認知症予防のために

落語のご隠居さんは物知りである。他人(ひと)が知らないことを知っているばかりか、本人も知らないことまで知っている(ふりをする)! 物知りとは知識を集積していく人である。知った知識を忘れないためには、何かに書き留めるか、それが面倒なら誰かに話す、教えてあげることである。知ったかぶり、教えたがりと言われても、できるだけ多くの人に話すことである。誰に話したかは忘れても、話の内容は記憶される。だから「あ、その話、三度目なんですけど」と笑われることもある。でも、知ったかぶり、教えたがり、知識のひけらかしは認知症の予防にうってつけなのだ。
最初から物知りはいない。私も福羽逸人を知らなかった。それを教えてくださったのは新宿御苑の方で、環境省のお役人であった。イベント会場の下見の日であった。私はそれまで新宿御苑が環境省の所管であることすら知らなかったのである。その方のご案内で御苑内を見て歩いた。彼は「まもなく新宿御苑開苑100周年と、福羽逸人の生誕150周年を迎えます」と言った。「フクバ、ハヤトですか?」「ええ、新宿御苑の父と呼ばれています」とにこやかに言った。…その方から福羽逸人のことをざっと教えていただき、貴重な史料も見せていただいた。興味を抱き、その後いろいろ調べ始めた。
すると、彼の師・津田仙のことを知り、津田仙について調べ始めた。知ったことは書き留め、イベントや番組、出版企画等の企画書にし、プレゼンの際に知ったかぶりして話し始めた。生来、知ったかぶり屋で教えたがり屋なのである。ねえ知ってる? あのね…仕入れた知識はすぐ話す。
ちなみに、その環境省の方の話やその後の調べで、玉川上水の終点が新宿御苑の玉藻池あたりで、池の余水が流された細流は代々木練兵場の脇を流れて渋谷川と合流し、渋谷川は宇田川と合流することも初めて知った。忘れないよう、三年後に「掌説うためいろ」の「『春の小川』異聞」に書き留めた。

下総佐倉藩第五代藩主・堀田正篤(まさひろ)は、藩政改革と蘭学に熱心で、藩校で洋学と砲術、オランダ語、英語も学ばせ、江戸薬研堀に蘭方医学塾を開いていた和田(佐藤)泰然を招聘して、佐倉順天堂を開設した。ここから明治の医学界を主導する人材が数多く芽吹いたのである。そんな正篤を蘭癖と呼んで嫌う人も多かった。
泰然の養嗣子で第二代順天堂堂主となった佐藤尚中(たかなか)は、下総国の香取の出身で、和田塾、佐倉順天堂に学んだ。彼は明治二年、政府から大学東校(後に東京帝国大学医学部)の教授に任じられ、順天堂堂主のまま初代校長となり、明治天皇の侍医長にも就いた。尚中は明治五年に日本初の私立病院・博愛舎を設立し、明治八年に順天堂医院を開設した。もとは堀田正篤が蒔いた種子なのである。
その堀田正篤に話を戻す。天保十二年(1841年)、正篤は老中首座の水野忠邦によって老中に任じられたが、水野が推し進める天保の改革は失敗すると見、水野失脚前に病気を理由に老中を辞任した。しかし老中首座の阿部正弘によって、安政二年(1855年)再び老中として幕政に就くことになる。彼の幕政入りを最も嫌い、警戒したのは徳川斉昭である。堀田正篤は鎖国や攘夷を時代錯誤と断じた明快な開国論者だったのだ。
第十三代将軍家定に島津家から篤姫が輿入することになり、正篤は篤の字を憚って正睦(まさよし)と改名した。安政五年、正睦は日米修好条約の勅許を得ようと上洛するが、徳川斉昭が蠢動し、条約反対の攘夷派公卿らの強硬な反対と妨害、孝明天皇のゼノフォビアもあって、手ぶらのまま江戸に戻らざるを得なかった。…

