唖蝉坊はひとり関西方面へ演歌の旅に出た。
彼は先ず名古屋に降り、かねて知り合いの香具師の沢井を訪ねたりした。名古屋で防寒具、外套がわりの丹前を作り、それを着て演歌を歌った。熱田や多治見、岐阜を回った。岐阜でも昔なじみの香具師を訪ね、そこから伊勢に向かい大神宮に詣でた。そこで監獄太郎という演説屋と知り合い、頼まれて舞台に立った。なかなかの盛況だったが、終わってみると監獄太郎は木戸銭を懐に入れて消えていた。
三重の柘植に泊まり、大阪に出た。その途次、小さな子どもたちに出会った。前夜の雨で、あちこちに水溜まりができている。子どもたちは縦一列になって「ロチャコイ、ロチャコイ」とはやし立てながらやって来る。水溜まりも何のその、バチャバチャとハネで足を汚しながら行進していった。その愛らしい行進に唖蝉坊は微笑んだ。
はて、ロチャコイには特に意味はあるまい。おそらく子どもたちは、たまたま発声した無意味な言葉を面白がり、連呼しているうちに、その拍子が行進になったのだろう。唖蝉坊も子どもらを真似て「ロチャコイ、ロチャコイ」と言ってみた。そこからヒントを得て、「ロシャコイ節」を作った。日露戦争が近づきつつあったのである。
東洋平和に害ありなどゝ無理な理屈をつけおった ロシャコイロシャコイ
一天四海をわが物顔に 無礼極まる青目玉 ロシャコイロシャコイ
今は堪忍袋の緒さへ 切れて鋭き日本刀 ロシャコイロシャコイ
日本男児が血潮を流せし 遼東半島今いかに ロシャコイロシャコイ
なぜかお前は八方美人 わたしゃ一筋国のため ロシャコイロシャコイ
花は今だよいざ諸共に 駒に鞍置け日本武士 ロシャコイロシャコイ
黒鳩赤髭もうかなはぬと 白旗立てゝ青い顔 ロシャコイロシャコイ
大阪では千日前横に宿を定め、市中を回りながら歌うに適した場所を探した。唖蝉坊は道頓堀でやることにした。唖蝉坊の新作「ロシャコイ節」は大受けした。しかし受ければ受けるほど、彼の内心に暗い疑問が湧いてきた。
唖蝉坊は以前から「万朝報」社説の非戦論に感心していたのだ。これは幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三、石川三四郎らの筆になるものである。他の新聞がいっせいに日露開戦やむなし、露西亜恐るるに足らず、無礼な露西亜断固討つべしと、世論を煽る中「万朝報」は唯一戦争に反対していたのである。秋水は戦争の不合理、無意味さ、悲惨を、優れて格調高い論調で訴えていた。唖蝉坊はこの毅然とした非戦論に心を動かされていたのである。
ところが今の自分はどうだろう。日露間の風雲急を告げる時勢に乗り、まるで戦争を煽っているではないか。彼の思いは苦かった。
ちなみに万朝報は黒岩涙香が創始した。一に簡単、二に明瞭、三に痛快を掲げ、権力者たちのプライバシーとスキャンダルを徹底的に暴き立てた大衆紙である。第三面には扇情的なまでの社会記事を掲載し、ここから「三面記事」という名称が生まれた。涙香は低価格と、「鉄仮面」「白髪鬼」「厳窟王」「噫無情」を翻案し、自ら筆を執った新聞小説を掲載して、他の新聞を圧倒する人気を博した。特に「二六新報」と激しい販売競争を展開した。
この「二六新報」には西川光二郎がいたが、「万朝報」には幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三、石川三四郎らの錚々たる論客がいた。彼らは理想団を結成し、労働問題、女性問題に熱心に取り組み、社会主義、社会改良主義を打ち出していた。しかし「非戦論」のため販売部数が激減し、ついに涙香は露西亜との「主戦論」に転じた。このため幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三、石川三四郎等は退社し、二六新報を出た西川光二郎も加わって平民社「平民新聞」を興した。社会主義、非戦論の新聞である。この平民新聞の行く手は発禁につぐ発禁、言論弾圧であった。
