その数奇な人生の幕開けは、ロシアのニコライ皇太子の来日という物語から始まる。大泉黒石という、今や知る人ぞ知るアナキスト作家の話である。
ロシアは十七世紀初頭にロマノフ朝の帝国となり、ピョートル大帝によって近代化帝国主義が推し進められた。ニコライ一世は強硬な専制政治を敷き、北欧、東欧を手に入れ、その領土拡張欲は際限もなく、ウラルを越え、広大なシベリアから極東を狙っていた。当時ロシアは世界の陸地の六分の一を占め、世界最大最強の軍事国家となった。
それでもさらに領土の拡大と、莫大な富と、強大な国家を目指していた。この際限を知らぬ欲望こそが、人類の愚行そのものなのである。領民、国民一人一人の祖国愛、ナショナリズムこそ、権力者にとって利用すべき道具に過ぎないのである。彼らが何十万、何百万、何千万人死のうとも。
ロシアが総力を挙げて取り組んでいたのが、広大な大陸を東西に貫くシベリア鉄道の建設だった。そのシベリア鉄道起工式に皇帝の名代として、二十四歳のニコライ皇太子(後のニコライ二世)が臨席することとなり、ついでにその国力を世界に誇示するため、ロシア海軍の最精鋭軍艦七隻で本国を発った。旗艦はアゾバ号である。ナヒモフ号、モノマフ号がこれに続いた。
艦隊は途次ギリシアに寄港し、ニコライ二世の甥に当たるジョルジュ(ゲオルギオス)皇太子を加えて、スエズ運河、インド、シンガポール、オランダ領東インド、フランス領インドシナ、香港に寄港しながら、最後に日本を訪問し、最終目的地のウラジオストック(東洋征服の意味)に入る予定だった。
日本では先ず長崎に入り、その後鹿児島、神戸、京都、琵琶湖、東京、青森まで回ることになっていた。ニコライ皇太子一行の艦隊は長崎に入港した。
明治政府にとって、これまでで最大級の国賓の来日である。有栖川宮を接見委員長とし、川上操六陸軍中将が接見掛長となり、訪問予定地では様々な歓迎行事の準備をしていた。生麦事件や大使館焼き討ち事件、攘夷運動はついこの間のことである。それにロシア嫌いは多い。警備も厳戒態勢が敷かれていた。
さて、このニコライ皇太子の随員の中に、ペトログラード大学出の法学博士で外交官だったアレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチがいた。
彼は貴族出身ではない。豊かなロシアの森に囲まれたヤースナヤ・ポリャーナ(森の中の明るい草地の意味)の、村の農民の出である。このヤースナヤ・ポリャーナは地主貴族のトルストイ伯爵の領地だった。あの文豪レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイが、生涯の大半を過ごし、精神と思想を形成した土地である。
当時、ロシア語を学び、話せる人間は極めて稀であった。長谷川辰之助(二葉亭四迷)の出た東京外語学校露語部や、ニコライ神学校出の者たちがロシア語の通詞や教授をしていた。
そんな中、長崎の本山恵子というまだ十五、六の娘が、ロシア文学を研究していた。彼女がどこで、誰にロシア語を学んでいたのかは、記録がない。彼女の父は、下関の最初の税関長だったらしい。下関は外国船に開かれた港である。本山某はこれからの日本に外国語の必要を感じていたのであろう。娘の恵子に外国語を学ばせたかったに違いない。
恵子が選んだ外国語がロシア語であり、ロシア文学であった。すでに、プーシキンやツルゲーネフ、そしてトルストイの文学が日本にも紹介されていた。彼女は熱心にロシア語を学び、熱烈なロシア文学の愛好者となり、かつ若く優れた研究者だった。
ニコライ皇太子や随員一行の接待役として、本山恵子も駆り出された。しかも美形である。生のロシア語が試せる。彼女も勇躍、その接待役に応じた。
明治二十四年(1891年)四月二十七日、ニコライ皇太子の艦隊は長崎に入った。
そこでアレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチは本山恵子に出会った。
