1996年師走17日夜、日本とペルーを震撼させるニュースが世界中を駆け巡った。リマの日本大使公邸で青木大使がホストを務め、天皇陛下のお誕生日会が開催されていた。そこをテロ集団MRTAが襲撃し、政府要人、各国の駐ペルー大使や夫人、青木大使や大使館員や夫人たち、日本企業のペルー駐在員など六百人以上が人質となった。
MRTAは、囚われている仲間の釈放、身代金、フジモリ大統領の経済政策の転換等を要求した。彼等は予想以上の人質の多さに困惑し、女性や子ども、アメリカ人などを解放していった。しかしフジモリ大統領は一月上旬には、武力突入のためのトンネルを秘かに掘らせ始めていた。
事件が膠着状態となると、中立的な立場から交渉を補佐する保証人の委員会がつくられ、委員として赤十字国際委員会代表、駐ペルーのカナダ特命全権大使、そしてルイス・シブリアーニ大司教が選ばれた。
特にシプリアーニ大司教は、テロリストたちとペルー政府との交渉役だけでなく、人質へ医薬品や食料などの差し入れ役を務め、毎日のように白い僧服姿がニュース映像に映し出された。実はこのとき差し入れの聖書や医療器具、ポットなどに、盗聴器や無線機が仕込まれていたそうである。
…私はこのニュース映像を見ながら「おゝシプリアニか!」と想いが飛んでいた。事件とは全く無関係な想いである。私にとってシプリアニとは、種牡馬の名前なのである。…トウメイ、ヒカルイマイ、アチーブスターの父。
シプリアニは父がイギリスを中心に大成功していたネヴァーセイダイで、イタリア産、イギリスとアイルランドで走り、コロネーションSを勝った程度の中級馬で、1962年に日本が輸入した。しかし小柄でほとんど期待されなかった。翌年日本に来た同じネヴァーセイダイ産駒ネヴァービートはわずか1勝馬だったが、その母系の血統は一流で種牡馬として成功した馬を何頭も輩出していたため、期待はこっちのほうがずっと大きかった。
シプリアニの初年度産駒アトラスは、後に小倉3歳S、京都4歳特別、北九州記念、金杯、小倉大賞典、CBC賞を勝った。そのアトラスが活躍する前のことである。
静内の谷岡牧場は大きな牧場ではないが、戦前戦後を通じてアラブ種を生産してきた。やがてサラブレッドの生産一本に絞ると、ダイハード産駒ヒロダイコクが出て、後に重賞を3勝した。ちなみにダイハード(あゝしんど)もネヴァーセイダイ(死ぬなんて言うな、頑張れ!)産駒である。
その谷岡牧場にトシマンナという、競走成績も馬体も貧弱な繁殖牝馬がいた。二年続けて馬格のある種牡馬が配合され、二頭の牝馬を産んだ。三年目に人気種牡馬トサミドリを申し込んだが、貧弱なトシマンナは相手先から断られた。しかたなく、静内近辺に繋養されていた小柄で人気もなく種付料も格安のシプリアニが選ばれた。生まれたのは、かなり小柄な牝馬だった。
しかしこの当歳っ娘は、なかなか元気で、飛び跳ねるように放牧場を走り回った。ちっぽけで、やせっぽちで、野性的で気が強く、粗野で人に懐かず、馬を見に来た調教師も馬主も、全く買う気を起こさなかった。
静内のセリに出しても165万円という値しか付かなかった。谷岡は売らずにそのまま連れ帰ろうとしたが、市場の関係者に説得され、値をつけた大井の高木調教師と近藤克夫に売却した。
この小さな牝馬を近藤オーナーに勧めたのは、阪神の清水茂次調教師だった。「今はちんこくて見栄えがしまへんが、そのうち成長します。なかなか気ィが強そうだし、ネヴァーセイダイ系いうンのもオモロイと思いまっせ」
しかし大井の高木調教師が急死し、その牝馬は預かり手を失ってしまい、苫小牧の藤沢牧場で待機することになった。他の調教師たちはそのネズミのような牝馬に興味を持たなかった。そのうち3歳(現2歳)の春になってしまった。阪神の清水調教師は、その牝馬を自分が近藤オーナーに勧めたことに責任を感じ、それまでの飼料代として135万円を出すと申し出た。
