だいぶ昔、闘将・加賀武見が騎手として絶頂期で勝ちまくっていた頃のことである。彼はある雑誌のインタビューで趣味を問われ「映画を観る」と答えた。「どんな映画ですか?」「西部劇だね。馬が出ているからね」…私は思わず微笑んでしまった。騎手になる前は青森の牧場で働き、毎朝暗い内から馬の世話をした。騎手修業時代もそれは変わらず、毎日休まずに馬に乗って、騎手としては遅い23歳でデビューした。毎日毎日馬漬けの男が、たまの息抜きに馬が出る映画を好んで見る。「やはり馬が気になる」…スターやストーリーより馬なのだ。さすがリーディングジョッキー加賀である、よほど馬が好きなのだろうと感心したものである。
おそらく彼は、インディアンや騎兵隊が馬を疾駆させるシーンや、騎射を繰り広げる戦闘シーンを、あの強い目力で、食い入るように見入っていたに違いない。彼の関心はその手綱の長さ、手綱さばき、騎乗姿勢、馬の追い方、馬の脚元、その馬体、ハミがかり、アブミの長さ、拍車の使い方などであったろう。
「戦火の馬」(War Horse)という映画があった。原作は、イギリスのマイケル・モーパーゴが書いた児童文学で、その後舞台化され、やがて映画化されたのである。
少年が慈しんで育てていたサラブレッドを、貧窮のため父が軍馬として売ってしまう。馬はフランスの軍馬として第一次世界大戦に駆り出されたが、ドイツ軍の手に渡ってしまう。戦争は長引き、少年も兵士として出征した。彼の部隊はドイツ軍と対峙したが、少年(青年)は戦場で愛馬と邂逅した。…やがて彼等が無事に故郷に帰還するという物語であった。
この時代の戦争は近代と一変した。重火器類が発達して大量生産され、塹壕戦が始まり、戦場に航空機や戦車、潜水艦や化学兵器も投入された。大量生産された自動車も戦争を変えた。
一部の戦場でその機動性が買われて運用された騎兵もあっただろうが、それは為す術もなく壊滅し、たちまち前時代のものとなった。また重砲や物資輸送に重種の馬も使役されたが、もはや時代遅れの代物だった。
この戦争は多くの人と馬の命を消耗した。作者のモーパーゴは、第一次世界大戦でイギリスだけで百万頭の馬が死んだという話を耳にした。調べるとヨーロッパ全体で約一千万頭の馬が死んだという。そのときの悲惨な逸話をもとに「戦火の馬」が書かれたのだ。
…しかし私はこの数字に大いに疑問を持っている。それほどの数の馬が戦地に駆り出されただろうか? おそらく馬は食糧として利用されたに違いないが、それにしても膨大な数である。また、それほどの数の馬がヨーロッパにいただろうか? もはや騎兵の時代ではなく、また馬が運搬の主役を担う時代ではなかったはずだ。私の勝手な推測だが、イギリスから戦地に送られて死んだ馬は多くて十万頭、ヨーロッパ全体で多くても三百万頭くらいではなかろうか。死んだのは九百万人を超える兵士と、戦火に巻き込まれて命を落とした数百万人の市民である。
フランスのマルセル・ブサックは、世界の競馬史に大きな足跡を残したオーナーブリーダーである。彼は家業の繊維業を継いで成功した。さらに第一次世界大戦時の軍需と、戦後の民需で繊維王として大富豪となった。ブサックは大戦勃発の年に馬主となり、牧場を開き生産も始めた。戦後牧場は大規模化していった。
彼の牧場からトウルビヨン、ファリス、ジェベルが出て、いずれも種牡馬として大成功した。ファリスはフランス競馬史上最強の一頭とされている。
ブサックの生産馬は主にフランスとイギリスで走り、両国のクラシックを全て制覇し、およそ1800勝を挙げたと言われる。仏ダービーを12回制し、凱旋門賞を6回制した。馬主と生産者のリーディングに十数回も輝いた。
第二次世界大戦が勃発し、1940年にドイツ軍がフランスに侵攻した際、
ブサックは馬たちをイギリスに疎開させたが、ファリス等の馬がドイツ軍に接収されてしまった。それらはドイツの地に持ち去られた。
終戦後にファリス等は戻されたが、ブサックはドイツで生産されたファリス産駒の出生証明書へのサインを拒否した。これら血統登録を拒否された馬は、フランスの血統書では「父馬X」と記載された。馬を持ち去ったドイツに対する抗議と報復なのである。ファリスは1953年から3年連続でリーディングサイヤーとなった。
ちなみにブサックは、1946年に独立したばかりのクリスチャン・ディオールを支援し、彼のパトロンとしてその事業を大成功に導いた。
凱旋門賞が今日の世界最高峰のレースになったのは、ブサックの尽力によるとされている。彼は高額賞金を策定し、各国の一流馬を招致するため華やかな社交界をリードしたのである。
