東京優駿(日本ダービー)はお祭りである。日本では今日、年に七千頭近くのサラブレッドが誕生し、約半数が中央競馬に登録、入厩する。ダービーは同年生まれの馬たちが、数々のトライアル競走を経て、三歳春の最速最強を、スピードとスタミナが求められる2400メートルの距離で競うのである。
2400メートルも走って、わずか数センチ、あるいは1、2センチの鼻差で決着がつくこともある。それは首の上げ下げとも言われる。コーネルランサーとインターグッドの年、カツラノハイセイコとリンドプルバンの年、カツトップエースとサンエイソロンの年、アグネスフライトとエアシャカールの年が鼻差であった。
カツトップエースとサンエイソロン世代、アグネスフライトとエアシャカール世代はレベルが低かった。また勝負事には「まぐれ」は付きものである。ダービーでもそれはある。その後、大きなレースを勝てない馬もいる。アグネスフライトがそうであった。ダービーの激走で、故障する馬も少なくない。コーネルランサー、カツトップエースもそうであった。インターグッドもダービー後一戦したのみで故障し、登録抹消となった。
コーネルランサーとインターグッドの年は、突出していたキタノカチドキが3着に敗れた。勝ったコーネルランサーの中島啓之は、父中島時一と同様ダービージョッキーとなった。時一が騎乗したのは牝馬のヒサトモで、戦前のことである。ヒサトモについては「奇跡の復活(1)」をお読みいただきたい。
インターグッドに騎乗した笹倉武久は、まことに地味な騎手であった。彼にとって痛恨の、生涯悔いの残るレースだったに相違ない。わずかな鼻差で、華のある「ダービージョッキー」の栄誉を逸したのだ。ちなみに中島啓之騎手は、ダービー優勝の十一年後、現役のまま癌で逝った。
鼻差の激闘…デッドヒート…。これを火花散るような熱い死闘と思い込む人は多い。これは本来の意味ではない。競馬の発祥地イギリスでは、馬の馬体が完成する五歳上の古馬のヒート競走(Heat Race)を行っていた。heatとは予選のことである。2マイルから6マイルを同一組の馬たちで複数回走り、二回から三回の複数回1着になると優勝となる。これだと「まぐれ勝ち」の確率は相当下がるわけである。
当時、そのゴールでの決着は目視だったため、微妙な僅差あるいは同着と見なされた場合、そのHeat Raceは無効(dead)とされた。微妙な同着、僅差で無効となったHeat RaceがDead Heatなのである。今日、競馬のゴールは全て写真判定(photo finish)となり、当然同着もある。
やがて若い三、四歳馬でも距離を短くし、また一回きりで一気(dash)に決着をつけるレースをやることになった。これが Dash Race である。1776年、ドンカスター競馬場で三歳馬だけの芝2マイルの Dash Race「セントレジャー」ステークスが創設された。1813年に、その距離は約3000メートルに変更となった。
ステークスとは出走馬の馬主が掛け金(stake)を出し合って賞金とし、勝者と上位入着馬に分配する方式である。セントレジャーは第二回まで、勝者が賞金を総取り(sweep)するスウィープステークスであった。
第十二代ダービー伯爵エドワード・スミス・スタンリーは、友人と所有の三歳牝馬を競わせる芝1マイル余のレースを提案した。レース名は伯爵の領地に因んだ「オークス」と名付けられた。1779年第一回のオークスを勝ったのはダービー卿所有のブリジットである。オークスは1784年から距離が約1マイル半に延長されている。
そのブリジットの祝賀パーティで、ダービー卿が牡馬も交えたレースの創設を提唱した。レース名は、すぐに賛意を示したチャールズ・バンベリー準男爵とダービー卿がコイントスで決め「ダービー」と名付けられた。翌1780年、第一回英ダービーがエプソム競馬場の芝1マイル余で開催された。優勝馬はバンベリー卿のダイオメドであった。1784年にオークス同様、距離が約1マイル半に延長されている。
