アサデンコウ

日本馬匹(ばひつ)輸送という会社がある。この運送会社は競走馬の輸送を専門としている。レース時のゲート機の出し入れを行う日本発馬機という会社同様、JRAの関連企業である。JRAには農水省から理事や理事長が天下りしてくる。さらに彼等とJRA職員は、この日本発馬機や日本馬匹輸送のような企業に、役員として天下りしていくのである。それらの批判はさておく。
日本馬匹輸送の車輌には、歴代ダービー馬の名前がつけられている。ロングエース号、ミホノブルボン号、タニノギムレット号、ネオユニヴァース号などである。
アサデンコウというダービー馬がいた。無論、この馬の名の車輌もあった。だいぶ以前になるが、私はこのアサデンコウ号を何度も目撃している。今もこの名前の車輌が走っているかどうかは知らない。

アサデンコウは1967年の日本ダービーの優勝馬である。無論私は、この頃のレースを目撃していたわけではない。しかし講釈師は見てきたように語ることができる。「ガナリのとっつぁん」窪田康夫のテープには、アサデンコウのダービーも入っていた。
この年のクラシックレースの有力馬は、父にアメリカ馬コホーズを持つフィニイ、狂気の父モンタヴァルの仔モンタサン、真っ黒で雄大な馬体とスピードを誇るリュウズキ、サトヒカル、ホウゲツオー、ニウオンワード等のライバルたちがひしめいていた。アサデンコウも有力馬の一頭であった。皐月賞でアサデンコウは1番人気に押されたが7着に沈んだ。勝ったのはリュウズキである。ダービーの1番人気はリュウズキとなった。2番人気はフィニィで、アサデンコウは皐月賞で評価を落とし5番人気に甘んじた。

レース直前、府中の空はにわかに沸いた雷雲で真っ暗になった。稲妻が光り雷鳴が轟き、突然凄まじい雨が降り注いだ。雨はスタンドの大屋根の下にも吹き込み、観客も雨を避ける間もなく濡れた。コースも雨に煙り、馬場状態は一挙に不良馬場となった。
雷雨は小降りとなったが、競馬場は夕方のように薄暗く煙ったままである。こうした中ゲートが開いた。向こう正面の視界は極度に悪かった。各馬泥にまみれて直線に向かった。巨体のリュウズキは足許をとられて走りにくそうである。フィニィは中団で喘ぎ、3番人気のホウゲツオーは馬群に沈んだ。終始好位置につけたアサデンコウが抜け出し、ヤマニンカップ、シバフジが追う。アサデンコウが彼等を振り切りった。鞍上の地味な中堅騎手・増沢末夫は初の重賞制覇をダービーで飾ったのである。しかし…。
ゴールを駆け抜けた後、スピードを緩めたアサデンコウの脚に異常が見られた。歩様がおかしい。増沢が下馬しアサデンコウの脚許をのぞきこんだ。厩務員や係員が駆け寄った。アサデンコウはゴールの150メートル手前で骨折していたのである。
優勝馬は騎手を背に、馬主や調教師に両脇から鼻手綱をとられて記念撮影をするのが習わしである。口取り写真という。歴代ダービー馬の中で、この記念写真がないのはアサデンコウだけである。優勝馬が写っていない記念写真だけが残されている。増沢騎手に笑顔はなかった。ファンはこの後、アサデンコウの走る姿を二度と見ることができなかった。
彼はついに再起を果たせず引退した。9戦6勝。強い馬だったのである。多くの競馬ファンはアサデンコウを「三本脚のダービー馬」と語り続けた。またレース直前の雷光がアサデンコウの勝利を告げていたとも語り続ける者もいた。

アサデンコウは、フランスの至宝シカンブルの血を引くシーフュリューの産駒である。シカンブルは底力のある晩成型のステイヤーで、典型的なクラシック血統なのだ。シカンブルの産駒ムーティエから、皐月賞とダービーを勝ったタニノムーティエ、菊花賞のニホンピロムーテーが出た。またファラモンドからは皐月賞、ダービーのカブラヤオー、南関東公営競馬の三冠馬ゴールデンリボー、他にトキワタイヨウ、サンコーモンド、ダイエイモンドと4頭の東京ダービー馬を輩出した。またシーフュリューは菊花賞馬プレストウコウの母の父として、またダービー馬クライムカイザーの母の父として、その底力とスタミナの優秀さを示した。
晩成型のステイヤーであるアサデンコウは、日本では種牡馬として恵まれなかった。1975年、アサデンコウは馬匹改良と友好のためタイ王国に寄贈された。日本の競馬ファンはアサデンコウの名前を忘れていった。
1991年タイに政変が起きた。その混乱の中、アサデンコウが行方不明になったというニュースが流れてきた。…古いファンたちは暗雲と豪雨と雷鳴の中のダービーを思い出し、三本脚のダービー馬アサデンコウと、彼の数奇な運命を酒場で語ったものである。

(この一文は2006年7月11日に書かれたものです。)