虚空の人

大泉滉という俳優がいた。性格俳優と言われ、怪優とも評されていた。往年、人口に膾炙した役者ではなかった。知る人ぞ知る個性的脇役であってスターではない。もう彼を知らない映画ファンやTVドラマファンがほとんどかも知れない。彼が亡くなって既に十年余りが過ぎた。
映画やテレビドラマでの大泉滉は常に脇役で、時にはセリフが一つか二つしかない出演作もあった。しかしそんな場合でも、大泉滉の印象は何故か強烈に残り、その不思議な存在感は群を抜いていた。彼が演じる役柄の多くは、いつも飄然ととぼけた感じか、あるいは小心でオドオドとした性格の人物や、変人や奇人なのである。彼の持ち味は喜劇なのである。
見ているうちに、どこまでが彼の演技なのかと思うことが多かった。あれは彼の地のままなのではないか。飄逸さも小心さも、落ち着きの無さも、おとぼけぶりも、変人ぶりも、全て彼の地なのではないか。
かつて作曲家のサティは、さりげない「家具の音楽」や雑踏の中の雑音のような音楽を目指したが、大泉滉もまるで「家具のような役者」として、また雑踏の中の雑音のように違和感なくそこに在り、しかしふと気になる存在なのであった。いったい何で、この場面に、この男はそこに居るのだ? いったいこの男は、いつからそこに居たのだ?

一見して大泉滉に白人の血が入っていることは明らかだった。モノクロ映画やモノクロのTVドラマの記憶の方が多いが、髪はどこか茶がかり、目は灰緑色に思われた。実際は黒髪、黒い瞳だったのだが、いかにも日本人離れした風貌だったのである。決して美男ではない。その白面の鼻下に、細い八の字髭をたくわえていた。そして悲しい目をしていた。

大泉滉には「ロシア革命のときに亡命してきた貴族の血」という説が流布していた。父方の祖父がロシア貴族というのである。また「ロシア皇帝の末裔」とも言われていた。これらの話は根強く信じられているが、俗説であり事実とは異なる。このロシアの亡命貴族の説を流布したのは、当の大泉滉本人であろう。おそらく飄々と、真面目くさって、親しい周囲の人々に「告白」したものだろう。それが彼独特の笑顔を見せぬユーモアであり、遊び心であったろう。
彼の父も虚言癖で知られていた。この虚言癖は人を騙そうという意図より、人を楽しませようというサービス精神から出ているものと思われる。そのあたりは、エログロナンセンス、地下出版の帝王と呼ばれた梅原北明と似ているかも知れない。彼らの話は、本人の話と周辺の傍証を集めても、真実とホラ話の境界が不分明で、どこか楽しく痛快なのである。まるで「ホラ吹き男爵」の漂流記、冒険譚なのである。

大泉滉は大正十四年(1925年)、豊島区雑司が谷に生まれた。父は大泉黒石というアナキストの作家である。母は美代という名である。
大泉黒石はロシア名をアレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキーといい、日本名は大泉清である。その父はアレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチという法学博士で、ロシア皇帝ニコライ二世の侍従であった。
ニコライ二世がまだロシア皇太子(※)のおりに、随員として付き従って来日し、接待役を仰せつかったロシア文学研究者の本山恵子と熱愛した。二人は周囲の大反対を押し切って結婚し、生まれたのがキヨスキー(清)であった。後の大泉黒石である。
大泉滉は自らのロシア名をアレクサンドル・ステパノヴィチ・ポチャーノフスキーであると、周囲の人々に語っているが、あくまで自称であり、その真実は誰も知らない。彼の子役時代の芸名が大泉ポーといったことから、おそらくポチャーノフスキーは本当であると思われる。

(※)ロシア帝国のニコライ皇太子が来日したのは明治二十四年(1891年)五月である。五月十一日、ニコライ皇太子一行が大津を通過中、警備に当たっていた巡査の津田三蔵に斬りつけられるという「大津事件」が勃発した。
アレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキー(大泉黒石)が生まれた明治二十六年(1893年)、アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチは中国天津の領事館に勤務していた。日本中が大津事件に震撼していたとき、ワホーヴィチと本山恵子は大恋愛をしていたわけである。

