20年代のパリとヘミングウェイ

もし、あなたが幸運にも、青年時代をパリで過ごしたことがある
ならば、あなたが残りの人生をどこで暮らそうとも、パリはあな
たについて回るだろう。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ。

私はこのエピグラムが好きだ。アーネスト・ヘミングウェイの「移動祝祭日」は遺作である。彼の主要な作品のほとんどは、1920年代半ばから50年代までに書かれている。その後は躁鬱病のためか、ほとんど書けなくなっていた。そんな中、いつも空腹に苦しみ「とても貧乏でとても楽しかった昔のパリ」時代を回想した随筆(小説と思っていただいてもよい、と本人も言っている)を、57年から書き始め、1960年春にキューバで書き終え、秋に手を入れ、翌年の夏に自ら死を選んだ。
ヘミングウェイは1917年にイリノイ州のハイスクールを卒業後、カンザスシティ・スター紙で半年ばかり働き、第一次世界大戦における赤十字社の運転手として志願して、1918年に砲弾が炸裂するパリに着いた。数日を経て北イタリアの戦線に従軍したが、重傷を負ってミラノの病院に収容された。
この体験が十年後に「武器よさらば」として描かれた。やがて帰国したヘミングウェイは、1921年に最初の妻エリザベス・ハドリー・リチャードソンと結婚し、トロント・スター紙の特派記者として再び大西洋を渡り、ハドリーと共にパリに暮らした。

1900年頃から20年代のパリである。アルクイユに住んでいたエリック・サティは、ピアノ弾きとして契約しているモンマルトルのカフェ(酒場)まで、ときに乗合馬車に乗り、ときに二時間もかけてパリの街路や路地を、歩いて通っていた。ダービーハットを被り、固いカラーをつけたシャツと黒い服をまとい、寡黙で謹厳な教師のような出で立ちで、穏やかな山羊のような顔に鼻眼鏡をかけていた。
歩きながら彼の脳裏には無意味な言葉が浮かぶ。そっと口の端にその言葉をつぶやく。それは彼の曲の題名になる。曲とは無関係で恣意的に付けられた題名である。「梨の形をした三つの小品」「犬のための、ぶよぶよした真正な前奏曲」「干からびた胎児」「あらゆる意味にでっちあげられた数章」「嫌らしい気取り屋の三つの高雅なワルツ」「最後から二番目の思想」「官僚的なソラチネ」…。
サティは三十代半ばにあらためて音楽学校で学び直し、二十代の若者たちを差し置いて、前衛、最先端のアヴァンギャルドの先頭を行く一人だった。バレエ・リュスのディアギレフ、ストラヴィンスキー等と共に、注目の人であった。
サティは街を歩き、雑踏のさざめき、目にした広告ポスターや、カフェのささめきの中に音楽を感じていた。彼は人を取り巻く四囲の音、邪魔にならない、気にもとめないような音楽を考えていた。
五十代を過ぎてダダの運動に参加し、1920年代に入ると、サティはその生涯の晩節を迎えていた。彼は「家具の音楽」を作曲し、翌年「いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ」を作曲した。不思議な曲名である。「家具の音楽」の演奏会のとき、彼は聴衆に「演奏を気にせず、そのままおしゃべりを楽しんで下さい」と言った。そして25年にアルクイユの病院で死んだ。

