梅原貞康は、ロシア革命にちなんで自らを「北明」と名付けた。「俺はテンちゃんと同じ年生まれ」と、誰憚ることなく公然と言い放っていたのが北明である。テンちゃんとは昭和天皇のことで、親しみからではなく、ライバル心、敵愾心からそう呼んだのである。北明は権威もエラそうな奴も、みな大嫌いなのであった。これらは全て反抗の対象、揶揄の対象、地に堕とすべき対象なのである。
以前、北明の職歴を数えたことがある。 …郵便局員(現金書留の中味を抜き盗って首になった)、医院薬局アルバイト(勝手に薬を持ち出して横流ししたのがバレて首になった)、部落解放セツルメント(ボランティア活動で、最初の全国水平社大会を企画した)、雑文書き、 新聞記者、翻訳者、出版者、編集者、作家、ゴーストライター、イベント企画者・プロデューサー・演出家、有名女学校英語教師、鍼灸師(いい加減な偽鍼灸師だったろう)、靖国神社臨時職員(神社史編纂)、映画輸入業者(チャップリン映画等を輸入している)、呼び屋(海外からレビューショーやサーカスを招聘した日本の呼び屋第一号である)、劇場支配人、ドキュメンタリー映画製作者兼監督(本邦初オール海外ロケ敢行!高砂族の驚異と衝撃の生態!)、海外工業技術所主宰者・海賊版発行者、機械輸入業者・コンサルタント、密造酒製造者…。
北明には何度かの絶頂期があった。それは官権を相手に闘う出版者として勇名を馳せ、当時としては珍しい高級外車を移動編集室として逃げ回り、発禁・逮捕投獄回数の日本記録を樹立した時であり、映画の輸入と呼び屋、劇場支配人として日劇を再建した時である。帝国ホテルをワンフロア借り切って暮らしていたかと思えば、浅草の裏長屋で食うや食わずの暮らしもした。 特高に追われ、逃亡と潜伏生活を繰り返し、その貧富のサイクルも目まぐるしく、昇降を繰り返す壊れた高速エレベーターか、ジェットコースターか絶叫マシーンに乗っているかのような人生であった。
あの稚気、遊び心、あのユーモア、あの反骨の魂、不屈の闘志、あのアイデア、柔軟な思考…。私にとって北明は、企画者の鑑(かがみ)であり、イベント屋の鑑であった。呼び屋の鑑であり、絵でも文学でも映画でも興行でもイベントでも、本物を見抜く鑑識眼と先見に長け、神にも似た人なのであった。時代の先の先まで見えていたにもかかわらず、「自由」を希求し、その時代の権力と圧力に、時流に、柔らかな武器で、たった一人になっても全力で逆らい、抗い、闘ったのである。しかし敗戦後、時代の圧倒的な風潮となった「自由」に、プイと顔を背けたのである。「フン、何が自由だ」といったところだろう。軽薄な時流に抗う、背く。これこそ、反骨の中の反骨、反逆児の中の反逆児であった。…しかし北明の二つ名から、彼は時代の徒花として、いささか矮小化され、ほどなく、戦後の塵の中に静かに埋もれていったのである。
埴谷雄高は、梅原北明に心酔していた。埴谷は、北明の何に惹かれていたのであろうか。あらゆる権威の否定と自由を追求した不屈の反骨心と、あらゆる権威を嘲笑った少年にも似た稚気、性職者、エロ・グロ・ナンセンスの帝王、地下出版の帝王、発禁王、罰金王、猥褻研究王…。北明自身「私は畏れ多くも御上から、前後三十一回も『禁止勲章』を頂いた国家的功労者」と嘯いて周囲の者を笑わせていた。埴谷を心酔させたのは、そのデタラメさと行き当たりばったりの柔軟さと、無類のアナーキストぶりであったに違いない。そして埴谷雄高は北明から、決して終わることのないドストエフスキー的な自問、反問の文学に行き着いたのに違いない。
新聞記者時代の彼は、すばしっこく、特ダネをスッぱ抜いては素知らぬ顔でセレナーデを口ずさみながら記者クラブに現れたという。彼がセレナーデを口ずさむと、他社の記者は「やられた」と大慌てしたらしい。
北明は独特の取材ネットワークを形成していたと思われる。寝癖のついた髪を手櫛でなでつけ、度の強い太縁のロイド眼鏡をかけていた。その話の抜群の面白さと相まって、何とも親しみやすく、誰もがその魅力にとりこまれたという。また生来図々しく、高位高官などの地位には全く臆せず、取材を装い大臣官邸だろうと各国大使館領事館だろうがズカズカと出入りした。大使館や領事館ではさも親しげに「ハーイ」などと片手を挙げて館員たちに挨拶し、大使領事ともにこやかに立ち話をかわしていた。この人なつこさが彼の特長なのである。また彼は語学が得意だった。