この出会いの後、五月五日にニコライ皇太子一行の軍艦は長崎を出航して、鹿児島に向かい、そこから瀬戸内海を航海して神戸に入っている。…その間ワホーヴィチと本山恵子は長崎で別れたままであったのか、不明である。ワホーヴィチが本山恵子にプロポーズしたのはいつなのか、それも全く不明である。大津事件が発生したとき、あるいはその後、ワホーヴィチと本山恵子はどのようであったか、それも不明である。
皇太子一行は神戸、京都を見物後、五月十一日に琵琶湖を汽船で遊覧し、三井寺を見物した。一行は滋賀県庁で食事をすませ、宿泊先の京都常磐旅館(後の京都ホテルオークラ)に戻るため、四十両の人力車を二百メートルも連ねて出発した。一台の人力車は曳き手と押し手の二人一組であった。
京町通りにさしかかった時、沿道警備に当たっていた警官の津田三蔵が敬礼をして車列を見送った直後、やにわに皇太子の人力車に走り寄り、サーベルを抜いて背後から皇太子を襲った。直後の人力車に乗っていたギリシアのジョルジュ皇太子が走り寄り、竹鞭で津田を打ち、押し手の車夫が津田に組み付き、曳き手の車夫が津田が落としたサーベルで津田を斬った。そのとき、やっと事態に気づいた警官たちが殺到し、津田を取り押さえたのである。ニコライ皇太子は命に別状はなかったが重傷であった。
沖滋賀県知事は松方総理らに「露国皇太子殿下、只今当地御立チノ途中、大津町ニ於テ、路傍配置ノ巡査一名抜剣、皇太子殿下ノ御額ヘ切リ付ケタリ」と電信を打った。
この津田三蔵と、その時の車夫については、山田風太郎の明治時代小説に「明治かげろう俥」という名作があるが、それはさておく。
当時、近衛師団歩兵第二連隊にあって、天皇、皇后、皇太后の御守衛と宮中詰の任務にあった石光真清は、手記「城下の人」にその時のことを生々しく記録している。…
「明治二十四年五月十二日午前一時、真夜中の兵営に非常ラッパが鳴り渡った。」
「重大な事件が起きたことを伝達する。ロシア皇太子は滋賀県大津市において、兇漢のために負傷された。畏くも天皇陛下におかせられては、事重大なるにつき本十二日午前五時新橋発の特別列車にて京都に行幸される無ね仰出された。近衛諸隊は正装して午前三時三十分までに営内に待機すべし。遺漏なきよう」…こうして石光真清らに、「国民三千五百万人に代わってロシア皇太子にお詫びを致したい」と、京都に赴く天皇陛下のお供の命が進発されたのである。
天皇は京都の常磐旅館にニコライ皇太子を見舞った。いったん御所に戻った天皇の所に、皇太子が旅館を引き払って、神戸港外に停泊中の旗艦に引き揚げるという報が入った。天皇は驚き、再び常磐旅館に戻り、皇太子が出てくるまで一時間待ち、その後神戸まで列車に同乗し、皇太子を弁天浜御用邸に案内した。
小憩後に御用邸裏の桟橋からランチに乗り込むまで、天皇はずっと皇太子に付き添い、見送りをした。その時、ニコライ皇太子がポケットから煙草ケースを取り出すと、天皇はすぐマッチを取り出して火を点じ、それを手のひらに包むようにして皇太子の煙草に差し出した。その様子を石光真清は目撃し、記録に残している。
後に石光真清はロシア研究とロシア語に没頭し、望んで東部シベリアのブラゴヴェヒチェンスクに留学し、やがて、ある時は苦力に、ある時は洗濯屋に、馬賊に、写真館主人になり、結氷したアムール河を渡り、全満州を巡った。彼はその生涯のほとんどを、過酷で報いのない諜報活動に従事することになる。その書き残した膨大な手記「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」はまことに感動的だが、それはさておく。
さて、五月十九日、ロシアの七隻の軍艦は黒煙を上げて神戸を離れた。アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチも日本を離れたのであろうか。本山恵子はどうしていたのだろうか。
