遅れてきたマイルの王者

鵜川のフラット牧場は中小牧場で、その生産馬の多くは安くしか売れず、彼等のほとんどは地方競馬に行く。この牧場に1989年、一頭の牡馬が生まれた。この馬を購入したのは(有)有匡であった。
無事だったら91年の三歳(当時の馬齢、現二歳)夏から秋にデビューするのが普通だが、この馬は二歳時に育成牧場で負った大怪我のため、一年遅れの四歳(現三歳)の夏に、南関東公営・浦和競馬場の津金沢正男厩舎からデビューすることになった。「地方の、遅れてきた青年」である。その名をトロットサンダーという。
なかなか動きの良い馬だった。彼は初戦から1番人気の評価を受けた。そしてあっさりと五連勝し、93年一月初戦の2着を挟んで、さらに二連勝したが、球節を骨折してしまった。もう競走馬としては無理かも知れないと危ぶまれたほどの箇所と怪我の状態であった。
また一年あまりを棒に振ったが、復帰は翌年五月で、これも楽勝した。9戦8勝2着1回の堂々たる成績で、全レース1番人気であった。これまでの獲得賞金は1500万円弱である。
彼には早くから中央競馬への移籍話があった。しかし馬主の(有)有匡は中央競馬に馬主資格を持っていなかったため、資格を持っていた藤本牧場の藤本照男が新しい馬主となって、美浦の相川勝敏厩舎に入った。

トロットサンダーの父は社台ファーム生産のダイナコスモスで、5番人気で皐月賞に勝った。ダイナコスモスの父はイギリス産のハンターコムで、優れたスプリンターであった。その父はデリングドゥで、この系統はイギリスやフランスでの評価は高かったが、日本にはほとんど入っていなかった。
ハンターコムの特徴は仕上がりが早く、ダッシュ力とスピードにまかせたレースぶりである。おそらく社台の総帥・吉田善哉は、このハンターコムでクラシックを勝つなどとは考えていなかったのではなかろうか。自場のノーザンダンサー系牝馬に掛け合わせて、アウトブリードとスタミナ系牝馬のスピード強化を狙ったのに違いない。ダイナコスモスは図らずも皐月賞を勝ったがダービーは5着、その後ラジオたんぱ賞に優勝し、それを最後に故障で早々と引退した。私の印象では、一瞬の切れ味を示すものの、強いという感じは全くなかった。
社台はダイナコスモスをさほど評価してなかったに違いなく、アロースタッドで種牡馬になった。安い種付料のため中小牧場には手頃であった。
トロットサンダーは94年の夏の札幌競馬から中央競馬デビューした。初戦は日高特別(900万下)芝1800で、横山典弘が手綱をとり、4番人気で2着となった。調整のため晩秋まで休み、美浦特別(900万下)と明けて初富士S(1500万下)を連勝し、重賞の中山記念に挑んだが7着、その後も夏の札幌記念、函館記念と重賞に挑んだがいずれも7着に敗れた。どちらも芝2000の距離だが、おそらく彼には長すぎたのである。
続く秋の毎日王冠は豪快に追い込んで3着に健闘した。芝の1800までなら一線級で活躍できる力を示し始めたのである。
重賞ではないがアイルランドトロフィ芝1600を、上がり3ハロン34.5秒の末脚で勝ってからが素晴らしかった。この馬はマイル戦ならかなり強いことを示した。これ以降、トロットサンダーの上がり3ハロンは、コンスタントに34秒台を示す。確実に伸びてくる差し脚なのである。
トロットサンダーはGⅢ、GⅡの重賞勝ちもないのに、GⅠレースのマイルチャンピオンSに挑戦することになった。すでに七歳(現馬齢六歳)になっていた。そのレースで彼は出遅れた。しかし中団から豪快な差し脚を見せて勝った。なんとGⅠホースになったのだ。
続く東京新聞杯もマイル戦である。1番人気に応えて、堂々の貫禄勝ちである。次の京王杯スプリングC芝1400はアラブ首長国連邦ドバイの王族ムハンマドの所有馬ハートレイクやタイキブリザードが相手で、3着に敗れた。ハートレイクはイギリス産馬で、前年の安田記念優勝馬だった。
この年の前半戦の締めくくりはGⅠ安田記念が選ばれた。相手はまたハートレイクやタイキブリザードだったが、今度は豪快に差し切ってみせた。これでGⅠレース2勝目である。

トロットサンダーは藤本牧場で休養に入った。秋は毎日王冠から始動し、天皇賞を目標にしていた。天皇賞は2000だが、何とか対応できるのではないかと考えたのだろう。
しかしその休養中にトロットサンダーの「名義貸し事件」が発覚したのである。トロットサンダーの実質の所有者は(有)有匡のままで、藤本が馬主名義を貸していたというのである。これは競馬法違反で、藤本はJRAの馬主資格を剥奪された。
馬には何の責任もないはずだが、トロットサンダーは強制的に引退に追い込まれることになった。
中央13戦7勝、その獲得賞金額は3億5000万円弱。浦和時代を合わせれば約3億6400万円である。浦和のダート1600戦で2戦2勝、中央は全て芝で走り、1600戦なら6戦6勝。浦和時代を合わせれば8戦全勝なのである。彼は遅れてきたマイルの名馬だった。
種牡馬になったが、あまり花嫁を集めることができず、2004年に廃用になって、その後死亡したらしい。数少ないその産駒は地方競馬でそこそこ走った。岩手のウツミジョーダン(50戦14勝)が種牡馬になったが、彼には種付けの機会はほとんどなく、ほどなく廃用になって、ハンターコム、ダイナコスモス、トロットサンダーの系統は途絶えた。