大正天皇の摂政の宮(後の昭和天皇)が大演習を閲兵した際、北明は取材記者であることを利用し、摂政の宮の後ろを通り過ぎるようなふりをして近づき、カメラのフレームの中で並んだような位置に立った瞬間を、予め指示していた友人のカメラマンに撮らせた。そして遊び仲間で役者の曾我廼家五九郎と共に、高貴な方のお忍びを装って高級料亭に人力車で乗りつけた。女将の前で五九郎が北明に平伏し、おもむろに女将に例の写真を見せて、「畏れ多くもこのお方は、摂政の宮の腹違いの兄君にあらせらるるが、弟君が天皇になるより他に能が無いのを哀れに思し召され、皇位を譲られたのである。世が世なら…」と演じた。当然、選び抜かれた美妓があてがわれ勘定はただになった。その後も二人は度々「皇室の広大にして宏遠なる恩徳に浴し」楽しく遊ばせてもらったという。
北明は記者仕事の余暇に、ボッカチオの「デカメロン」の翻訳を進めていた。イタリア語を専攻する学生にざっと下訳させ、それをいかに官能的かつ耽美的な日本語にするかである。「デカメロン」は、これまでも戸川秋骨、大沢貞蔵らの翻訳はあったが、当局の検閲は非常に厳しく、戸川本は即発禁、大沢本は伏せ字の多い抄訳本に過ぎなかった。北明の狙いは完全翻訳本である。そこで北明、一計を案じた。
彼は「ボッカチオ生誕550年祭記念出版」と銘打ち、イタリアの著名文学者アッテリョ・コルッチや日本駐在のイタリア大使モニチゴニ伯と、イタリアの皇太子に序文や推薦文をもらったのである。
「…我が国が世界に誇る古典文学、ボッカチオの『デカメロン』が、貴国に於いて完訳本として出版されることは誠に喜ばしく、貴国と我が国の尊い文化の架け橋となり、両国の親善にとって…」
さらにその本には、イタリア皇帝陛下、同皇太子殿下、皇太后陛下、ムッソリニ首相、同文部大臣らに奉ると書かれていた。北明はこれ見よがしに帝国ホテルで派手な記念出版パーティを開いた。このパーティには来賓としてイタリア大使モンチゴニ伯も出席し、イタリア皇太子の祝辞も読み上げられた。さらに北明は念を入れ、大使を通じてムッソリニに両国文化交流の記念と御礼として日本刀も献上した。この出版記念パーティには日本の殿下たちにも招待状を出したそうだが、当然のように無視されている。とにかく内務省図書課の検閲係の役人や、警視庁の刑事たちは国際問題になるのを恐れ、発禁も逮捕もままならず、手も足も出なかったのである。
さらに浅草の凌雲座で曾我廼家五九郎らと「ボッカチオ祭」を催し、ここにもイタリア大使が来場した。大使は「イタリアの古典文学の紹介普及と、両国の文化交流に多大な功績があった」と、本国に勲章を申請し、北明に授与した。その勲章は、五九郎らと「ボッカチオ祭」の打ち上げで飲めや歌えで、カフェでさんざん酔っぱらったあげく、女給にくれてやったという。
こうして北明は伏せ字も削除もない完訳本を、まんまと出版した。しかも北明は図々しく書いている。…「たとえどんなことであろうとも、この作品において私が用いましたようにできるだけ上品な言葉を持って物語ったならば、世の中に物語って悪いというものは一つもないのであります。」…彼の名は知られていった。
北明は続いてウィリアムスの「露西亜大革命史」を杉井忍と共訳で刊行した。しかも、発禁にもならず、削除も伏せ字もなく、検閲をパスしたのだ。これはほとんど奇跡的な出来事である。おそらく内務省の検閲係や、警視庁刑事たちは、北明が「デカメロン」でちらつかせた「背景」を探りつつ、発禁逮捕を遠慮したものにちがいない。北明は検閲をパスした喜びを手放しで書く一方、取締り当局向けの文章も書いていた。「俺達は日本の国体に関して、毫も、とやこう論ずるものではない。…露西亜の革命を偉大なる一つの歴史として此れを見、それを記憶し、そして其れが斎せる様々の現象を学究的に研究する迄の事だ。…ロシアに於ける唯一の救い主は革命であった。併し、現在の日本の社会状態を救う唯一の活路は必ずしも革命であるとは限るまい。誤解されては困る。」…
