牧の盛衰記

かつて、自ら牧場を所有しオーナーブリーダーとして何頭もの名馬を送り出した方たちの多くは、それぞれが頑固なまでの馬づくりの信念を持っていたように思われる。その愛馬が大きなレースを勝った際の、彼等のインタビュー記事は面白い。そして彼等が生産し、自ら所有もしくは売却した馬たちも、なかなか個性的であったように思われる。
彼等の馬づくりの信念が結実したものもあれば、大きく裏切られることもある。期待以上の馬が出現した例もあろう。あるいは幼駒のとき期待外れだったものが、予想外の成長を見せた場合もあっただろう。しかし信念の結実が大活躍し種牡馬になっても、時代の流行にそぐわず、その系統が途絶えたものは数知れない。
彼等オーナーブリーダーの牧場は、今やオーナーも代替わりして大きく様変わりし、その勢力図は激変した。ますます隆盛を誇っているのは、社台王朝とも呼ばれる社台ファームとノーザンファームくらいであり、一人勝ちの印象が強い。しかしまるで、生産、育成からメンテまで、高効率の一貫体制によって大工場から送り出される人造馬のようで、なんとも味ない。

千明牧場は戦前からマルヌマ(帝室御賞典)、スゲヌマ(帝室御賞典、ダービー)を出した名門牧場だった。戦後もコレヒサ(天皇賞)、コレヒデ(天皇賞)、メイズイ(皐月賞、ダービー)、シービークイン、シービークロス、ミスターシービー(三冠馬)等を輩出してきたが、最近はほとんど活躍馬の名を聞かない。
引退後のシンザンを繋養してきた谷川牧場は、かつてタケフブキ(オークス)、タケホープ(ダービー、菊花賞、天皇賞)、ミナガワマンナ(菊花賞)、チョウカイキャロル(オークス)等を輩出した。いずれもステイヤーである。そこに谷川牧場のこだわりがあったのだろう。残念なことに、今はあまりその名を聞かない。
最近はアラキファームの活躍馬もあまり聞かない。かつてはビンゴガルー(皐月賞)、ビンゴカンタ、ビンゴチムール、アラホウトク(桜花賞)などが出た。
ファストバンブー、バンブーアトラス(ダービー)、バンブーメモリー(安田記念、高松宮杯、スプリンターズS)、バンブービギン(菊花賞)を輩出した竹田辰一、春夫氏のバンブー牧場も、最近その名をあまり聞かない。アトラスやビギン親子の勝ち方は強かった。これこそがリボーの底力の血だと思ったものである。
藤田正明氏の藤正(トウショウ)牧場は、トウショウピット、トウショウロック、トウショウボーイ(皐月賞、有馬記念、宝塚記念)、トウショウゴッド、トウショウペガサス、トウショウレオ、トウショウマリオ等、毎年のように重賞常連の活躍馬を出していた。近年のシーイズトウショウ、スイープトウショウ(秋華賞、宝塚記念、エリザベス女王杯)、トウショウナイト以後はあまりトウショウの活躍馬を知らない。
シンボリ牧場も往時の面影はない。スピードシンボリ(天皇賞、宝塚記念、有馬記念2回)、スイートネイティブ(安田記念)、カーネルシンボリ、シンボリルドルフ(七冠馬)、シリウスシンボリ(ダービー)、マティリアル等、毎年クラシック戦線を賑わしていたが、最近はほとんど出て来ない。
シンボリルドルフ産駒ジャムシードは、シンボリ牧場産だが4歳(現馬齢3歳)時をフランスで走り、日本のファンにはあまり馴染みもなく、日本に戻ってからもさほど強くもなかった。プレストシンボリはアイルランド産であり、シンボリクリスエス(天皇賞春・秋、有馬記念2回)はアメリカ産だった。シンボリクリスエス以降、シンボリの名を大レースで聞くことがなくなってしまった。

伊達秀和氏は馬主になるにあたり、競馬と血統を研究したという。そして、
競馬の基本はマイル戦のスピードである、日本の競馬もスピード血統が主流の高速競馬となる、という確信を得た。「競馬の命はスタミナよりスピード」というのが伊達秀和氏の信念だった。
