RCサクセションの忌野清志郎がエディ・コクランの「サマータイムブルース」を、日本語の替え歌で叫ぶように歌っていた。もう二十数年も前のことである。
暑い夏がそこまで来てる
みんなが海へくり出していく
人気のない所で泳いだら
原子力発電所が建っていた
さっぱりわかんねえ、何のため?
狭い心のサマータイム・ブルース熱い炎が先っちょまで出てる
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
さっぱりわかんねえ、誰のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース寒い冬がそこまで来てる
あんたもこのごろ抜け毛が多い
それでもテレビは言っている
「日本の原発は安全です」
さっぱりわかんねえ、根拠がねえ
これが最後のサマータイム・ブルースあくせく稼いで税金取られ
たまのバカンス田舎へ行けば
37個も建っている
知らねえ内に漏れていた
あきれたもんだなサマータイム・ブルース電力は余ってる、
要らねえ、もう要らねえ
電力は余ってる、
要らねえ、欲しくない
原子力は要らねえ、
危ねえ、欲しくない
要らねえ、要らねえ、欲しくない
要らねえ、要らねえ、
電力は余っているよ
要らねえ、危ねえ
「歌う」は元々「訴ふ」であると白川静は言った。ロックでこういうことを「訴う」ところが実に忌野清志郎らしい。彼は3.11も福島の原発事故も見ることなく逝った。今頃天国でも歌っているだろう。
だから言ったじゃねえか
原子力は要らねえって、
危ねえ、欲しくねえって
みんなで言おうぜ
原子力のないサマータイム・ブルース
「トラや帽子店」という名の「伝説」のバンドがあった。私の思い出は、この「トラや帽子店」と原発である。私の定義によれば「伝説」とは、あまり一般には知られておらず、当時から知る人ぞ知る存在で、今はすでになく、しかも極めて質が高く、真に秀逸、というものである。
メンバーの誰かが銀座のトラヤ帽子店の息子だからこの名になったという噂が、面白おかしく囁かれたが、これも伝説である。「トラや帽子店」は子どもたちのための、まるでコミックバンドに見まがうほど楽しい楽しいバンドだったが、大人も抱腹絶倒の、しかも極めて秀逸なバンドだった。
メンバーはリーダーの中川ひろたか、座長の福尾野歩、キャプテンの増田裕子の三人である。全員がリーダー、座長、キャプテンを名乗り、誰も下っ端がいない。そこにも彼らの姿勢や思想が表現されていた。いつでも五、六人いるような賑やかさだった。絵本作家の五味太郎や、クニ河内(たしかバンマスを名乗って参加していた)、新沢としひこ等が加わることが多かったからである。ときには絵本作家の長新太も、飛び入りの特別ゲストとして登場した。
メンバーの中川、福尾、増田やマネージャーの小町正らに銀座トラヤ帽子店の倅や娘はおらず、全員が保育士、幼稚園の先生、地方公務員などの出身で、子ども向けの作詞作曲や絵本を手がけてきた人たちである。あるいは増田裕子の国立音大時代の作品に「すてきな帽子屋さん」の歌があることから、「トラや帽子店」と名付けられたのかも知れない。彼らのマネジメントをしていたのは落合恵子のクレヨンハウスだった。
あるとき青山こどもの城(私の事務所はその近くであった)周辺に警察官たちが大勢いた。何事かとエントランスに立ち入って覗いてみると、青山劇場でトラや帽子店のコンサートがあり、これに秋篠宮ご一家が来場されるらしい。
この後もご一家は青山こどもの城でトラや帽子店コンサートがあるたび、何度も来場されている。熱烈なファンなのだろう。トラや帽子店の抱腹絶倒の質の高いステージと、秋篠宮ご一家の観覧から私は確信した。そうだ、皇室はイベントやコンサートの「品質保証」になるのだ。
私の事務所は東京電力の環境イベントや電力館のコンサートを手がけていたことがある。あるとき母子を対象としたイベント提案を求められた。私はすぐさまトラや帽子店のコンサートを思い浮かべ、クレヨンハウスに電話を入れた。スポンサーが東電であることをマネージャーに伝えると、即答された。
「私たちは原発に反対していますので、東電の仕事はお受けできません」
きっぱりとしたものだった。彼らと仕事ができないことは実に残念だったが、私はトラや帽子店がますます気に入ったものである。
この伝説のバンドは2000年に解散した。中川ひろたかは作曲家として、絵本作家として活躍し、福尾野歩は旅芸人として子どもたちを喜ばせ、マネージャーだった小町さんも、オマチマンとして親子に絶大な人気を博しているらしい。細~い増田裕子は丸々と太った平田明子とともにケロポンズを結成した。
ケロポンズは女漫才師に見まがうほどで、のっけに「こんにちは~ケロポンズで~す。決してお笑い芸人ではありませ~ん…」とやって笑わせるのだ。そして歌にしろ音楽にしろ、お遊戯にしろ、手作りの布紙芝居にしろ、大判の布の絵本にしろ、極めて質が高く秀逸。子どもも大人も抱腹絶倒。実に素晴らしい。