北明は舌を出していたに違いない。そして「露西亜大革命史」の出版記念会も派手に開催した。このパーティで今東光らと知り合った。今東光はたちまち北明の人柄に魅了され、気に入ってしまったのである。今東光は菊池寛の「文藝春秋」の同人だったが、菊池とケンカし、「文党」という同人誌を始めようとしていた。北明は文芸誌としての揺るぎない地位を確立した「文藝春秋」も、菊池寛のでかい態度も気に入らなかった。北明はこの「文党」に参加することにした。
当時の文壇では、菊池寛の「文藝春秋」は大勢力であり、彼は文壇の大御所とされた。彼に睨まれると文壇では出世できなかった。今東光と共に菊池に反旗を翻した横光利一は、川端康成に諭されて反旗を降ろした。川端は長い物に巻かれる男であった。北明が今東光の「文党」に荷担したのも、すぐその後に自ら文芸誌「文芸市場」を出すのも、菊池への対抗心からであった。
後に菊池は、文士を引き連れて戦地に行ったり、体制におもねる提灯記事や御用記事を書かせ、軍用機を寄付したりした。このため菊池は戦後に戦犯となったのである。
さて北明は「文党」発足に合わせて、宣伝を演出した。「文党」メンバーで画家・劇作家の村山知義や吉頓次郎に看板を描かせ、それを今東光、金子洋文、村山知義、サトウ・ハチロー、間宮茂輔らの作家や詩人らの胸と背に付けさせ、サンドイッチマンのように銀座を練り歩かせたのである。しかも彼らはメガホンを持ち、北明が作詞?した「文党歌」を「桃太郎」の節回しで歌いながら練り歩いたのである。
〽桃太郎さん桃太郎さん / お腰につけた黍団子 / ひとつわたしに 下さいな … (ハイ、みんな一緒に歌って!)
〽文党だ文党だ / 天下に生まれた文党だ / 値段が安くて面白い
〽文党だ文党だ / 既成文壇討たんとて / 勇んで街に出かけたり
さっそく各新聞社がこの珍景を取材し、翌日の新聞に出て話題をまいた。
ちなみに、古来日本では「〽」を、能の謡本や連歌の目印として使用していた。その後も「ここから歌だよ」の記号として使用している。庵点(いおりてん)、歌記号という。これは約物(やくもの)のひとつである。約物とは句読点、疑問符、括弧等の記述記号類のことである。むろん現代人の多くは「〽」の替わりに「♪」を使用することが多い。
北明は「デカメロン」で一山当て、新聞社も辞め自ら左翼調の「文芸市場」を創刊した。「文芸市場」はダダ、表現主義、新感覚派、プロレタリア文学等の時代の尖端が集められた。「『文芸市場』は人生を文化住宅化することに反逆するものだ。」と北明は書いた。
「文芸市場」には「文党」の今東光や村山知義、金子洋文、佐々木孝丸らも参加した。大山郁夫や堺利彦、徳永直らも執筆した。後にダダイストと知られる辻潤も書いた。この時も北明は作家たちを駆り出し、印刷後の作家たちの生原稿を、「世界文芸史上最初の試み!」と銘打ち、銀座の路上で「競り売り」させた。あっという間に黒山の人だかりができ、各新聞社が取材に駆けつけた。
「サァ堺利彦の生原稿、三枚いくら!」「十五銭!」「そりゃあ可哀想だ、もっと値をつけろ!」「二十銭!」「二十銭、まだ安い!サァ後はないか!、あの堺枯川先生の生原稿だよ!」「三十銭!」「四十五銭!」「五十銭!」…
京橋署から交通妨害だと注意を受け、警察の指示で数寄屋橋に場所を移して、なおも競り売りを続けた。原稿が売り切れると校正刷りから紙型まで持って来させて売り飛ばした。夜の八時に店仕舞いした時、大枚百四十五円を売り上げていた。翌日の新聞にこの模様がいっせいに掲載されて、宣伝効果は上々だった。これは文壇人から顰蹙をかったし、拍手喝采も浴びた。北明はまた有名になった。彼はこの黒山の人だかりをなした街頭販売風景の写真を撮らせていて、第二号の表紙に使った。
「…若し彼があの馬鹿々々しい資本主義の王国アメリカにでも生まれていたら、ケンタッキーの山奥あたりから出て来て一躍、フォードに認められて其の宣伝部長に推薦されたという様な華やかな、そしてセンセーショナルな挿話を全世界に振りまいたであろう。」と今東光は書いた。後にこうも書いている。「北明は偉大なジャーナリストだった」…
