エッセイを公開する機会を得て、ぽつぽつと書き続けている。それを「エッセイ散歩」と題したのには訳がある。先ず私には、これといったテーマがないからである。自分の人生に、ついに目的もテーマも見つけられなかったほど、これは苦手なのである。「散歩エッセイ」とすれば、「先日六義園に行った。マンホールが気になり下を向いて歩いた」とか、「麻布の暗闇坂をぶらぶらとした」とか、「鎌倉の雪ノ下に刀剣を見に行った」とか、自ずとテーマは散歩に絞られるが、出不精の私にはとても苦手なことなのである。
「エッセイ散歩」とすれば、頭の中に去来する様々なことに触れるだけでよく、あっちにぶらぶら、こっちにふらふらと、支離滅裂型の私には都合がいい。その「エッセイ散歩」に、わざわざ「知られざるもの」と尻尾のごとき副題を付けたのにも訳がある。私は自らに天野雀空という筆名を付けるほど天邪鬼なので、あまねく誰もが知っている事、人、物には、ほとんど関心が持てないのである。知る人ぞ知る人物や事、あるいは埋もれてしまった人物や事件、無名の人などに興味があり、これを遍く知らしむることこそ、イベント屋、物書き、ドキュメンタリスト、ジャーナリストの役割だろうと思っている。また、ほとんど知られざることなので、少々間違ったことや、いい加減なことを書いても特に咎められることもなく、これはこれで都合がいい。できる限り「知られざるもの」を取り上げていきたい。と、ふと思うが、世に全く知られざる私がそれらを取り上げても、それは知られざるままで、埋もれていくに違いない。
ちなみに天野雀空の私には栗唐(倶利伽羅の意)紋太という筆名もあるが、これは菅原文太兄ィへの憧れと、ガラの悪い「罵詈雑言エッセイ」用である。
先日、たまたまフジテレビの「ザ・ノンフィクション~馬フンをさわれ!?」を見た。もちろん私は「馬フン」のタイトルに反応したのである。昨今、競走馬の馬フンの匂いが、一昔前とは変わったらしいのである。飼料にも工夫がほどこされ、様々なサプリメントを食べさせられているからだと聞いた。
しかしこのドキュメンタリー番組はそんな話ではなかった。ある老教育者と子どもたちの七年の記録なのであった。
長野県上伊那の春日幸雄先生は、小学校教師だった頃からポニーを飼い、その世話を子どもたちに担当させた。定年退職後パカパカ塾を開塾した。彼の教育理念はユニークである。それに賛同した父兄らが子どもたちを彼の元に通わせた。先生、顔も恐い。よく叱る。言うことを聞かない子どもの頭を平手でベシッと叩く。子どもたちにポニーの世話をさせ、その生と性、死を見つめさせる。やがて彼の元に通う子どもたちは減り続ける。親たちは、子どもを学習塾に通わせるようになったのだ。先生、今年七十四歳になった。小学校の教師時代から飼育していた未有馬(みうま)というポニーが死期を迎える。今いる子どもたちが未有馬を見守る。やがてかつての教え子たちがやって来る。パカパカ塾の卒業生たちもやって来る…。
…このドキュメンタリー作品には、映像の背景に多くの曲がさりげなく使われている。私はその中の一曲に耳をそばだてた。はて、何という曲だったか? 懐かしい、優しい調べだ。童謡? 唱歌? すぐ口ずさめそうなのに、その詞が全く出てこない。この作品で使用されていた楽曲の中では一番美しく、優しい曲だ。誰の曲? 何という曲?…駄目だ、全く思い出せない。…以前、何かを書きながら、頭の中に流れ続けた調べである。しかし思い出せない。
…ふと、宮沢…賢治…の名が浮かんだ。そうだ、「掌説うためいろ」の「邪宗門と青春の修羅」を書いていたときだ。宮沢賢治の「星めぐりの歌」だ。これですっきりした。
春日幸雄先生やパカパカ塾は、すでに多くの人に知られているのかも知れないが、私は初めて知った。こういう人物、教育者のことを知ると嬉しい。初めて知ることは喜ばしい。もちろん「星めぐりの歌」は誰でも知っている曲だが、たまさか思い出して聴くと嬉しい。いい曲だ。癒やしの曲だ。
友人と話をするうち、改めて「知られざるもの」「知る人ぞ知る」ことを物語り続けるべきだと、その思いを強くした。
例えばナダール、例えば津田仙と福羽逸人。これらの人物については、すでに何度かイベント企画書や番組企画書にしたり、エッセイに書いたことがある。イベント提案や番組提案に関しては、その都度「誰も知らない」「ほとんど知られていない」という理由で実現することがなかった。「知られていないからこそ、やる意義があり、それを知らしむるのがマスメディアの使命だろう」と愚痴ったが、通じる相手ではなかった。視聴率がとれそうもない企画は、やらないのだ。
今はインターネットによって誰もが知るところになっているのかも知れない。いやおそらく、知る人ぞ知る存在になったに違いないが、やはり「ほとんどの人は知らない」存在のままだろう。
ガスパール・フェリックス・トゥルナション、通称ナダール(1820~1910年)。写真の偉大なる先駆者である。