しかし近藤オーナーのたっての頼みもあって、清水師は夏の札幌開催の間だけ、トウメイと名付けられたその牝馬を預かることにした。たぶん競走馬としては無理だろう。その馬はほとんど成長しておらず、390キロにも満たなかったのだ。おそらく阪神には連れていけないだろう。
しかも全く人に懐かず、気が荒く、近づけば暴れ、蹴り上げ咬もうとした。厩務員たちに手入れすらさせようとしなかった。みんなトウメイを嫌った。彼女は厩舎横の空き地につながれたまま放置され、夜になると適当に空いた馬房へ入れられた。それでも調教が始まり、併せ馬では野性的な闘争本能をむき出しにした。トウメイは小柄なこともあってたちまち仕上がった。
8月末、野元昭騎手を鞍上にデビューした。全く人気も無く、不良馬場の泥をかぶりながら後方を進み、直線追い込んで2着となって穴を出した。二戦目の新馬戦も不良馬場だったが、今度は先行し楽勝した。「これは走る」…トウメイに対する厩舎の評価が一変した。彼女は阪神に連れて行かれ、晴れて清水茂次厩舎で「名札」の付いた馬房に入り、担当厩務員も決まった。
次は有力馬が集まった京都の特別戦に出走した。17頭立ての9番人気だったが、5着で入線した。その後、簗田義則騎手を背に、条件戦、オープン、寒菊賞と3連勝し、関西の3歳牝馬ナンバーワンと目された。少し肉付きも良くなり逞しくなった。
トウメイはシンザン記念に出走した。簗田騎手が人気のファインハピーに騎乗するため、鞍上は野元になった。阪神3歳Sの覇者リキエイカンを躱したが、ファインハピーには届かず2着に敗れた。
その後の桜花賞やオークスは、若い高橋成忠騎手で臨むことになり、先ず重賞の京都4歳特別を勝った。桜花賞は後方から素晴らしい脚で伸びて先頭に踊り出たが、その直後から差してきたヒデコトブキにわずかに躱されてしまった。
ヒデコトブキが故障して戦線を離脱したオークスでは、165万円の安馬トウメイが1番人気になり、安馬クラシックと話題になった。実はダービーの有力馬タカツバキもシプリアニ産駒で、これも安馬だったのである。
オークスでは4コーナーからライトパレー(カブトシローの妹)が抜け出た。トウメイはそれを追って並びかけたが、なかなか躱せない。インから一瞬の隙を突くようにシャダイターキンが前に出て、ゴールに走り込んだ。トウメイは3着に敗れた。…ちなみにダービーでは1番人気のタカツバキが落馬し、安馬クラシックと話題となった春が終わった。
夏の札幌でアカシアSに出たが、メジロタイヨウの2着になった。オープンを勝って大雪Hに出走したが、メジロアサマの2着になった。二頭とも後の天皇賞馬である。その夏、病床にあった清水茂次調教師が亡くなった。
トウメイは佐藤勇厩舎に転厩し、開設して間もない栗東トレーニングセンターに入った。トウメイはその晩秋から暮れまで、常に上位入着はするものの精彩を欠いた。おそらく疲労が溜まっていたのではなかろうか。
年が変わると、佐藤調教師は近藤オーナーの了承を得て、トウメイを騎手を引退した坂田正行の開業間もない厩舎に転厩させた。佐藤師から坂田への贈り物である。近藤も坂田を信頼した。
3月トウメイはオープンに出走して楽勝。馬体も420キロ台に成長している。これが坂田調教師の初勝利である。続いてマイラーズCに優勝し、坂田に初重賞勝ちを贈った。次の阪急杯は逃げるヒロズキを追い込んだが2着に敗れた。トウメイはこのレースで脚を痛めてしまった。
牧場のトウメイから激しさが消え、人に懐かない性格はそのままだが、すっかり温和しくなっていた。秋になって栗東に戻り、徐々に調教のペースを上げていった。トウメイに負けず嫌いの、野性的な激しさが戻りつつあった。