ヘミングウェイはガートルード・スタイン女史のサロンに出入りした。彼は
「ジャンヌ・ダルクのような髪型をし」「がっしりとした北イタリアの百姓女」のようなこの女史から、多くの文学的示唆を受け、また多くの芸術家たちを引き合わされた。彼女のサロンはパリの画家や音楽家、詩人や文学者たちの溜まり場だったのである。マチス、ピカソ、ブラック、マン・レイ…。
この時代、女を武器にのし上がったココ・シャネルは隆盛期を迎え、ディアギレフのバレエ・リュス公演を経済的に支援した。シャネルやディアギレフの周辺にはストラヴィンスキー、ブーランク、ラヴェル、ジャン・コクトー、ピカソ、ローランサン、マチス、ミロ等がいた。
第一次大戦前からパリに暮らした藤田嗣治は、20年代にはすでにパリ画壇の寵児となっていた。25年にフランスのレジオン・ドヌール勲章と、ベルギーのレオポルド勲章が贈られている。
嗣治のパトロンは薩摩治郞八である。治郎八は明治の木綿成金の孫であった。1920年(大正9年)にイギリスのオックスフォード大学に留学し、ギリシア演劇を学んだ。後に「アラビアのロレンス」と呼ばれる男と交遊し、22年からパリに暮らした。パリでの十年間で、現在の金額にして六百億円を使い、芸術家や芸術文化活動を支援し、豪遊した。治郎八は貴族でもないのにバロン薩摩、東洋の貴公子と呼ばれた。治郎八は日本の留学生のための施設「日本館」を自費で建設した。
坂本繁二郎は1921年(大正10年)にパリに渡った。彼のライバル青木繁は十年前に夭折している。繁二郎はフランスの風光に魅せられ、その柔らかな風光を色彩化することに腐心し続けた。彼は24年に久留米に戻った。
繁二郎とすれ違うようにパリにやってきたのは佐伯祐三であった。祐三は知らずユトリロの影響を受け、パリの街角を描いた。二年後に一時帰国したが、27年(昭和2年)に再びパリに渡り、ヴラマンクの知遇を得てその影響を受けた。翌年胸と心を病んで自殺未遂をはかり、その後精神病院に収容されたが、一切の食事を拒んで衰弱死した。まだ三十歳の、まるで自死にも似た死であった。
その頃、岸田劉生はバリに行くことを切望しながら、それが叶うことはついになかった。「俺がパリに行ったなら、フランスの画家たちに絵を教えてやるよ」と彼は豪語したが、それは彼の矜持と、悔しさが混じったものであったに違いない。

まだ第一次世界大戦が終結していなかったパリに、コール・ポーターがやって来た。その後20年代後半までパリに住んだ。社交界のパーティでピアノを弾き、アメリカの音楽界ではまだ成功していなかったものの、彼はパリで花形であった。ディアギレフやストラヴィンスキーとも交流した。ポーターは後にブロードウェイ・ミュージカルや映画音楽の寵児となった。「ビギン・ザ・ビギン」をはじめとする数多くの曲がスタンダードナンバーとなっている。
ジョージ・ガーシュインはパリとアメリカを行き来しつつ、「ラプソディ・イン・ブルー」や「パリのアメリカ人」を発表した。ラヴェルはガーシュインのピアノに瞠目していた。パリに暮らす作家のスコット・フィッツジェラルドやコール・ポーターは、まさに「パリのアメリカ人」の典型であった。彼等はジャズエイジでもあった。1925年、フィッツジェラルドは「華麗なるギャツビー」を発表した。
ヘミングウェイは貧しかった。食事を抜き、いつも空腹だった。本を買う金もなかった。ヘミングウェイはオデオン街十二番地の貸本屋兼書店のシェイクスピア書店に行って本を借りた。その貸本文庫の支払いにも苦労したのである。
彼はスタイン女史のサロンへ行き、彼女と文学の話をした。「あなたはロスト・ジェネレーションなのよ」と彼女はヘミングウェイに言った。エズラ・パウンドを紹介され、やがてフランシス・ピカビア、ジュール・パスキン、ドス・パソス、ジェイムス・ジョイス、スコット・フィッツジェラルド等と交遊した。ヘミングウェイの文学修業時代である。