唖蝉坊は大阪で、いろいろな知り合いができた。金子という男が演歌をやりたいと言って、唖蝉坊から離れなかった。彼は金子を連れて紀州を回り、加太の浦から和船に乗って由良に向かった。船上で雨にあい、名古屋であつらえた丹前は水を吸って、全身濡れ鼠になった。これがこたえ、宿に着くと高熱を出し、その晩から寝込んでしまった。
熱も下がった頃、宿へ来た按摩の口利きで、男気のある檀那を紹介され、演説会をすることにした。その檀那は唖蝉坊らに見栄えのする羽織着物をあつらえてくれた。唖蝉坊は彼に頼まれて杉の植林の必要を演説した。聴衆から金が集められたが、演説会は好評でもう一晩行われた。その檀那は唖蝉坊らの宿代も払った上、演説会の上がりを全てくれた。二人は豪儀な檀那と別れ洲本に向かった。船中、新聞で日露の開戦を知った。広瀬中佐の壮烈な戦死の記事があり、唖蝉坊は早速「軍神広瀬中佐」の欣舞節を作歌し、大阪でこれを出版した。
花は散れども香を残し 人は死すとも名を惜しむ
堂々五尺の大丈夫(ますらお)が いかで瓦全を計るべき
旅順港口閉塞の 任にあたりし決死隊
忠勇義烈の勲を いざや語らん聞けよ人 …
という歌である。
「ロシャコイ節」と「軍神広瀬中佐」の新演歌は大評判を取り、唖蝉坊は大阪ですっかり有名になった。金子の演歌も上手くなり、独り立ちした。
道頓堀で「ロシャコイ節」「軍神広瀬中佐」をはじめ唖蝉坊の歌は人気を呼び、彼の周りにはたちまち大きな人垣ができた。巡査に「ここでやってはいかん」と警察に引っ張って行かれ、科料五十銭を言い渡されたが、「持ち合わせがない。科料のかわりに一晩ここに留めてくれ」と言うと帰された。それを何度か繰り返すうち黙認されるようになった。唖蝉坊の周囲に集まる人垣の周囲に一つ二つと露店が出た。やがて露店がずらっと並ぶようになり、ますます人が集まるようになった。唖蝉坊は道頓堀の露店の開祖となったのである。後から露店を出したヤキツギ屋が、「どうもあの一番いい場所で演歌をやっているゲヒ(髭)が邪魔や。土を荒らして困るやんけ」と文句を言い出した。それを聞いたタテ師の小西信良が「アホ言うたらあかん、あれはゲヒが開いた土やで」と諫めた。文句を言った香具師は「へえ、そうやったんですか、すんまへん、知りまへんでしたわ」と謝った。長身長髪、八の字髭で飄然と落ち着いた唖蝉坊は、香具師仲間からも一目おかれていた。
演説好きの小西が弟分の渡辺某とやって来て、天神堂が太夫元として唖蝉坊を真打ちにした演説会をやろうと誘った。その第一回は大和郡山で行われた。渡辺や小西の演説は浅薄な官吏攻撃に終始した。唖蝉坊は少年時代に空で覚えた「国史略」を引き、滔々と論じた。「先んずれば人を制し先んじらるれば人に制せらる云々」…これが妙に受けた。奈良会場で、小西の演説が官吏侮辱罪とされ一同警察に引っ張られた。この遊説隊を解散し、大阪の難波新地に間借りし半年が過ぎた。弟分の金子はすっかり一人前になり、演歌の旅に出た。ある日、間借りしていた部屋を空き巣にやられ、それを機に彼は東京に戻ることにした。
唖蝉坊はタケ夫人と知道が暮らす茅ヶ崎に立ち寄らず、横浜に住む昔の演歌仲間を訪ねて語り明かし、それから東京には行って昔の演歌仲間たちを訪ねている。演歌の材料に困っていた彼らに大阪で作った歌を教えたり、材料を渡したりした。日露講和条約が整いつつあった頃である。唖蝉坊は戦争歌詞より滑稽物が受けることに気づいた。彼は滑稽歌(ラリウタ)を作った。先ずは「ラッパ節」である。これが当たり、歌詞は刷った先から飛ぶように売れた。印刷所は夜業が続いた。
倒れし戦友抱き起こし 耳に口あて名を呼べば
ニッコリ笑ふて目に涙 万歳唱ふも胸の内 トコトットット
今鳴る時計は八時半 それに遅れりや重営倉
今度の日曜がないぢゃなし 放せ軍刀に錆がつく トコトットット…
わたしゃよっぽどあわてもの 蟇口拾ふて喜んで
家へ帰ってよく見たら 馬車にひかれたひきがへる トコトットット
