大いなる野望 ~地方から世界へ~

三石の加野牧場は中小牧場である。生産馬の多くは安い値しか付かず、そのほとんどは地方競馬に行く。2001年、この牧場に一頭の鹿毛の牡馬が生まれた。しばらく買い手もつかなかったが、やっと有名なホースマン岡田繁幸が400万円で購入した。岡田はコスモバルクと名付け、夫人名義(後にビッグレッドファーム名義に変更)でホッカイドウ競馬の田部和則厩舎に預託し走らせることにした。さほど期待はしてなかったのに違いない。
コスモバルクの母は未勝利馬のイセノトウショウ(生産者は沙流郡のマル良牧場)で、その父はトウショウボーイ(父テスコボーイ、その父プリンスリーギフト)である。祖母マルミチーフ(生産者はマル良牧場)にはビッグデザイアー(父トライバルチーフ、その父プリンスリーギフト)の血が入り、さらに曾祖母にキタノカチドキ(父テスコボーイ)の血も入っている。
これは明らかに意図的で極端な配合である。マル良牧場には並々ならぬテスコボーイ、プリンスリーギフト系への信仰にも似た愛、こだわり、信頼があったのに違いない。コスモバルクの母系は極端なテスコボーイ、プリンスリーギフト系なのである。いや、その血の偏りは、コスモバルクそのものがテスコボーイ、プリンスリーギフト系と言っても大袈裟でないほどである。
コスモバルクの父はザグレブ、ザグレブの父はアイルランドのシアトリカルである。この馬はアメリカに転厩してから本格化し、チャンピオンホースとなった。その半弟は日本で走ったタイキシャトルである。
ザグレブはわずか3戦目にアイルランドダービーに挑んで6馬身差で圧勝し、続いて凱旋門賞に挑んで16着に惨敗、そのまま4戦2勝で引退した。種牡馬として日本に来たザグレブは全く人気がなかった。ザグレブはスピードよりスタミナ型で、鋭い決め脚がない。産駒の成績も不振であった。その種付料は2年間の種付け権利で50万円。つまり25万円で、人気種牡馬サンデーサイレンスの百分の一の安さである。ザグレブの供用は2002年に停止し、故郷のアイルランドに買い戻されて行った。その日本に残した数少ない産駒から、コスモバルクが出たのである。