ジェイムス・ジョイスは1915年から20年までチューリッヒで暮らし、その後パリに移り住み、22年に二十世紀文学で最も重要な作品と言われる「ユリシーズ」を発表している。
ちなみに、以前も書いたが、「意識の流れ」を小説にしたのは、「ユリシーズ」のジョイスより夏目漱石のほうが十五年も早かったのだ。「草枕」である。
癪に障るロンドンから日本に戻ると、日本もまた実に「癪に障る」世の中なのである。その癪に障る日本からいかに遁世するかを「山路を登りながら、こう考えた」のである。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。」しかし「人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。」…
「草枕」は思考小説というべきものだろう。しかし当時漱石は物書きになったばかりで、全く欧米に知られる存在ではなかったのである。彼は「吾輩は猫である」を書き続けながら「草枕」を書き、また「夢十夜」を書いた。「草枕」と「夢十夜」は奇想と幻想において一対の作品である。「草枕」に思想はない。これといったストーリーもない。ただ「思考の流れ」が綴られていたのである。漱石自身が言っている。
「こんな小説は天地開闢以来類のないものです。」「この種の小説は未だ西洋にもないやうだ。日本には無論ない。それが日本に出来るとすれば、先づ、小説界に於ける新しい運動が、日本から起こつたといへるのだ。」…これが漱石という文学者の自負であった。…その十五年後に「ユリシーズ」が出た。

ヘミングウェイとハドリーは夫婦仲が良かった。貧しいながら南仏やイタリアにも旅行した。ミラノのサン・シロ競馬場にも足を伸ばしている。ちなみに、この競馬場は真に底力のあるステイヤーでないと勝てないコースで知られている。伝説のフェデリコ・テシオが育てた名馬リボ-(16戦16勝)は、このサン・シロ競馬場で12勝を挙げている。この競馬場の隣がサッカーのインテル、ACミランのホームスタジアムである。
パリでもヘミングウェイはハドリーを伴ってちょくちょく競馬場に行った。アンギャン競馬場やオートゥーユ競馬場である。彼はそれを「内職」と呼んだ。彼等が暮らす貧しい界隈でも競馬新聞くらいは売っている。
アンギャンはパリから汽車で七マイルの保養地である。湖と温泉と大金持ちの別荘とカジノと競馬場があった。アンギャンの競馬場は八百長で金をまきあげると言われていた。オートゥーユ競馬場は障害レース専門の競馬場である。北駅から汽車に乗って、その町の一番汚い、一番悲しい場所を通り、待避線を歩いて行った。ある日の午後、その競馬場でハドリーは一対百二十という大穴の黄金の山羊(シェーヴル・ドール)という馬に賭けた。シェーヴル・ドールは他馬を二十馬身も離して独走していた。このままいけば二人の半年分の生活費が手に入る。しかしその馬は最後の障害で転倒した。
彼等はオートゥーユ競馬場の草地にヘミングウェイのレインコートを敷き、二人坐って昼食を食べ、葡萄酒を壜から飲み、古びた正面観覧席や木造の馬券売り場、トラックの緑の芝生や濃い緑のハードル、褐色に光って見える水壕や、白い漆喰塗りの石塀、緑の木々と芝地や集合所の馬たち、ハードルを跳ぶ馬たちを眺め、昼寝を楽しむ。びっしょりと汗で濡れ、鼻の穴を大きく開いて息をしている馬たちを見送ると、再び競馬新聞に目を落とし、次のレースの検討に入るのである。…どこか日本とは違う、大らかな競馬観戦である。

1923年、二人の間にジャックが生まれた。ヘミングウェイはバンビと呼んで慈しんだ。子煩悩だったのである。後年ジャックの娘マーゴとマリエルは女優となったが、マーゴ・ヘミングウェイは1996年に自殺している。
1926年、ヘミングウェイは「日はまた昇る」を発表した。27年に苦労を共にしたハドリーと離婚し、ポーリン・ファイヤーと結婚した。
29年に発表した「武器よさらば」で作家としての地位を確固としたものにしたヘミングウェイはパリを離れた。
その後、パリはいつもヘミングウェイについて回ったのであろう。なぜならばパリは移動祝祭日で、特に1920年代のパリは、刺激的で実験的で哲学的で、綺羅綺羅と哀しいほどに華麗で、切ないほどに貧しく、想い出すだけでも楽しい、祝祭の日々だったからに違いない。