彼はソーダストリームという繁殖牝馬を輸入した。当初、氏は静内の三沢牧場に仔分けで繁殖牝馬を預託した。三沢正一氏は、相馬観の師であり、ゼネラルマネージャー的な存在になった。ソーダストリームは優れた繁殖牝馬だった。氏はスパニッシュイクスプレスというマイラー血統の種牡馬を輸入した。マイラーでも、日本の軽い馬場なら2400メートルの距離も十分持つと考えられた。
そしてもうひとつ、伊達秀和氏は秀逸な命名にこだわった。ファラディバ、ミオソチス(忘れな草)、アンドロメダ、ムーンライトミスト、モンナバンナ、ファビオラ、マグノリア、ランスロット、サンシャインボーイ、トルーエクスプレス…。
伊達氏はいくつかの牧場に繁殖牝馬を仔分けとして預託し、仔馬たちは三沢牧場に集められてトレーニングされた。所有馬が増え、やがて彼は日高にサンシャイン牧場を作った。
彼の信念はアローエクスプレスとして結実したが、皐月賞もダービーもステイヤーのタニノムーティエに完敗した。伊達氏は、アローが距離の壁で敗れた訳ではないと言い続けた。彼はその後もマイラー種牡馬のイエローゴッドの輸入に関わった。イエローゴッドはスピード豊かなファンタスト(皐月賞)やブロケード(桜花賞)として結実した。
アローエクスプレスは種牡馬として大成功し、テイタニア(桜花賞、オークス)やリーゼングロス(桜花賞)が出た。ノアノハコブネもオークスを勝った。牝馬は2400メートルの距離でも勝ったのである。競馬ではタニノムーティエが勝ったが、種牡馬としてはアローに完敗し、失敗した。日本の競馬は高速競馬になり、ステイヤーではなかなか勝ち上がれず、クラシックに間に合わないのだ。
ちなみにイエローゴッドからカツトップエース(皐月賞、ダービー)が出ている。スピードのない典型的なジリ脚タイプで、勝機があるとすれば、スローペースでの先行逃げ切りなのである。こうしてこの馬は二冠を制した。
伊達氏のサンシャイン牧場は、その後も種牡馬フィガロや競走馬ザカリヤ(引退後種牡馬)を海外から輸入し、公営競馬では多くの活躍馬を出しているものの、中央での活躍馬は1999年にブリモディーネが桜花賞を勝って以来、とんと少なくなった。

吉田牧場…実は私は、かつてこの牧場に一番興味があった。吉田善治は岩手県盛岡から月寒村に入植し、木炭製造業を営みながら豊平、札幌の開拓に尽力した功労者であった。その家業と開拓は長男の善太郎に継がれ、五男の権太郎が安平の開拓地を譲り受けて吉田牧場を創設し、馬産を始めた。
善太郎の息子・善助はアメリカに留学して酪農を学び、月寒に牧場をつくり、北海道に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した。やがて善助もオンチャンの権太郎に刺激を受け、白老社台地区の広大な土地に社台牧場を作り、サラブレッドの生産を始めた。善助の三男・善哉氏も厳しい父より、大叔父の権太郎ジイサンの所に遊びに行って甘えたそうである。…
やがて善哉氏は社台牧場千葉富里分場を社台ファームと改め、8頭の牝馬で、兄の社台牧場から独立した。…
吉田牧場は権太郎の死後、長男の一太郎氏が引き継ぎ、次男の英男氏、三男の権三郎氏もそれぞれ牧場を創設して独立した。この吉田牧場一族には、馬作りの頑固なまでの信念があった。それは病気や脚部不安にも無縁なほどに頑健で、五代遡っても血のクロスがなく、精神的にも図太く、長く競走馬として活躍し続ける…つまり無事之名馬を育てることである。したがって流行の血統には見向きもしなかった。
吉田牧場の最初の種牡馬はトシハヤで、小岩井農場のシアンモアの孫である。中央競馬で9戦1勝、地方競馬で127戦34勝という頑健さである。トシハヤからオーカン(オークス)や重賞勝ち馬タイカンが出た。オーカンはヒロイチ(オークス)に続く吉田牧場のクラシックホースである。
続いてアメリカ産のカバーラップⅡ世(1952年生まれ)で、競走馬として輸入されたが、7戦2勝しただけの二流馬だった。しかしアウトブリード血統の典型で、いかにも健康な異系の血脈である。