歌は売れに売れた。唖蝉坊は東京に妻子を呼び寄せ暮らすことにした。知道は四歳になっていた。親子三人で記念写真を撮ろうと写真館に行った。知道は可愛い帽子を被り、靴履きである。小さな手を母にひかれてちょこちょこと歩いた。唖蝉坊は少し後ろを彼らの背を眺めながらは歩き微笑んだ。散歩がてら上野広小路に出た。「電車唱歌」が歌われていて、すでに鉄道馬車時代は去っていた。彼らは勧工場(デパート)へも入った。知道もタケも嬉しそうだった。唖蝉坊はあらためて家庭の幸せというものを思った。
その頃、社会主義者として知られていた堺枯川(利彦)が、唖蝉坊に会いたがっていると聞いた。堺は社会主義を分かりやすく広めるため演歌の利用を考え、「ラッパ節」で有名になった唖蝉坊に相談したいというのである。唖蝉坊は「万朝報」時代の堺の非戦論や堂々たる正論に惹かれるものがあった。唖蝉坊は元園町に堺を訪ねた。着流しに兵児帯を無造作に巻き付けて「私が堺です」と出てきた男を一目見て、唖蝉坊は彼に惹き付けられた。二人はすっかりうち解けて話し込んだ。
こうして唖蝉坊の中に反戦思想が根付き、また社会主義思想も根付いていった。堺利彦と知り合ったことで、堺夫人の堺愛、西川光二郎や石川三四郎、木下尚江、山川均、その夫人の山川菊栄、大杉栄、荒畑寒村らとの交際も広がっていった。
唖蝉坊の「社会党ラッパ節」と呼ばれる新作が次々に生まれた。
名誉名誉とおだてあげ 大切な倅をむざむざと
砲の餌食に誰がした もとの倅にして返せ トコトットット
新作の「ラッパ節」や「あきらめ節」「あゝ金の世」「わからない節」「ゼーゼー節」が生まれた。
堺や山川、西川、大杉、荒畑らの演説会は「中止!」の一声で終わった。しかし唖蝉坊はニコニコしながら「では演説は中止して、歌をうたいましょう」とやって、会場からやんやの拍手を浴びた。歌の中味は痛烈で、これも途中から「中止!」の声が掛かった。「演説会で中止を二度喰う唖蝉坊」と落首風にはやされ、なかなかの人気者であった。
堺利彦、西川光二郎、山川均、大杉栄、荒畑寒村らも唖蝉坊の演歌を歌った。山川菊栄や堺愛、菅野スガ、伊藤野枝らの女性活動家も「あゝ金の世」や「ゼーゼー節」を声を揃えて歌った。この中に、いつしかタケ夫人も参加するようになっていた。
背には子を負ひ太鼓腹かかへ ノーヤ
それで車の ナンギナモンダネ
トツアッセー 後を押す マシタカゼーゼー
この「ゼーゼー節」のトツアッセー、マシタカゼーゼーは「咄(とつ)、圧政、増したか税々」のことである。お囃子ふうにカタカナ表記にして、言論弾圧を免れようと配慮したものである。しかし「魔風」では出版法違反を喰らい、五円の罰金を科せられた。唖蝉坊にはその支払い能力がなく、入獄を覚悟して、陽気が暖かくなるまで延ばしていた。家に視察が訪ねて来た。タケは「いない」と応えた。男が背を向けて出ていくかいかぬに、知道が「母ちゃん、お父ちゃんいるのにいないって言ったよ」と大声を出した。唖蝉坊は黒門町の警察に出頭して一晩泊まり、その後に東京監獄に送致された。
「あゝ金の世」は、詞も節も名作である。
あゝ金の世や金の世や 地獄の沙汰も金次第
笑ふも金よ泣くも金 一も二も金三も金
親子の仲を割くも金 夫婦の縁を切るも金
強欲非道と譏ろうが 我利我利亡者と罵ろが
痛くも痒くもあるものか 金になりさへすればよい
人の難儀や迷惑に 遠慮してゐちゃ身がたゝぬ
あゝ金の世や金の世や 希望(ねがい)は聖き労働の
我に手足はありながら 見えぬ鎖に繋がれて
朝から晩まで絶え間なく 酷使(こきつか)はれて疲れ果て
人生(ひと)の味よむ暇もない これが自由の動物か
「あゝわからない」も痛烈な歌である。
あゝわからないわからない 今の浮世はわからない
文明開化といふけれど 表面(うわべ)ばかりぢゃわからない
瓦斯や電気は立派でも 蒸気の力は便利でも
メッキ細工か天ぷらか 見かけ倒しの夏玉子
人は不景気々々々と 泣き言ばかり繰り返し
年が年中火の車 廻しているのがわからない
あゝわからないわからない 義理も人情もわからない
私欲に目がくらんだか どいつもこいつもわからない
