1978年生まれの1981年の牡馬クラシックは、かなりレベルが低かったように思われる。前年12月の朝日杯3歳Sに優勝した牝馬のテンモンが、もし皐月賞やダービーに出走していれば、牡馬を蹴散らして勝ったのではあるまいか。
テンモンは大レースに無類の底力を発揮するリマンドの娘だった。彼女は年が明けた京成杯で、また男馬を蹴散らして勝った。2月のクィーンCは彼女が出走を決めたため、回避する馬が多く出て、わずか6頭立てになった。しかしこのレース、テンモンは3着に敗れた。勝ったのはこれも大レースに底力を発揮する血統の、ハーディカヌートの娘カバリエリエースであった。
桜花賞は不良馬場で行われ、テンモンは泥をかぶり、脚をとられて2着に敗れた。勝ったのはブロケードだった。ブロケードとは金箔を織り込んだ浮き模様の絹織物で、伊達オーナーが金襴緞子の意味で命名した。関テレの杉本アナはゴール前で叫んだ。「金襴緞子が、金襴緞子が泥にまみれてやって来た!」…いつもながらの名調子である。
テンモンは重馬場が苦手で、ステイヤーである。オークスは1番人気に応えて勝った。しかしその後屈腱炎を発症し九十九里浜の牧場で療養に入った。その夏、牧場が台風に被災した際、テンモンは大怪我を負い、そのまま引退した。テンモンに騎乗していた島田功騎手は「エリザベス女王杯はもちろん、天皇賞も有馬記念も勝ったかも知れない」と言った。この不運のテンモンを、史上最強牝馬に挙げるオールドファンは結構多い。
さて、その年の牡馬クラシックである。阪神3歳S優勝馬サニーシプレー、きさらぎ賞優勝馬リードワンダー、シンザン記念と毎日杯優勝馬のヒロノワカコマのいずれもが、故障で戦線を離脱した。関西馬のリードワンダー、サニーシプレーは、故障が癒えた後の古馬になってからの戦績を見れば、単なる早熟なマイラーに過ぎなかったと思われる。本当に惜しかったのはヒロノワカコマぐらいだったろう。関東馬で皐月賞に歩を進めた馬たちも、いずれもテンモンに完敗していた。スプリングS優勝馬のサンエイソロンもテンモンに完敗している。
皐月賞は、サンエイソロンが出走を取り消し、本命不在の混沌レースと予想された。東京4歳S、弥生賞に連勝したトドロキヒホウが1番人気となり、大井で圧勝の5戦5勝「第二のハイセイコー」と呼ばれて中央入りしたステイードが2番人気となった。スプリングS2着のホクトオウショウが3番人気(今思えば、ホクトオウショウごときが…)である。
それは初めての不思議な体験であった。
私はパドックで周回する馬たちを見ていた。迷うどころではない。軸になる馬がいないのだ。人気上位の馬もレベルが低い。何しろテンモンに歯が立たなかった牡馬たちである。
当時は馬と厩務員と競馬会の職員、騎手以外はパドック内に入れなかった。馬主たちはパドックのコースに面した馬主待機用の建物内か、その前に出て愛馬を見守っていた。ふと、上下ピンクのスーツ姿のおっさんが目に飛び込んできた。馬主と思われるが、何と品のない服装だろう。しかし目立つおっさんだ。ピンクのスーツ!とは。
周回していた馬の一頭が私の前でピタっと立ち止まった。その馬と4、5秒目が合った。目つきが悪く三白眼で、剥いた白目は血走っている。何とも人相(馬相)が悪い。舌を出し、口の端に白い泡を吹いている。馬番は1番。栃栗毛の520キロ近い大きな馬である。引き手が馬を促し、その馬はやっと動き出した。
馬の名はカツトップエースである。それまでの戦績は8戦2勝、脚質は先行、逃げ残りである。朝日杯3歳Sではテンモンの10着に敗れている。父はマイラーのイエローゴッドだ。マイルのダート馬ではなかろうか…。
前走、前々走に騎乗していた増沢騎手はサクラオーセイを選び、カツトップエースの鞍上は大崎昭一騎手に乗り替わっていた。「泣きの昭ちゃん」である。大崎騎手が「ボクの馬なんか駄目だよ」「調子がイマイチだよ」と、レース前のコメントが泣き言のときは、実は狙いなのだと言われていた。…その日、カツトップエースは17頭立ての16番人気だった(そうだろうな)。