カバーラップⅡ世は、ほとんど吉田一族の繁殖牝馬のみに配合されただけで、その種付頭数も産駒数も極めて少ない。その中から1963年生まれのワカクモ(桜花賞)を出し、さらに1964年生まれのリュウズキ(皐月賞、有馬記念)を出した。他にチトセハーバー(阪神3歳S)、リュウゲキ(朝日杯3歳S)を出し、さらにハーバーホープ、フクリュウヒカリ(デイリー杯3歳S)や、南関東公営のゴルトラップ(東京王冠賞、戸塚記念)、キョクトー(浦和桜花賞、キヨフジ記念)などの活躍馬を出したのである。これは凄いことである。産駒は無事之名馬が多く、長く数シーズンに渡って活躍した。
1971年生まれのアグネスビューチーは吉田権三郎牧場の生産で、ほぼ3シーズンに36戦7勝、東京新聞杯に勝った。1973年生まれのカシュウチカラも吉田権三郎牧場の生産馬である。7歳(現馬齢6歳)で天皇賞を勝ち、47戦9勝、6シーズンに渡って走り続けた。1975年生まれの牝馬プリティキャストは41戦8勝、天皇賞・秋3200メートルの不良馬場で、カツラノハイセイコやホウヨウボーイを相手に大逃げを打って勝ち、4シーズンに渡って元気に走り続けた(逃げ続けた)。ブリティキャストの母は、アメリカの名牝タイプキャストであった。
吉田牧場のもう一頭の種牡馬はオーシャチである。トウルヌソル、クモハタ、メイヂヒカリと続く、日本競馬史の古き王道のような系譜で、その健康な血はオーシャチへと受け継がれたのだ。オーシャチの母の父は日本で最初の三冠馬セントライトである。オーシャチは中央で25戦5勝、地方で25戦16勝とタフに大活躍し、東京大賞典と大井記念などに勝った。
オーシャチはアイアンハートを出している。アイアンハートの母の父はカバーラップⅡ世である。アイアンハートも中央で23戦4勝(内1勝は重賞カブトヤマ記念)、地方(三条、新潟)で15戦13勝を上げた。三条、新潟では無敵だったと言ってよい。これも吉田一族の、時代の流れに棹さす見事なまでの一徹さの結実である。
吉田一太郎氏はネヴァーセイダイ産駒のコントライトを種牡馬として輸入した。その競走成績は二流だが、何か感ずるものがあったのだろう。このコントライトとワカクモから、テンポイントとキングスポイントが生まれた。
コントライトは南関東公営のタカフジミノル(東京ダービー、羽田盃)やカールライヒ(関東オークス、クイーン賞2回、キヨフジ記念)も出したが、その後はあまり活躍馬を出さなかった。またタイプキャストの子タイプアイバーとラッキーキャストが種牡馬となったが、うまくいかなかった。しかし、流行にとらわれるな、あえて時代に逆らえ…またカバーラップⅡ世やオーシャチのような、五代遡ってもクロスがない異系の血脈から、健康でタフな無事之名馬が出ることを望みたい。その活躍は何とも愉快ではないか。

日本のオーナーブリーダー牧場のリーダー、あのメジロ牧場が消滅した。オーナーの北野豊吉氏の思いは、「ダービーより天皇賞を勝ちたい」であった。なぜなら「一番強い馬はダービー馬ではない。古馬となって3200の天皇賞を勝つ馬が、その世代の一番強い馬だ」という信念である。
天皇賞馬メジロタイヨウ(父はステイヤーのチャイナロック)は本桐牧場生産である。芦毛の天皇賞馬メジロアサマ(父はマイラー系のパーソロン)は日高のシンボリ牧場生産だった。もう一頭の天皇賞馬メジロムサシ(父は典型的ステイヤーのワラビー)は栃木の鍋掛牧場の生産であった。
メジロアサマの極めてわずかな産駒から、芦毛のメジロエスパーダが出たが、彼は自ら繰り出すスピードにその脚が耐えられなかった。アサマから芦毛のメジロティターンが出て天皇賞を制覇した。翌年には芦毛の牝馬メジロカーラ(京都大賞典)も出た。
その頃、浦河の吉田堅はどうしてもリマンド牝馬を扱いたかった。リマンドには底知れぬ力と激しさがある。彼はわずか1勝馬に過ぎなかったリマンド産駒メジロオーロラを預からせてもらえないかと、北野豊吉氏に懇望した。豊吉氏は了解し、オーロラは仔分けで吉田堅牧場に預託されたのである。