ケロポンズのコンサートは、ゲートシティホールで二度やる機会があった。中川ひろたかや五味太郎、クニ河内らも出演した。このときも当時の紀宮が皇后の名代として来場し、ケロポンズに言葉をかけた。…無論、ケロポンズも原発に反対し続けているに違いない。
「電気開けて、世間暗黒となれり」(田中正造)
重大な事故を起こした福島第一原発や、政治判断による各地の原発再稼働への動きを見るにつけ、どうしても田中正造に想いがいく。「電気開けて」とは、文明の利便性追求と進歩、経済的発展と繁栄を象徴する。正造はそのことを頑固に否定しているわけではない。
だがそれが生命を害すること、生命を危険に曝すこと、その生存権を奪ってまで、ひたすら富国強兵、経済的繁栄に邁進する政府・体制を、正造は全身全霊を賭けて弾劾せざるを得なかったのだ。
渡良瀬川流域の肥沃で豊穣な大地が、鉱毒汚染で壊滅し荒涼たる風景に変貌した。原因は古河銅山経営の足尾銅山からの鉱毒で、正造等はその非を訴え 閉山を求めた。しかし富国強兵を推し進める政府は、住民の訴えを無視し反対運動を弾圧した。さらに渡良瀬川流域に遊水池をつくり、そこから住民を追い出すことにした。こうして谷中村などが消滅した。国家が人民の生存権を奪ったのである。
現在の難問に照らせば「(原子力で)電気開けて、世間暗黒となれり」となるかも知れない。福島原発がまき散らした放射能で、いまや豊穣なる海、豊穣なる大地は、不安に覆われ、風評に喘いでいる。半分は天災だが、半分は人災である。
かつて寺田寅彦が書いたように「経済上の都合で、強い地震の来るまでは安全という設計」で、日本は原発の再稼働に踏み切るのである。ドイツは「原発は倫理的でない」と結論した。
「人民を保護しなければ、人民は法律を守る義務がない」
「是れだけに申上げても政府が其れをやるならば、政府は人民に軍サを起こす権利を与へるものである」
田中正造は孤軍奮闘、深い絶望感の中、天皇に直訴を試みて逮捕された。この直訴状を書いたのは幸徳秋水である。正造を逮捕したものの、このあまりに著名な元国会議員、その言説のあまりの正論、その行動のあまりの無私と苛烈さ故に、政府はその扱いに窮し…狂人の烙印を捺して解き放した。狂人とすれば、彼のこれまでの行動や言説に強い感銘を受けていた者たちも醒め、彼から離れるにちがいない…。
ようやく社会的な関心も高まり、キリスト者や新聞人、学生たちが彼の支援に立ち上がった。神田錦旗館で足尾鉱毒反対演説会が開催された。正造の演説は多くの青年たちの胸を激しく揺さぶった。
帝大法科の学生・河上肇は窮乏の生活を送っていたが、この時自らの外套、学生服を脱ぎ、浄財として被災民に贈った。以来、彼は貧窮を経済学のテーマとした。
黒澤酉蔵青年は、正造の手足となって働く決意をし、正造が最も辛苦に喘いだ時期に彼と共に闘った。酉蔵は正造に強い感化を受けた。鉱毒反対運動中に逮捕され、その収監中に差し入れられた聖書を読んでキリスト者ともなった。その後、幼い弟妹を養うため北海道に移住した酉蔵は、そこでキリスト者の宇都宮仙太郎の牧場で牧夫として働いた。
やがて独立し、宇都宮仙太郎、佐藤善七らと北海道製酪販売組合連合会を設立した。これが「雪印」となる。この黒澤酉蔵によって、田中正造と渡良瀬川鉱毒被害の貴重な記録文書が、後世まで保存されたのだ。
神田錦旗館の演説会に強い感化を受けた青年のひとりに、志賀直哉がいた。彼の心は複雑だった。直哉の祖父は古河市兵衛と親しく、足尾銅山に関わっていたからである。
祖父・志賀直道は相馬藩士だった。維新後、相馬家の家令を勤めた。彼は家令として相馬家の財産を小野組に融資し、小野組の番頭・古河市兵衛と親交をもった。やがて古河市兵衛の銅山事業の創業を支援し、足尾銅山開発に力を貸した。足尾鉱毒問題が社会問題化した頃には、すでに引退していたものの、直道はまだ 矍鑠としていた。
直道の子・直温は第一銀行に勤め、その任地である石巻で直哉が生まれた。後に直温は実業家として活躍し、明治財界の有力者となった。神田錦旗館の田中正造の演説に感動した直哉は、渡良瀬川沿岸被災地調査キャラバンに参加しようとして父・直温と家庭内で激しく対立し、父子の不和は決定的となった。
直哉が古河の足尾銅山と政府を激しく論難するのを、祖父の直道は目を瞑ったまま腕を組み、じっと聞いていたという。直哉は古着などを現地に送った。
この父子の不和と憎悪が、その後の直哉の小説「暗夜行路」の底流をなし、後年の「和解」まで決して解けることはなかったのである。
ちなみに相馬と石巻は、この度の大震災と津波で市街地の広域を消失した。そのうえ相馬は福島第一原発事故で放射能汚染にも見舞われた。
「国は尚人の如し。人、肥えたるを以て必ずしも尊からず、智徳あるを尊しとす。
国は尚人の如し。腕力ありとて尊からず、痩せても智識あるを尊しとす。
国は尚人の如し。手足長しとて尊からず、体小なりとて、思慮高ければ尊し。
国は尚人の如し。容貌美なりとて尊からず、宗教行われて尊しとす。正直律儀自由温良を尊しとす。」
田中正造は、明治の国家が目指していた富国・経済主義を、強兵・軍事優先主義を、大国主義を、物質主義・外見主義を、このような表現で批判したのである。