことなり。…世世の聖人太公以下諸賢之れを知らざるか。浅猿(あさま)し」
「後世の人何んぞ此の書(兵法・軍学書)を焼かずして乱の来るを候(ま)つや」
「聖人は不耕にして、衆人の直耕、転(天)業の穀を貪食し、口説を以て直耕転(天)職の転(天)子なる衆人を誑かし、自然の転(天)下を盗み、上に立ち王と号す」
孔子(孔丘)は「諸侯に貴ばれ、…諸国に周流して不耕貪食す。失りはなはだしき者なり」「己れ耕さずして貪り食い、学芸を売りて諸国に周流し…諸侯に貴ばれんと欲し、…貰ひ食ふに足ると思い、この言をなす。孔丘の知の底の程あらわれ、浅猿(あさま)し」
「孔子一生の書説・弁教みな私法にして…妄失なり」
「耕さざる者は人に養はれるに非ず…貪り食ふ罪人なり」
「孟子の書言は悉(ことごと)く私失にして道に合へるは一句もこれなし。故に…揚げて評するに足らず」
「聖人とは罪人の異名なり」「虫に如かざる者は聖人なり」「君子と云ふは道盗の大将なり」「世のために大敵なる者は聖人なり」
「思ひ知れ、後世の人、馬糞と謂はると雖も、聖釈とは謂はるべからず。馬糞は益あり」
「釈迦、雪山(せつざん)に入り六年単坐すと云へること、先ず第一の偽りなり。食せずして妄りに単坐のみにしては命無し、命無くして何の工夫修行の成るべきや、故に偽りなり。食を乞ひて貪食して、衆人の評を候(うかが)ふのみなり」
「嘆(ああ)、暴悪の拙徒なるかな。釈迦、若し汝の行言為る所に随ひて、転下皆出家と為り耕さず貪食するのみ則(なれ)ば、何を以て世界之れあるべけんや。…何を食ひてか座禅の工夫を為すべけんや。食無ければ命無し、命無ければ何の仏法か有らんや。嘆(ああ)、愚迷なるかな。釈迦、汝が成り来る穀の如来、菩薩を知らず、耕さずして貪り食ふ。…汝の俗性は王の子にして自然の転下を盗みて貪り食ふこと止めず、出家して猶貪り食ふ」
「父母を捨て妻子に離れ独身となるの失り…天下みな独身なれば、人界絶す。故に世界の大敵…大愚の至りなり」
「衆人は直耕して転道不背の真人なり。僧は不耕貪して私失の罪人なり。故に衆人の直耕して余徳を僧等に施すは、乃ち僧等を度すなり。故に仏とは衆人なり。度さるる僧等は衆生なり。…己れ衆人に度し救われながら、衆を度すとは逆倒の迷ひなり」
「仏法に施餓鬼と云ふこと、僧は俗の施しを受くる故に、施は在家にあり、餓鬼は出家のことなり、笑ふべきなり」
「自然にこれなき地獄・極楽を法(こしら)へ…他にこれなき極楽をありと思はせ、衆人をして極楽を願い殺しとなさしむ」
「極楽に生ずるには仏を頼むに如(し)くはなしとは、衆人を誑かし貪り食はんが為の作言にして、盗賊の所業…妄害乱迷の…邪法なり」
「難行苦行を為さんよりは、何ぞ、直耕して自然の直行を為さざるや」
「末世の日本に至って…仏教を用ひて…諸寺を建立させ、軍陣の要害となす。故に世世の将軍の建立の大寺…皆軍陣の用意なり。故に寺・仏・僧を貴ぶに非ず、軍陣の兼用たり。故に寺寺の住僧は陣屋の番太郎なり。諸僧は番太郎の下人なり。大小の寺は陣屋、軍卒の雨宿(あまやどり)なり」
「聖人と云ふ者起こり…転下の転下の転以て吾国・他国と為し、転下を争ひ国を奪ひ奪はれ、合戦・争闘して止むこと無し」「士は王者・聖人の作力なり」
「神与の転下を私有と為す」「転下の転下を推掠して私有と為す」
「転下の田畑を盗て、己が転下とし、己が国とし、直耕の転道を責め取り、貪り食ふての上に、大は小を食ふと序(ついで)する…」
「天下の天下を以て、王と為し、天下の地形を分て境を附けて国と為し、国を分て郡と為し、郡を分て領と為し、毎国に毎主を立てて、諸侯と為し、諸侯の下に武士を立て、武士を以て四民の頭と為す」「士を立つるは乱の用なり」「君下に武士を立てて、衆人直耕の穀産を貪り、もし強気にてして異輩(違背)に及ぶ者之れあるときは、この武士の大勢を以て捕り拉がん為に之れを制す。また聖人の命令に背き、党を為し、敵となる者には、この武士を以て之れを責め伐たんが為に兼ね用ふるなり」
(20世紀の僅か百年間で、世界中で2億1千万人の「市民」が、軍隊によって殺されている。うち他国軍に殺された人は3千4百万人、残りの83%1億7千6百万人は自国軍に虐殺されている。軍人(武士)とは国民を弾圧するために存在するのだ。)
「上に立ち教ひ導く聖人無ければ…地獄・極楽を法(こしら)へて衆人の心施を貪り食ふ売僧(まやす)の仏法と云ふこと無ければ…売神(どろぼふ)の法( こしら)へ無ければ…寺社建立等の天下の妄害・大費も無く…」
「金銀の通用無ければ、上に立ちて富貴・栄華を為さんと欲を思ふ者無く、下に落て賤く貧しく患ひ難儀する者も無く」
「中平土(平野)の人倫は十穀盛んに耕し出し、山里の人倫は薪材を取りて之れを平土に出し、海浜の人倫は諸魚を取て之れを平土に出し、薪材・十穀・諸魚、之れを易(かへかへ)して…平土に過余もなく、山里に少く不足も無く、海浜に過不足も無し」
「金(鉱物)は…土を堅めて崩さず…定(地)水澄まし、人気清浄にす。…然るに聖人山中の金を掘り出し、金銀銭を鋳て通用と為す。…故に土中の金気の堅弱く、転気は濁り易く、河は埋もれ易く、地振(震)は汰(ゆ)り易く、人気は脆くなり、内病発し易く、山には木生え難し。…是れ聖人の罪なり」「…山は崩れ易く、河川は埋まり易く、木は生え難く、水は湧き難く、火難は出で易く、人気は脆くして欲心深くなり易く、転気濁りて不正の気行われ易く…土気脆くして地振し易し…すべて転災・定難、金を掘るの罪なり」
秋田藩内には杉沢、檜木内、大葛の金山があり、院内、阿仁、水沢などの銀山、南部藩内に白根、尾去沢、槇山などの金山があった。
鹿角、二井田、大館、尾去沢、院内周辺の人々は、川魚を食べると病気になると言われていた。昌益は鉱山公害を目にしていたのだろう。