天保八年(1837年)、小島善右衛門の三男として佐倉城内に生まれた千弥は、嘉永四年(1851年)、元服に際し桜井家の養子となった。藩校で藩命として洋学、オランダ語、英語を学び、さらに江戸に出て蘭学塾で英語を学んだ。文久元年(1861年)に津田家の初子の婿養子となって津田仙と名乗り、外国奉行の通訳に採用された。
慶応三年(1867年)、天文学者・数学者・測量家・幕府の海軍軍人で勘定吟味役の小野友五郎が、軍艦調達のため渡米する際、津田仙、福沢諭吉、尺振八(せき・しんぱち)が通訳として小野に随行した。ちなみに小野は長崎の海軍伝習所で勝麟太郎と同窓で、共に万延元年(1860年)に咸臨丸で渡米している。勝が教授方頭取(艦長)、小野が測量方兼運用方(航海長)である。また小笠原諸島の日本領有の功の第一は、小野友五郎にある。
アメリカで津田仙が強い衝撃を受けたのは、彼我の農民たちの暮らしぶりの差である。かの農民たちは何と豊かなのだろう、引き替え日本の農民たちは何と貧しいのだろう。さらにかの国の、自立し堂々と物言う女性たちの姿である。そのとき、彼の思いは日本の農業改良と教育、生活改善、さらに女子の教育に向けられたのである。
明治維新後、津田は官職につかず、築地ホテルの近くで西洋料理のための西洋野菜の栽培に取り組んだ。種子はアメリカから持ち帰ったものである。日本で最初の西洋野菜栽培であろう。近代農業の第一歩は、津田仙から始まったのである。堀田正睦が蒔いた種子が芽を出したのである。
明治四年、政府が開拓使を設立すると津田仙はその嘱託となった。その長、黒田清隆が女子教育に強い関心を持ち、岩倉遣欧使節団に女子の留学生も随行させることを企画していたからである。津田は次女の梅子を応募させ、まんまと五名の女子留学生の一人として送り込むことに成功した。そのとき梅子はまだ七歳で、使節団中の最年少だった。他の女子留学生は上田悌十六歳、吉益亮十五歳、山川捨松十一歳、永井繁十歳である。岩倉使節団が出航した翌月、津田仙は開拓使を辞職した。娘の梅子をアメリカに送り込むという目的を達したからである。
ちなみに上田、吉益は一年未満で帰国している。永井繁の帰国後は知らない。山川捨松と津田梅子は明治十五年の晩秋に帰国した。山川捨松は大いに期待されたが、大山巌に執拗に口説かれてその夫人となり、鹿鳴館の華となって、他の夫人たちに西洋流マナーと舞踏を教えた。梅子は伊藤博文邸で英語の家庭教師をし、下田歌子から日本語を学んだ。日本語を忘れていたのである。その後、華族女学校の英語教師となり、明治二十二年に再びアメリカに留学し、明治三十三年、女子英学塾を開いた。後の津田塾大学である。

さて津田仙である。開拓使を辞職後、一時民部省に籍を置き、明治六年にはウイーン万国博に書記官として随行した。そのおり、オランダ人農学者ダニエル・ホーイブレンクを訪ね、新農法の教えを乞い、受粉法や様々な種子を持ち帰った。帰国後にその講義録を「農業三事」としてまとめ、出版した。また持ち帰ったニセアカシアの種子から苗木を育て、明治八年、大手町に日本初の街路樹として植えられたのである。この年の一月、彼と妻の初子はメソジスト派として受洗した。また私費を投じ、麻布に出版と農学校の「学農社」を設立した。ここで農業を志す多くの若者を育て、また「農業雑誌」を発行し続けた。明治九年、津田仙はアメリカ産トウモロコシ種子の通信販売を始めたが、これが日本初の通信販売である。明治十年、福羽逸人が学農社に入り、農業と化学を学び始めた。
教育者としての津田仙のことである。津田は新島襄を支援し同志社英学校の創立に加わり、その後も同志社学院、同志社大学創立へと力を貸した。
津田仙は明治七年、ドーラ・E・スクーンメーカー女史が女子小学校を創始する際、これを助け開校に導き、先ず最初の生徒として妻の初子と長女の余奈子、姪や妻の友人やその娘たちを入学させた。これが後の青山学院女子部、青山学院大学である。ちなみに長女の(安孫子)余奈子は、後年アメリカに移住している。
また津田は福沢諭吉の弟子で慶應義塾の初代塾長を務めた古川節蔵らと共に、楽善会を組織して盲聾唖者学校を設立した。新渡戸稲造や内村鑑三らがキリスト友の会の教育機関として女学校設立に動いた際、津田もそれに加わった。明治二十年開校のフレンド女学校である。翌年「普聯土女学校」と改名したが、命名者は津田で「普く世界の土地に連なる」の意である。この学校は港区に今もある。
津田は各地に農業視察やその指導に赴いている。山梨の葡萄栽培も視察し、ワイン醸造指導も行い、後年、福羽逸人を赴かせている。また津田は足尾鉱毒事件の田中正造を熱心に支援し続け、その農民救済運動に奔走した。
津田仙は新島襄、中村正直と共に、日本のキリスト教界の三傑と称された。