昭和二年四月二十九日、昭和の御代に初めての天長節(天皇誕生日)で、町中では子供たちが天長節を祝う曲を歌わせられていた。
〽今日の吉(よ)き日は 大君の / うまれたまひし 吉きひなり
上野の森の上野自治会館から、鳴り物と艶っぽい歌声が流れてくる。上野の色っぽい歌声は、天長節を祝ったものではない。
〽エヤーコリヤ お江戸で名高きお寺は駒込の 吉祥寺 …
〽八百屋の店にて売る品は いも、だいこ、とうなす、ごぼう、
お七の好きなとうもろこし …
〽元から先まで毛の生えた とうもろこしを売る八百屋 …
「八百屋お七覗きからくり唄」で、歌っているのは小石川白山の三業組合から選ばれた綺麗どころである。お七の菩提寺がある小石川梅ケ谷町と白山の花街は近い。上野自治会館で面白おかしく艶っぽく執り行われていたのは、「八百屋お七 二百五十年追善法要」で、北明の企画である。
本当は二百四十五回忌なのだが、北明はサバを読んだ。大事なのは昭和天皇の初めての天長節の日に行うことであった。目的はもちろん、嫌がらせである。事前に各新聞社に十分なPRをしていたので、当日は全紙の朝刊にこの催しが掲載された。追善法要は午後の一時から行われる予定なのに、朝の十時には上野の森にたくさんの人が集まりだしていた。
浅草寺の救護栄海大僧正や、お七の菩提寺の市原広海住職等が導師をつとめ、真面目に法要が営まれた。その後、民俗学者の藤沢衛彦が「お七の史実と伝説」、歌舞伎評論家の渥美清太郎が「歌舞伎に現れたお七」、国文学者の笹川臨風が「文芸上に現れたお七」と題して講演した。講演後「お七和讃」で有名だった本所多田薬師の小山正順住職が、この吉き日に陰々滅々と和讃を唱えた。
〽哀れなるかなお七とて、たぐいまれなる娘なり … 朝夕唱える念仏も ただ一筋にねんごろに お七菩提と回向する 末世のいまに至るまで 知らぬ人こそなかりける 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 …
「賽の河原節」のような実に暗い和讃で、哀れ恋に生き恋に死んだお七に、集まった老若男女は涙にくれた。帝都東京は祝賀ムードなのだが、上野の森の人々は、皆思わずハンカチで目頭を押さえるのだった。…さて、その後が当日最大の呼び物で、先述した白山の綺麗どころの艶っぽい「お七覗きからくり唄」を、全員で楽しんだのである。
(子どもたちの「天長節」の歌声に、鳴り物と色っぽい姐さんたちの
「八百屋お七覗きからくり唄」が…絡み合うように聴こえてくる…
という演出としたい)
〽今日の吉き日は 御光の / さし出(いで)たまひし 吉き日なり
〽お七の好きなとうもろこし …
天下仕置き場鈴ケ森 四方四丁四面で青竹矢来 …
〽ひかり遍き 君が代を / 祝え諸人 もろともに
〽千束万束の芝茅に 一度にどっと火をつける
熱いわいな苦しいわいな 吉三さん
〽恵み遍き 君が代を / 祝え諸人 もろともに
〽わっと泣いたる一声が 無情の声 …
北明はイベント後「文芸市場」の誌上で「八百屋お七 二百五十年祭・追善供養文献集」と銘打った特集を掲載した。「去る四月二十九日は、今度の聖上天皇陛下御誕辰にわたらせらるる最初の天長節で…吾等にとって新たなる祭日であるが、今より二百五十年前の当日は、実に情熱の女、八百屋お七が鈴ケ森で炙刑に処せられた日である。…その純真なる涙多き恋は過去現在に生き、しかも未来の人々の胸に永遠に生きて行く。私はお七を賛美する。…」
笹川臨風は二百四十五回忌が二百五十回忌として実施されたことについて、こう書いている。「…昔から法事などでは、よく時日を繰り上げて早く行うということも間々あることだから、今回もそんな意味でやられたのでありましょう。またいったい、こんな物好きな計画なんかする人は、いつ死ぬかわからないから、生きている間に早くやってしまうなどということから、こんなことになったのでもありましょうか。」…
(だいぶ以前に書いた「北明漫画~オマージュとしての北明伝~」から、その一部を抜粋加筆し、小伝とした。)