カツトップエースは、再び私の前で立ち止まり、また私と目が合った(なんだよ、そう睨むなよ)。パドックの馬が私の前で立ち止まり、目が合う。こんなのは初めてだった。彼は再び厩務員に促されて動き出した。号令が掛かり、騎手たちが馬に駆け寄って騎乗した。…
あのカツトップエースの態度は何だったのだろう、と思いながら馬券を買った。カツトップエースがらみの馬券は入っていない。
レースはスローペースで流れた。最内枠を利したカツトップエースと大崎昭一が逃げた。ホームストレッチで捉まるだろう。…しかしカツトップエースはしぶとかった。ロングミラーが追い込んだが、そのままクビ差逃げ残ったのである。まぐれ勝ちだ、フロックだ! スローな展開の綾で、人気薄の先行・逃げ馬がしぶとく逃げ残ることはままある。皐月賞は高配当になった。
しかし私は悔やんだ。あの時、カツトップエースはわざわざ私の前で立ち止まり、目を見ながら「おい、教えてやる。今日は俺を買え」と言ったに違いない。それも二度も。「おい分かったか。今日は俺を買え、いいな」…不思議な体験である。なんでカツトップエースから買わなかったのだろう。
表彰式で驚いた。馬主はあのピンクのスーツのおっさんだったのである。
カツトップエースの馬主は勝本正男氏で、ストリッブ劇場・OSミュージックの社長であった。なるほど、それでピンクか…似合っている。
カツトップエースはNHK杯にも出走した。皐月賞馬なのに15頭立ての5番人気に過ぎなかった。皐月賞は「まぐれ」「展開の綾」だと、誰もが思っていたに違いない。しかし、復活したサンエイソロンには差されたが、彼は2着に残ったのである。
カツトップエースはダービーでやっと3番人気に推された。パドックを周回するカツトップエースは、相変わらず白目を血走らせた三白眼であった。私は彼の目を注視した。ふと、また目が合ったような気がしたが、今度は私の前で立ち止まらなかった。しかし、私の目を見たような…気のせいだろうか。この間のように立ち止まらなかった…私は迷った。
何しろマイラーのイエローゴッド産駒である。ダービーの2400メートルの距離は長いと思われた。また、どうしてもハナに立ちたい馬たちで、ハイペースになることが多い。カツトップエースはスローペースの先行逃げタイプの馬である。菅原泰夫のミナガワマンナの脚質も同じであろう。どうしてもダービーはスローペースになりにくい。他の騎手たちも皐月賞のようにはむざむざと逃がすまい。…私はまたカツトップエースがらみの馬券を買わなかった。二匹目の泥鰌はない。
レースは淡々としたスローペースで、カツトップエースが二番手集団の好位置を進んだ。彼は4コーナーを回ると早々と抜け出し、逃げはじめた。皐月賞と同じことは起こるまい。他の騎手たちも早めに仕掛けてカツトップエースを捉え、躱すに違いない。小島太の追い込み馬サンエイソロンも、松田幸春のロングミラーも、大塚栄三郎のスーパーサバンナも、武邦彦のキタノコマヨシも、カツトップエースならいつでも躱せると、いささか軽んじていたのかも知れない。相手はロングミラーの末脚、気をつけるのはサンエイソロンの末脚…。ところが大崎昭一のカツトップエースは、しぶとく逃げ込みにかかり、ゴール前でも容易に捉まらなかった。追い込んだサンエイソロンが並んだところがゴールだった。カツトップエースが、再びまんまとハナ差逃げ残ったのである。…まぐれだ、フロックだ。しかし「まぐれ」が二度続くだろうか? 「まぐれ」で二冠が獲れるだろうか?
その後、調べて分かったことがある。カツトップエースの母系は、なかなかの長距離血統だったのである。
その夏、カツトップエースは屈腱炎を発症した。大型馬の宿命か、なかなか良くならず、翌年の夏に引退した。種牡馬となったが、ほとんど人気がなかった。やがて中央競馬会が買い上げ、韓国馬事会に寄贈された。韓国では5頭の産駒を残しただけで亡くなったそうである。