6歳(現馬齢5歳)の1月、オープンに出て5着。次からは故清水茂次師の子息で、当時はまだ無名の若手、清水英次騎手が主戦となった。
オープンを3回叩き、2着2回の後勝ち、続いてマイラーズCに優勝した。
さらにオープンを勝ち、阪急杯をトップハンデの58キロ背負い楽勝した。これで4連勝である。夏場を休養し10月のオープンから始動した。これは2着だったが、東上して東京の保田隆芳調教師の馬房に身を寄せた。
狙うは秋の天皇賞3200である。トウメイはマイラーだと考えられていた。これまでの最長距離はオークスの2400なのである。しかし坂田師は長距離も十分持つと考えていた。清水英次も1600を2回走るつもりで乗ろうと考えていた。さらに坂田は有馬記念にも挑ませようと決意していた。
10月末、調教替わりに牝馬東タイ杯に出た。トップハンデの59キロである。しかし後方から一気に先頭に踊り出る楽勝であった。
いよいよ天皇賞である。相手は菊花賞馬の古豪アカネテンリュウ、大井の雄アポスピード、これも地方から来たスピーデーワンダー(スティーヴィー・ワンダーをもじった良い名前だ)、ダービー馬ダイシンボルガード、コンチネンタル等の錚々たるメンバーである。保田隆芳調教師は騎手時代、天皇賞男と異名をとった。彼は清水英次に東京コースの特徴やその騎乗法を教えた。
レースはスローペースでトウメイは中団につけた。後方にアカネテンリュウとアポスピードがいる。やがてダイシンボルガードが上がっていった。清水はトウメイをじっと我慢させた。4コーナーを回りダイシンボルガードとスピーデーワンダーが先頭争いをはじめた。清水はトウメイに行けと指令を出した。アカネテンリュウとアポスピードは互いに牽制し合い、追い出しが遅れた。トウメイはゴール前できっちりとスピーデーワンダーを躱した。牝馬の天皇賞馬である。
有馬記念の戦前から本命は保田厩舎のメジロアサマだった。保田はトウメイの天皇賞での強さを目の当たりにし、アサマがトウメイに勝てるだろうかと考えた。しかし保田師は清水に中山コースの特徴を教え、助言までした。アサマに乗る池上騎手には、トウメイの末脚に気をつけろと言った。
前日事件が起こった。東京競馬場に流感が発生し、メジロアサマもアカネテンリュウも罹患し、熱発した。トウメイは暴れてなかなか熱を測らせなかったが、熱はなかった。有馬記念は流感で3頭が取り消し、コンチネンタル、サンセイソロン、ジョセツ、トウメイ、ダイシンボルガード、メジロムサシの6頭で争われることになった。
サンセイソロンが逃げ、コンチネンタル、ダイシンボルガードと続き、トウメイは最後尾を行った。3コーナーを回るとトウメイはジョセツを残してメジロムサシに並び、コンチネンタルを追った。コンチネンタルを躱すと先頭に踊り出た。トウメイは有馬記念を制した。坂田調教師は思わず保田調教師に駆け寄った。保田も自分のことのように喜んだ。清水英次騎手は「保田先生のおかげです」と言った。そして火のような野性の女トウメイが、清水英次という一流騎手を育てた。
トウメイは藤沢牧場で繁殖入りし、ホクメイやテンメイを産んだ。ホクメイは中央で2勝後、ホッカイドウ競馬に活路を求め活躍した。テンメイはこてこてのステイヤーで、菊花賞に2着し、天皇賞を制覇した。
ちなみにシブリアニ産駒で、1968年生まれのサラ系ヒカルイマイは、後方一気の戦法で皐月賞とダービーを制覇した。1969年生まれのアチーブスターは、桜花賞とビクトリアCを制覇した。シンモエダケはシンザン記念、阪神4歳牝特を勝った。1970年生まれのロッコーイチは北九州記念、小倉大賞典、小倉記念を勝った。1971年生まれのエクセルラナーはステイヤーズSを勝った。トドロキムサシはNTV盃、東京大賞典、東京王冠賞、大井記念を勝った。…残念なことにシプリアニは早死にし、多くの活躍馬を輩出したが後継種牡馬に恵まれず、その血は途絶えた。