そのオーロラから狂気の馬フィディオン産駒のメジロデュレンが出て、菊花賞と有馬記念を勝った。その弟は父メジロティターン産駒のメジロマックイーンである。
北野豊吉氏はそのメジロティターン産駒の活躍を見ることなく亡くなったが、病床で「ティターンの仔で天皇賞を獲れ」と言ったそうである。豊吉氏の遺志を継いだのはミヤ夫人だった。マックイーンは菊花賞を勝ち、春の天皇賞を2勝し(秋の天皇賞も1着でゴールしたが、斜行で最下位に降着)、宝塚記念も勝った。アサマから三代に亘る3200メートルの天皇賞制覇である。
メジロ牧場からはメジロボサツ、メジロラモーヌ(牝馬三冠)、メジロイーグル、メジロパーマー(宝塚記念、有馬記念)、メジロライアン(宝塚記念)、メジロブライト(天皇賞・春)、メジロドーベル(オークス、秋華賞、エリザベス女王杯2回等GⅠ5勝)等を輩出し続けた。
しかしサンデーサイレンス産駒のメジロベイリーが生まれ、有珠山噴火のあたりからメジロ牧場の経営は苦境に陥っていった。ミヤ夫人も亡くなり、やがて本体の北野建設の経営も揺らぎ、ついに2011年、オーナーブリーダーの名門メジロ牧場は閉鎖されたのである。

荻伏牧場は明治15年、兵庫の三田(さんだ)の、困窮した旧藩士の一団が入植した開拓時代からの長い沿革を持っている。開拓のためペルシュロンのような重種が導入された。樹木の根起こしや伐り出した木材の運搬には重種の馬が不可欠だったのである。トロッター種、アラブ種の飼育も行われた。日清、日露戦の重砲運搬にも重種の馬は不可欠で、また騎兵などの軍馬としてトロッター種、アラブ種も改良、生産されていった。
荻伏牧場は広大な敷地とシンザンの育成を行った牧場としても知られた。その後もイットー、ハギノトップレディ、ハギノカムイオーという華麗なる一族で一般にも有名になり、ノアノハコブネ、スズマッハ、カリブソング、ダイイチルビーなどの活躍馬を輩出した。その荻伏牧場も90年代半ばに関連会社の倒産や、クラブ法人の経営難とトラブルもあって閉鎖された。また継続されていた荻伏レーシング・クラブも、2007年の名称変更により、その名門の名を消した。
ニシノライデン、ニシノフラワーなど個性的な馬が多かった西山牧場も、2008年に競走馬の生産を終了した。競馬エッセイ「遥か彼方の雲に」にも書いたが、皐月賞、菊花賞の二冠馬セイウンスカイが、最後のGⅠホースであった。

オンワード樫山の樫山純三氏は無類の馬好きで、毎年多くの競走馬を所有するだけでなく、自らのオンワード牧場を創設した。
私はオンワードガイという馬を応援していた。理由は父が内国産の種牡馬だったからである。内国産種牡馬は冬の時代の最中にあった。オンワードガイの父オンワードゼアはダービー馬オートキツの弟で、4歳(現馬齢3歳)時に菊花賞2着、有馬記念2着し、古馬となって天皇賞・春と有馬記念を勝った名馬である。頑健なステイヤーで、その産駒オンワードガイは、その特長を引き継いだ強い馬であった。何度も天皇賞や有馬記念に挑戦したが、ついに勝てなかった。42戦10勝し、朝日杯3歳S、函館記念、アメリカJCC、目黒記念等に勝った。蓑田早人騎手とのコンビが忘れられない。
樫山氏は国際派のホースマンとして海外でも知られていた。アメリカ産フジオンワードはリボーの直仔だった。アイルランドで走らせ、2戦して未勝利のまま引退し、日本に持って来た。フジオンワードはリボー産駒としては気性に難もなく、スピードもあった。その産駒アザルトオンワードはわずか3勝だが、その勝ち方はバケモノじみた強さだった。残念なことに故障のため消えた。オーナーの樫山氏はアザルトオンワードを「幻の名馬」と呼んで惜しんだ。
樫山氏はフランスでムーリンという馬を所有していた。さほど強い馬ではなかったが、仏2000ギニーを勝った。種牡馬として日本に来たが、ほとんど実績を残していない。また彼はフランスの競走馬ハードツービートを購入した。樫山氏の初期の愛馬ミスオンワードが無敗のまま桜花賞、オークスを制したが、この馬はイギリスで購入した牝馬ホールタイトの持込馬だった。父はハードソースで後に英ダービー、愛2000ギニーのハードリドンを出した。氏はハードソースを大レースに強い底力血統と見たのだろう。