なんぼお金の世ぢゃとても 赤の他人はいふもさら
親類縁者の間でも 金と一と言聞く時は
忽ちエビスも鬼となり くまたか眼(まなこ)むき出して
喧嘩口論訴訟沙汰 これが開化か文明か
明治四十年の十二月、唖蝉坊は東京社会新聞の西川光二郎と東北、北海道へ遊説の旅に出ることにした。西川から「東北及北海道遊説東京社会新聞記者」の名刺をもらった。
留守中は女同士一緒に暮らせと、中根岸の家を引き払い、本郷金助町の西川宅に移らせた。西川光二郎の夫人、西川文子も著名な婦人運動家だった。
先ず盛岡、青森で演説会を開いた。唖蝉坊は演説と演歌を歌った。この時、平民農場に失敗して青森に戻ってきた渡辺政太郎も演壇に立った。この平民農場とは、留壽都の原野に社会主義の共同開拓の村をつくろうとしたものである。ここに青森鯵ヶ沢の出の鈴木志郎と岩崎かよ夫妻も入っている。夫妻は平民農場に入るにあたり、三歳になったばかりの娘きみを、異人のメソヂスト派宣教師の養女に出したのである。この逸話が、後に野口雨情の「赤い靴」となった。青森で渡辺らと語らい、平民農場の辛酸を知った。
函館から森村、倶知安、小樽、札幌、旭川と遊説した。どこでも有志が声をかけて集い、満員の盛況で、彼らは大歓迎を受けた。倶知安では夜遅くまで倶知安新報の記者と語らった。函館は大火後で、雪が枕元に舞い散るバラックだった。小樽は大雪だったがみな藁靴を履いてやって来た。このとき小樽新聞主筆の碧川企救男とその夫人のかたと語らい、青白い顔に眼鏡をかけた生意気な小樽新報の若僧記者とも語らった。彼の名を石川啄木といった。
札幌には碧川企救男と夫人も共に移動した。停車場に並ぶ人力車は、みな車輪を外して橇になっていた。碧川も演壇に立った。演説会の後、北鳴新報社の野口英吉という記者と語らった。夜は西川の札幌農学校時代の友人たちや碧川らと、酒を飲みながら語らい続けた。その席で碧川かたが唖蝉坊に「碧川に東京に出るよう勧めてほしい」とそっと言った。
これらのことは「掌説うためいろ」の「流浪の人々」や「母」にすでに書いた。やがて一家で東京に出た碧川かたは、日本の婦人運動の、先駆者の一人となった。
旭川は零下十五度の会場だったが大盛会となった。ここでは竹森一則や坂本龍馬の甥に当たる坂本直幹らに会った。坂本はメゾヂストの信者だった。訓盲院の人からメソヂストの偽善的な内幕話も聞いた。
この時の旅では函館の慈恵院や小樽の施療院などを見学し、収容者と話をかわした。彼らは皆だまされて連れてこられた労働者の成れの果てだった。行く先々の貧民地帯を視察した。タコ部屋の悲惨も調査した。人間がまるで奴隷か牛馬のように売買される実情も見た。人買いにもあって凄惨な地獄部屋の話を聞いた。何しろ少年時代に自身タコ部屋を体験したことがある唖蝉坊である。激しい怒りが湧き、それが新作を作らせることになった。
獄中にいた堺利彦は手紙で「社会党の事業は千差万別でなければならぬ。彼のごときは実に独特の一新方面をひらきえたもの」であると、唖蝉坊の活動を讃えている。
本郷金助町に帰って、唖蝉坊と西川光二郎は懐の残金を数えてみた。思いがけず二十数円の金が残っていた。唖蝉坊はその金で南稲荷町の鞄屋の二階に引っ越しすることにした。留守中タケ夫人は、西川文子や吉田勝子、福田英子らと婦人演説会を開き、婦人運動の先鞭者と評されるまでになっていた。
その頃、本郷座に桃中軒雲右衛門が浪花節をかけ、武士道を鼓吹する演目で大人気だった。彼はその昔、少年・唖蝉坊が横須賀の谷川亭で何度も聞いた吉川小繁の出世した姿だった。唖蝉坊の感慨もひとしおである。彼が冗談半分で「俺も浪花節語りになろうかな」と言ったら、「上手くなる頃には廃れてるから、やめとけやめとけ」と大笑いとなった。しかし、宮崎滔天は本当に桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門になってしまったのである。おそらく、この頃の浪花節は、大衆に訴求する強烈なイデオロギー、ナショナリズムを放射していたのではなかろうか。