今回の「虚空の人」は大泉滉の父、大泉黒石のことであるが、しばらく大泉滉について語りたい。
滉の子ども時代、毛色が違うこの混血の少年は相当の美少年だったと思われる。しかし「ガイジン」として相当苛められ、差別されている。道を歩けば石をぶつけられ、何度も囲まれて殴られ、蹴られている。スパイ呼ばわりされ、アイノコと蔑まれた。父の黒石は滉に「我慢しろ、我慢しろ」と言い続けた。そして「お前は日本人ではない。日本人ではないことに誇りを持て」と言い続けた。

昭和十二年(1937年)、滉は小学校を出るとすぐに、劇団東童に入っている。この年、廬溝橋事件が起こり日中戦争が始まった。日独伊三国防共協定が結ばれ、大本営が設置された。
滉は昭和十五年(1940年)に、大泉ポーの芸名で映画デビューした。日活の「風の又三郎」である。以来亡くなるまでに百二十本を超える映画に出演し、多数のテレビドラマでも個性的な脇役をつとめ、声優としても活躍した。
昭和二十一年(1946年)、滉は文学座に入った。「破れ太鼓」(松竹)、「えりことともに」(藤本プロ)と二枚目俳優であった。「自由学校」(大映)を機に喜劇俳優に転身した。
「海賊船」(東宝)、「めし」(東宝)、「西鶴一代女」(新東宝)、「三等重役」(東宝)、「アチャコ青春手帖」(吉本プロ)、「腰抜け巌流島」(大映)、「びっくり三銃士」(松竹)、「紺屋高尾」(東映)、「エンタツちょび髭漫遊記」(宝プロ)…と出演作を並べるだけでも、彼が各社から声の掛かる風変わりで貴重なキャラクターであったことがわかる。私はこれらの作品をほとんど知らない。
私の記憶に残る最初の作品は「ノンちゃん雲に乗る」(新東宝)からである。ご存知、石井桃子の童話で、倉田之人監督、ノンちゃんは鰐淵晴子が演じた。母親役は原節子、父親役は藤田進、雲の上の仙人役が徳川夢声であった。青年時代の名古屋章も出ていたらしいが、これはさすがに記憶にない。このとき倉田マリコという女優が出演していたらしいが、彼女が、プレイボーイとして何度も結婚離婚を繰り返した大泉滉の後の夫人となる。相当な恐妻家だったらしい。

大泉滉はテレビドラマ「モッキンポット氏の後始末」でモッキンポット神父を演じ、「トンデモハップン」という流行語を生みだした。
大林宣彦は大泉滉と言う俳優を珍重した。円谷のウルトラマンシリーズでは大泉は貴重な俳優だった。東映の大部屋俳優の志賀勝は、常に大泉滉を「先生」と呼んで尊敬していた。
大泉滉はスクリーンでは笑うことの少ない喜劇役者だった。その飄然とした風狂ぶりは、面白いのだが、どこかに暗さが漂っていた。暗さというのは当たらぬかも知れない。むしろ、どこか明るい空虚さ、虚無的な明るさがあったかも知れない。
おそらくそれは、差別され苛められた少年時代と、父・大泉黒石の孤独、狂的な虚無が、強く影響したものかも知れない。そして、黒石のどこまでが真実で、どこまでがホラ話か、その境目の見当たらぬ伝説は、子の滉の飄逸さにも見受けられるのだ。

大泉黒石には妻の美代と、四男五女の子どもがいた。酒に溺れ、癇癪を起こし、ついには家族とも対立し見放された孤独な父親を、ずっと愛し理解しようとしていた唯一の子どもが、大泉滉だったらしい。
大泉黒石は茫洋とし、謎に満ち、空虚で、切なく、寒々と寂しく、投げ遣りな人生を送った人であった。黒石の写真を見ると、悲しい目でジッとカメラを見つめているのであった。さて、虚空の人とはこの大泉黒石のことである。
アレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキー(大泉黒石)は、その少年時代をパリやロシアで過ごし、あるとき文豪トルストイに抱きしめられ、その膝の上に乗ったことがあるという。