樫山氏が購入したハードツービートの父は英、愛で3戦3勝のまま種牡馬となったハーディカヌートで、ハードリドン産駒だった。ハードツービートは仏ダービーを制した。樫山氏は日本人初、仏ダービー馬のオーナーとなったのである。後にハードツービートがフランスに残した牝駒デュネットは、仏オークスとサンクルー大賞を勝っている。
ちなみにその後ハードリドン、ハーディカヌートも日本に輸入された。むろんハードツービートも種牡馬として日本にやって来た。ハードリドンからロングエース(ダービー)、リニアクイン(オークス)が出た。この系統は非常に気性が激しく、扱いにくさが特徴で、またその後の発展性がなかった。
樫山純三氏、オンワード牧場の活躍馬は、オンワードベル、オンワードスタン(シンザンの全兄)、オンワードヒル、オンワードボルガ(中山大障害)、
オンワードセカンド、アポオンワードなどがいた。
1986年に純三氏が亡くなりハル夫人が継承したが、2012年に整理、閉鎖された。

4頭のダービー馬を輩出したカントリー牧場も、2012年に閉鎖された。
カントリー牧場の創設者・谷水信夫氏の信念は、馬にハードトレーニングを課して鍛えることであった。これは子息の雄三氏にも引き継がれた。
マイラーでもハードトレーニングによってタフさとスタミナがつき、長い距離もこなせるようになる。晩成型のステイヤーも、ハードトレーニングによって3歳(現馬齢2歳)から走れる腰や胸の筋肉を付け、短距離のスピード競馬に対応できる。「ハードトレーニングで壊れるような馬は、それだけの馬に過ぎない」と谷水オーナーは考えていた。
こうしてカントリー牧場生産のマーチスが、4歳クラシック戦線でタケシバオーの好敵手として立ちはだかった。しかし、その年のダービーを勝ったのはマーチスでもタケシバオーでもアサカオーでもなく、カントリー牧場生産のタニノハローモアであった。
タニノハローモアの父ハロウェーは、さほど成績が良かったわけではないが、短距離から2400メートルまでをこなす「一発大駈け」の底力血統だった。タニノハローモアはダービーまで、短中距離を17戦も走り(5勝)、実にタフな馬であった。マーチスもタフな馬であった。
カントリー牧場史を代表する兄弟タニノムーティエとタニノチカラはどちらも晩成型ステイヤーだった。タニノムーティエ(父ムーティエ)は3歳戦の短距離戦から勝ちまくり、皐月賞、ダービーの二冠を獲った。タニノチカラ(父ブランブルー)も晩成型ステイヤーだが、3歳戦から豊かなスピードを見せていた。その後骨折により一年半超を棒に振ったが、5歳夏に復帰するや驚くべき強さを発揮し、天皇賞・秋を制し、翌年に有馬記念も制した。
その後カントリー牧場は低迷したが、それは八大競走、GⅠクラスの優勝馬が出なかったということで、タニノの馬はよく重賞レースに顔を出し続けていた。親しい戸山為夫調教師が、低迷の原因の一つは馬が増え過ぎ、土壌が痩せ、牧草の栄養価が落ちたからだと指摘した。また戸山の師・武田文吾調教師も諫言したため、その意見を聞き入れ、カントリー牧場は馬の頭数を制限し、土壌改良と牧草の改良を進めた。
やがて2002年タニノギムレットがダービーを勝ち、さらに2007年、ギムレットの娘ウオッカが、64年ぶりに牝馬によるダービー制覇を成し遂げた。カントリー牧場4頭目のダービー馬である。
しかし谷水雄三氏は自らの老いと体力の限界を考え、牧場の閉鎖を考えていた。2010年の菊花賞を勝ったビッグウィークが、カントリー牧場の最後の活躍馬になった。そのビッグウィークは菊花賞後冴えず、障害競走に転じたが1勝したのみであった。その頃、すでにビッグウィークが帰る故郷はなかったのである。