ともあれ、アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチは本山恵子にプロポーズしている。その時期は不明である。一説にロシア側から日本側に申し入れがあったという。さすれば国際交渉じみている。恵子の周辺は猛然と反対したが、恵子はその申し出をすぐに受け入れたらしい。決然としたものである。腹の据わった娘である。
父の本山某にすれば、恐ろしいロ助と結婚させるために娘にロシア語やロシア文学を学ばせたわけではない。彼は激怒し懊悩したに違いない。本山某はおそらく娘を勘当したのだろう。そしてこれもおそらく、娘の恵子にすれば、ロシアとはプーシキンのロシアなのだ、ツルゲーネフのロシアなのだ、トルストイのロシアなのだ。
恵子は自ら名付けたのか、あるいはワホーヴィチが名付けたものか、ロシア名をケイタと名乗った。
ワホーヴィチと恵子がどこで、どのくらい共に暮らしたのかは、不明である。恵子は結婚後、夫を追ってモスクワに行ったのだろうか、その後に夫の勤務地となった中国天津で暮らしたのだろうか、不明である。
明治二十六年(1893年)六月二十六日、アレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキー(清)が長崎で生まれた時、ワホーヴィチは中国の天津領事館に勤務していた。恵子は出産のため長崎に戻ってきたのだろうか、不明である。キヨスキー(清)と名付けたのはワホーヴィチだろうか、あるいは恵子(ケイタ)であろうか、不明である。キヨスキー(清)が生まれたのは産院だろうか、あるいは恵子の母方の大泉家であろうか、不明である。
恵子は産後の肥立ちが悪く、危険な状態が続いた。自らの死を悟ったのだろうか、産着にくるまれたキヨスキー(清)を抱き、「おばあさま(清にとっては曾祖母に当たる)に難儀をかけずに、大きくなってくだされや」と話しかけた。それから間もなく恵子は死んだ。キヨスキー(清)は生まれて七日で母なし子になった。そして母方の大泉家に引き取られ、その籍に入り、大泉清の名で、恵子の祖母に育てられた。
清は曾祖母から「お前の父親は、中国の漢口でロシア領事館に勤めている」と聞かされていた。領事館で小使いでもしているのだと思っていた。小学校三年になった年、清は中国の漢口に行って領事館を訪ねた。中国漢口には一人で渡ったのか、誰かが連れてきてくれたのか、不明である。
ちょうど日露間の緊張が高まっていた頃である。ともかく、清は初めてアレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチの顔を見た。父親は「わしはここの領事だ」と言って立派な髭をなでた。小使いではなかったのでキヨスキー(清)は驚いた。
「キヨスキー、わしは二十八の歳に法学博士になった。お前もわしを見習ってうんと勉強しろ。そうすればアレキサンドル・ネヴスキー勲章をお前に譲ってやるぞ」と、父親が言った。キヨスキーは「よい子」を演じて頷いた。父親は満足そうであった。
彼らは漢口でしばらく共に暮らした。その期間は不明である。キヨスキーはロシア語が出来ない。父親のワホーヴィチは日本語が出来ない。もちろん二人は中国語もできない。そもそも、この親子の会話は成り立ったのだろうか、不明である。
…ほどなく父親のアレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチ領事は亡くなってしまうのである。キヨスキーは孤児になってしまった。
日露戦争が近づいていた。ロシア人と日本人の混血児で、孤児で、ほとんど言葉の通じないロシア領事館の領事官舎で、中国語も話せず知る人もいない漢口で、キヨスキー(清)は独りとり残されたのである。これほど途方に暮れる淋しさと不安はあるだろうか。彼はまだほんの少年だったのである。
本人は、両親がそろっていても満足な人間に育つことはあるまいと自覚していたという。だから不自由とも寂しいとも思わなかったという。どこまでが強がりで、どこまでが本心かは不明である。ただ、この少年はすでに、どこか投げ遣りな虚無感にとらわれていたのかも知れない。