ブサックはその絶頂期、銀行や新聞社、家電品製造会社なども所有していた。いつしか彼の生産・所有した馬たちの成績はその勢いをなくし、導入した種牡馬たちもことごとく失敗した。さしもの繊維王の事業本体も揺らいで、1978年に破産した。牧場もアパレル事業も新聞社も、みな人手に渡った。
残ったのはロンシャン競馬場で開催される「マルセル・ブサック賞」くらいであった。無論、彼の大いなる功績を讃えるレースである。
若い頃、軍歌に取り憑かれたことがある。その詞を何度も繰り返し読み、そして口ずさんだ。何という戦であったことか、決して勇ましい感じは受けず、むしろその戦いの不合理、兵士の置かれた過酷な不条理に打たれたのである。「討匪行」は昭和7年、関東軍参謀の八木沼丈夫の作詞である。
いななく声もたえはてて / たおれし馬のたてがみを /
かたみと今は別れ来ぬ
ひづめのあとに乱れ咲く / 秋草の花雫して /
虫がねほそき日暮空
「露営の歌」は昭和12年、藪内喜一郎の作詞である。
土も草木も火と燃える / 果てなき曠野ふみ分けて /
進む日の丸鉄かぶと / 馬のたてがみなでながら /
明日の命を誰か知る
「愛馬進軍歌」は昭和13年、久保井信夫の詞である。これは日本競馬会が馬事思想普及のために陸軍省馬政課と農林省馬政局に働きかけて募集したものである。当時の陸軍省馬政課長は栗林忠道陸軍騎兵大佐であった。「馬政課」「騎兵」…。後年、硫黄島で陸軍大将・栗林司令官とその部隊は、孤立無援の中で玉砕したことで知られる。
くにを出てから幾月ぞ / ともに死ぬ気でこの馬と
攻めて進んだ山や河 / とった手綱に血が通う
昨日落としたトーチカで / 今日は仮寝の高いびき
馬よぐっすり眠れたか / 明日の戦は手強いぞ
有名な「麦と兵隊」は、戦後も演歌で活躍した藤田まさとが、昭和13年に作詞したものである。大村能章が作曲し、東海林太郎が歌った。
徐州徐州と人馬は進む / 徐州いよいか住みよいか …
日本軍は戦地でまだ馬を使役していたわけである。泥濘の曠野は車両では身動きとれず、重砲、山砲、糧秣などの重量物は馬が担い、挽いたのだ。
童謡にも戦地に送られる馬が歌われる。童謡詩人・武内俊子の「船頭さん」は昭和16年に書かれている。
村の渡しの 船頭さんは / 今年六十の おじいさん
年はとっても お船をこぐときは / 元気いっぱい 櫓がしなる
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
雨の降る日も 岸から岸へ / ぬれて船こぐ おじいさん
今日も渡しで お馬が通る / あれは戦地へ 行くお馬
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ
昭和18年の第12回東京優駿競走(日本ダービー)は、牝馬のクリフジ(繁殖名・年藤)が勝った。クリフジの鞍上で手綱をとったのは、弱冠20歳の前田長吉で、日本ダービー史上の最年少優勝騎手である(戦後、日本中央競馬会発足後のダービー最年少優勝記録は、田島良保がサラ系のヒカルイマイで勝ったときの23歳である)。
前田長吉は翌年満州に出征し、敗戦後にシベリアに抑留されて、23歳で死亡したという。前田長吉の騎乗を知る古老たちは、戦争がなければ間違いなく大騎手になったであろう、と伝え続けた。
二年ほど前、TV「お宝なんでも鑑定団」に前田長吉が使用していた騎乗用の長靴と、斤量調整のため鉛を入れる複数のポケット付きチョッキが出されたことがある。彼が出征前に実家(青森県三戸郡是川町)に残していったという。それを鑑定に出したのは長吉の故郷の縁者だった。鑑定金額は忘れたが、驚くほど高額だったことだけは覚えている。
昭和19年の第13回東京優駿競走は、戦局悪化のため無観客の「能力検定競走」となった。6月18日、カイソウは橋本輝雄騎乗でレースに臨み、勝った。その後カイソウは京都で4戦したらしい。秋初戦に勝ち、菊花賞に相当する長距離特殊競走で1着になるも、このレースは全馬がコースを間違えたため不成立となった。本来なら二冠馬なのである。その後2戦を惨敗し引退することになったが、サラ系種であったため種牡馬の道は閉ざされていた。
カイソウは最後のレースの二日後にセリに出され、陸軍名古屋師管区名古屋師団(第3師団)に落札された。温和しく賢い馬だったため、師団司令官の乗用馬になった。しかし昭和20年5月の名古屋大空襲で、その生死が不明になったという。
なお昭和20年、21年の競馬は中止されている。