2003年夏、コスモバルクはデビューした旭川競馬で2戦1勝、秋は門別で2戦1勝し、その後ホッカイドウ競馬認定厩舎制度(ホッカイドウ競馬に所属したまま民間施設で調教し、そこから直接競馬場に輸送して出走可能とした外厩制度で、本来の目的は馬房数と馬数の少ないホッカイドウ競馬へ民間施設の馬房を活用して出走頭数を増やすことであったはず…)の適用第一号として、晩秋の東京競馬場にやって来た。「野望」の第一章である。
彼の鞍上はホッカイドウ競馬の五十嵐冬樹である。彼は1999年、わずか24歳でホッカイドウ競馬のリーディングジョッキーとなり、その後も首位を守っていた。その百日草特別(500万下、芝1800)は11頭立ての9番人気に過ぎなかった。初めての芝の高速馬場である。失笑され、舐められたのである。しかしコスモバルクと五十嵐は、人気良血馬たちを嘲笑うかのように楽に先行抜け出し、しかも上がり3ハロン34.3秒の脚を披露して勝った。
続くレースは、阪神の重賞・ラジオたんぱ杯2歳Sで芝の2000。競馬ファンはまだその能力を怪しみ、4番人気に甘んじた。彼等は終始先頭を行き、しかも上がり3ハロンが34.9秒の末脚で楽勝した。翌年春、弥生賞(GⅡ)に挑み、終始二番手を進んで楽に抜け出し、上がり34.6秒の完勝。これで皐月賞の出走権を得た。
皐月賞ではついに1番人気に推された。レースは初めて中団やや前を進み、上がり3ハロン33.8の鋭い末脚を見せたものの、先行、逃げたダイワメジャーの2着に敗れた。
ダービーも2番人気に推されたが、岡田オーナーが五十嵐騎手に要求した抑える競馬は、前に行きたがる馬との折り合いを欠き、1番人気のキングカメハメハの8着に敗れた。しかしここで野望を断念する陣営ではなかった。
秋初戦は旭川競馬の北海優駿に出走した。久々のダート、かなりの太目残りのため辛勝した。ここから再び中央競馬に挑戦を始め、第二章が始まる。中山のセントライト記念を楽に逃げて日本レコードで完勝し、菊花賞の出走権を得た。旭川や門別のホッカイドウ競馬の馬が、3歳の三冠クラシック全てに出走するのである。これだけでも快挙である。
コスモバルクは菊花賞で堂々2番人気に推された。好位につけてレースを進めたが途中から引っ掛かって先頭に立った。その直後を一緒に動いたデルタブルースにかわされ、僅差の4着に敗れた。ついにクラシック制覇の野望は叶わなかった。しかしここから「野望」第三章の始まりである。
ジャパンカップへの挑戦である。陣営は鞍上をC・ルメールに替えて臨んだ。コスモバルクは終始好位につけ、ゴール前で伸びたがゼンノロブロイの2着に敗れた。暮れの有馬記念は五十嵐騎乗で臨んだが、ゼンノロブロイから離された11着に敗れた。おそらく疲労が蓄積していたのだろう。
「野望」第四章。年が変わってホッカイドウ競馬の千葉騎手が乗って日経賞を叩き、何と香港のチャンピオンズマイル(国際GⅠ)に挑み10着に大敗した。帰国すると宝塚記念へ挑戦し12着に大敗。この年は大敗続きで、安藤勝己、D・ボニヤ、五十嵐と次々と乗り手が変わった。負けたから騎手を替える…しかし、コスモバルクはかなり疲れていたに違いない。それは精神的な疲労であったろう。
2006年は春の天皇賞の出走権を得んと日経賞でスタートさせたが、8着に敗れて目標を失った。しかし「野望」第五章は再び海外への挑戦であった。五月にシンガポールで施行されるシンガポール航空インターナショナルC(国際GⅠ)である。コスモバルクと五十嵐は直線でコースの真ん中を抜け出し、追随する馬を押さえ込んで、ついに優勝した。
しかしここから、宝塚記念、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念、シンガポール航空国際GⅠ、宝塚記念と勝てないレースが続いた。旭川のレースでも3着に負けた。やっと勝てたのは2007年秋の盛岡の岩手県知事杯であった。
その後の天皇賞・秋で問題が起きた。エイシンデピュティが外に大きく斜行し降着処分になったが、それはコスモバルクが外によれたのが原因だったというのである。その影響でカンパニーに騎乗し3着に敗れた福永祐一は、五十嵐を激しく非難した。「五十嵐さんはGⅠに乗る騎手じゃない。福島にでも行けばいい」…ラフプレーと斜行の多い福永がよく言うものである。
しかし岡田オーナーはその後のジャパンカップから、コスモバルクの鞍上を松岡正海騎手に替えた。
ちなみに近年、有力馬主、生産者の吉田勝己氏が「あの程度で降着、失格なら競馬はやってられない」という発言をした。降着、失格処分はレースに責任のある騎手のミスで、責任のない馬主たちに入るはずの賞金に影響するのは納得がいかない、というものである。それらの有力馬主たちの圧力なのかどうか、JRAはできる限り降着や失格にはせず、騎手への制裁を厳しくすることにした。道理で最近は審議ランプも点けないことが多くなった。

…2009年の六月まで、コスモバルクは負け続けた。それも二桁の着順である。やっと2着に好走したのは盛岡のせきれい賞で、鞍上は水沢の名手・小林俊彦騎手であった。このコンビで、秋に盛岡の岩手県知事賞を勝った。二年ぶりの勝利である。コスモバルクは8歳になっていた。
その後、松岡正海で天皇賞・秋に出走し14着。二年ぶりに五十嵐冬樹騎手に再会し、ジャパンカップに出走して「後方まま」12着、続く有馬記念も10着であった。コスモバルクと五十嵐冬樹は、どんな会話をしたのだろうか。
岡田オーナーは日本国内でのレースを断念し、アイルランドのレパーズタウン競馬場で厩舎を開いている児玉敬厩舎に移籍すると発表した。
2010年の出国直前、彼は剥離骨折をした。オーナーはアイルランド移籍を断念。引退を発表し、五月に門別で引退式が行われた。コスモバルクは功労馬としてビッグレッドファームで余生を送ることになった。
しかし2011年、骨折が完治した10歳のコスモバルクに、アイルランド移籍の話が再燃して、調教も始められたのである。もう「野望」第何章になるのか忘れた。
その五月にホッカイドウ競馬に新しい重賞が設けられた。レース名は「サッポロビール杯コスモバルク記念」である。
コスモバルクは実際に六月にアイルランドに行ったが、今度は屈腱炎のため現役復帰はご破算となり、無事帰国し、再び功労馬として余生を送ることになった。多くのファンは心からほっとしたのである。やっとコスモバルクの「野望」の物語が終わったのである。
「コスモバルク記念」のことである。1着賞金は250万円、副賞が種牡馬の種付け権利で、中小の馬産界の切実さを象徴している。2011年から四年間の種牡馬はコンデュイット、2015年はダンカークである。
コスモバルクの競走生活は、地方で9戦5勝、中央で35戦4勝(内重賞3勝)、海外4戦1勝。GⅠ挑戦は国内22回、海外4回に及び、ジャパンカップに6年連続出走し、有馬記念の6年連続出走は新記録である。獲得賞金は4億8200万円、219万シンガポールドル。