福羽逸人は安政三年(1856年)石見国津和野藩の佐々布利厚の三男に産まれ、明治五年に福羽美静の養子となった。福羽美静は津和野藩士で国学者だった。文久三年(1863年)に孝明天皇の近侍となり、維新後は神祗官となり、神祗制度を確立させ、明治天皇の侍講を務めた。後年元老院議官となって子爵に叙された。したがって養嗣子の逸人も子爵を継承した。
明治五年、内藤新宿農業試験場が近代農業の振興を目的に開設された。ここに欧米の果樹、野菜、花卉が植えられ、養蚕と牧畜の研究が行われたのである。この試験場内に設けられた農事修学所は、後に東京帝国大学農学部になる。福羽逸人は津田仙の推薦で内務省勧農局に入り、この農事修学所で働くことになった。内藤新宿農業試験場は、明治十二年に宮内省管轄の新宿植物御苑となり、内外の賓客を迎え、木造洋館の御休所も建設された。苑内には皇室御料池(鴨池)、農園、養魚場、動物園も設けられたが、動物園の動物は大正十五年に上野動物園に下賜されている。
福羽逸人はその新宿植物御苑の設計と開設、その運営と、果樹、野菜、花卉等の研究と普及に生涯を捧げた。彼が最も力を注いだのがイチゴ、ナス、キュウリなどの促成栽培、温室栽培(施設栽培)であった。日本でメロン栽培を最初に手掛けたのも福羽である。その栽培技術の工夫、改良の業績は特筆されるものであった。
福羽は温室栽培の熱源と温度調節に、牛馬糞の堆肥を用いた。堆肥は熱を発するのだ。促成栽培、温室栽培(施設栽培)の研究と業績は、現代に連なる日本農業の偉大な礎であった。促成栽培とは福羽の命名なのである。
現在日本で栽培されているイチゴのほとんどの元親は、「福羽」という品種である。彼はその品種を開発しその普及に努めた。当時「福羽イチゴ」は海外でも非常に高い評価を受けたという。もともと苑内で栽培されたイチゴもメロンも皇室に供されるものだが、その種と栽培技術は一般農家にも広められたのである。
日本のワイン史から福羽の名を外すことはできないと言われている。彼は津田仙の紹介を得て、勝沼の雨宮家を訪ね、鎌倉時代から続く甲州種の由来と、雨宮勘解由伝説を聞き書きした。それまでは雨宮家の口伝とされ、文字史料としては存在していなかったものである。彼はさらに取材を続け、「甲州地方葡萄繁殖来歴」を著した。また兵庫県の官営播州葡萄園の副場長として、フランス式の棚無し栽培を試み、各種のフランス種の栽培、温室栽培等の実験を繰り返し、ここからマスカット種が全国に広まったのである。
彼はオリーブ栽培やオリーブ油の生産についても研究を委嘱され、神戸植物園内に温室を建設し、その栽培に当たった。栽培したオリーブは目覚ましい成果を上げ、精製したオリーブ油の品質も高い評価を受けている。
またランや熱帯果樹等の栽培にも力を注ぎ、大隈重信のラン栽培やガーデニングの指導もしていた。
福羽逸人は明治二十九年から宮内省式部官も兼務し、伏見宮のロシア旅行にも随行した。明治三十三年のパリ万国博覧会に大輪の菊花を出品し、博覧会園芸万国会議に列した。そのおり、ベルサイユ園芸学校長のアンリ・マルチネを訪ね、御苑の改造や指導を依頼し、彼から広大、かつ華麗な西洋庭園の作庭術のノウハウを得ている。明治三十六年に植物御苑苑長となり、翌年に宮内省内苑局長に就任した。また東京市の依頼を受け、街路樹の選定にも当たった。スズカケ、ユリノキである。
現代の食卓を彩る西洋野菜、果物類の多くは、福羽逸人の品種改良と栽培の普及活動に端を発し、また競争力のある高付加価値農産品も彼の研究に端を発するものが多い。
十年前は、津田仙も福羽逸人も「知る人ぞ知る」存在であったが、今日では誰でも知っている人なのかもしれない。繰り返すが、知ったかぶりと教えたがり、知識のひけらかしは、記憶力に効き、海馬に良く、認知症予防に役立つはずである。さあ、どんどん知識をひけらかそう。