私がナダールの写真展に名付けたタイトルはもう忘れた。「大ナダール展」にサブタイトルとコピーを付けたものと思われるが、すでに三十年余も前のことなのである。番組企画書を書いたのは十年前のことである。タイトルは「大王と呼ばれた男~写真の先駆者ナダール 人と時代~」である。
ナダールは不良青年で、ボヘミアンであった。その頃からの親友はボードレールである。数多くの苦難に遭遇した冒険家であり、痛烈な政治カリカチュアや風刺肖像画を描いたジャーナリストの端くれでもあった。彼の諷刺肖像画集「パンテオン・ナダール」が刊行されたのが1853年のことである。
その頃ナダールは新技術の写真に出会う。我々が教科書や文学全集等で目にする偉大な作家、文豪たち、音楽家、科学者、政治家、女優の肖像写真…例えばバルザック、デュマ、ボードレール、モーパッサン、ネルヴァル、ジョルジュ・サンド、コロー、ビゼー、サンスース、ドーミエ、ファーブル、サラ・ベルナール…。特に共にボヘミアンとして各地を放浪した、不良青年時代からの親友ボードレールの肖像写真は凄まじい。ナダールはボードレールが狂気に陥っていく過程を撮影し、死の床についたその姿も撮影した。
彼はその陽性な人柄と行動力、実力と侠気から「ナダール大王」と呼ばれ「ナダールに写真を撮ってもらえたら、一流と認められた証」と言われた写真家なのである。ナダールは一流しか撮らなかったのだ。
ナダールは日本人も撮影している。当時幕府から派遣された侍たちであり、川上音二郎と貞奴である。侍たちは江戸幕府に親しく入り込んでいたフランスの外交官から、パリに着いたらナダールの写真館を訪ねて撮影してもらえと勧められたのである。被写体が一流かどうかはともかく、ナダールは好奇心の塊のような男であった。何しろ、剃った頭にちょんまげ、着物、袴、刀や芸者姿は、ナダールの好奇心をいたく刺激し、興奮させたことだろう。
ナダールは熱気球に乗ってパリの上空高く舞い上がり、世界で初めて航空写真を撮った。パリの街区から遠くに霞む郊外までを写し撮っている。彼によって人類は鳥の眼を獲得したのである。ドーミエは熱気球に乗ってパリ市街を撮影するナダールの風刺画を描き「写真を芸術の高みに浮上させようとするナダール」と書いた。
確かにナダールは写真を芸術の高みに引き揚げたのである。銀行家の掌をアップで撮影した「銀行家の手」は、まさに芸術そのものである。そんなふうに写真を撮り、そのようなタイトルを付けたのは、世界で彼が最初であったろう。やがてこの手が世界を牛耳ることを、慧眼のナダールは予感していたに違いない。
また高名な科学者らにインタビューをしながら撮影したのも、おそらく彼が世界最初であったろう。古ぼけたテーブルの前に坐った自然なファーブルの写真も、おそらくインタビューをしながらの撮影だったと思われる。
また彼はバリの地下墓地カタコンブや地下下水道に入り込み、マグネシウムを用いて世界で初めて人工光による撮影に成功した。さらに「自転車で疾駆する男」も撮影している。当時は、動く被写体を撮影できなかったのだ。
「印象派」の画家たちは特に日本人に人気が高い。彼等が若く、無名で貧しく、画廊を借りる金もなく、彼等の絵を扱う画商もいなかった頃、彼等には展覧会の機会もなかった。ナダールは自分の写真館を彼等に提供し、展覧会を開いた。多くの若い画家たちが彼の世話になった。ナダールは彼等を「印象派」と呼んだ。「印象派」とはナダールの命名だったのである。ナダールの写真館は画家や文学者など、芸術家が集まるサロンとなった。
戦争に際しナダールは中年であったにも関わらず、義勇兵として参加し、熱気球で敵陣を偵察飛行した。海外の政治犯や亡命者を匿い、その逃亡を手助けした。彼は義侠の人であったのだ。
世界最大の熱気球を作り、多くの人を乗せて舞い上がって墜落し、彼自身も大怪我を負った。SF作家の祖ジュール・ベルヌと共に「世界飛行協会」を創立し、最新飛行物体の設計と試作に夢中になった。彼が残したスケッチや設計図から、その怪しげな飛行物体は、現代のヘリコプターのようなものだった。
永遠の不良青年で侠気と茶目っ気の人ナダール。大王と呼ばれ愛されたナダール。人物が浮かび上がる黒を背景に、その人物の内面を写し撮ると評されたナダール。写真における世界初めての数々の試み。ナダールの写真の原板はフランス国家の管理下にある。つまり国宝級なのである。
哲学者で文学者のロラン・バルトは、その写真論「明るい部屋」にこう書いた。
「世界で一番偉大な写真家は誰ですか。ナダールです。」
しかし日本においてナダールは、おそらく写真に造詣の深い一部の「知る人ぞ知る」存在のままなのに相違ない。あの時、日本初のナダール大規模展と、ナダールのドキュメンタリー番組をやるべきだったのだ。
さて、津田仙と福羽逸人の物語は次の機会としたい。