1809年、ニューマーケット競馬場の芝の1マイル余の直線だけで、三歳馬の早熟性とスピードを競うレースとして「2000ギニー」が創設された。このレース名は、その時の優勝馬の賞金額から名付けられた。
1814年、同様に三歳牝馬だけの「1000ギニー」が創設された。これもニューマーケット競馬場の芝1マイル余を、直線だけでそのスピードを競うのである。…これらのレース体系が確立し、回を重ねてクラシックと呼ばれ、世界中の競馬開催地で、三歳馬のレース体系のモデルとなったのである。
日本の牝馬クラシックの第一弾1600メートルの「桜花賞」は1000ギニーをモデルとし、2000メートルの「皐月賞」は2000ギニーをモデルとして創設されている。これらの距離は早熟性とスピードの勝負である。
ダービー、オークスの2400メートルは、早熟性、スピードとスタミナ、底力を試されるレースと言えよう。俗にダービー馬になるためには「運」もいると言われている。
秋の3000メートル「菊花賞」は、もちろんセントレジャーがモデルで、成長力、晩熟性、スタミナ、底力が試される。皐月賞、ダービー、菊花賞を三冠と言う。皐月賞と菊花賞を勝つということは、能力の持続性と成長力が必要なのだ。三冠馬とは実に凄い能力なのである。
昨今、本場イギリスのセントレジャーが低調であるらしい。イギリスでは、三歳の若駒の3000メートルを回避し、2000ギニー、ダービー、そしてフランスの凱旋門賞(2400)を欧州三冠とし、その目標としている。
アメリカの三冠レースの第一弾は、ルイビルのチャーチルダウンズ競馬場で行われる「ケンタッキーダービー」ダート2000メートルである。第二弾は、メリーランド州ボルティモアの「ブリークネスS」ダート1911メートル。三冠目がニューヨーク州ベルモントパーク競馬場で施行される「ベルモントS」ダート約1マイル半のレースである。
アメリカ競馬は左回りのトラック状のダートコースが多く、各競馬場の形もほぼ画一化されている。スピードを重視し、短・中距離戦が主体である。日本のダートより砂は軽く浅く脚抜きが良い。したがって芝コースとさほど変わらぬ速いタイムが出る。また現在は、人工繊維や樹脂を混合した合成ダートコースが増えているらしい。オールウェザーと言っているが、良馬場、不良馬場、重馬場、稍重馬場の得手不得手を「斟酌する楽しみ」は少ない。左回りが得意、右回りが上手い、坂が苦手、長い直線で速い脚が活きるとか…競馬ファンの楽しみは、多くの要素を斟酌することなのである。
私は口が悪い。ケンタッキーダービーなど、佐賀の「九州ダービー栄城賞」ダート2000メートルと大して変わらず、ブリークネスSも名古屋の「東海ダービー」ダート1900メートルと大して変わらない。ベルモントSは大井の東京ダービーと変わらない。もちろん、その華やかなイベント性、出走馬の血統の良さ、ゴツさと能力、賞金額には大きな開きがあると思うけれど…。
ついでに言いたい放題だが、私は短距離戦(特にダート戦)があまり好きになれない。重賞・根岸ステークスのダート1200メートル(1400メートルに戻したが)の何が面白い? 芝のスプリント戦(1000~1200メートル)なら、ハナからガーッと飛ばす馬たちが多く、ゴールのだいぶ手前でバテて脚が止まる。そのため中段、後方から行く馬の差しや追い込みが決まる展開になることもあり、それなりに劇的である。
しかしダートの1000~1200メートル戦は、逃げ、先行馬がそのまま残ることが多く、ゴール前の劇的な変化が少ない。どうせ逃げ、先行馬が有利なら、あのハイセイコーのような呆然とするくらいの大差の圧勝劇が見たい。ハイセイコーのダートの短距離戦は凄いものであった。
ハイセイコーは公営大井の所属馬であった。そのデビュー前の調教の凄さが評判となり、対戦を回避する馬が多く出て新馬戦が不成立となった。そのためハイセイコーのデビューは、未出走戦ダート1000メートルの6頭立てであった。ハイセイコーは懸命に逃げるジプシーダンサーを軽くかわすと、あっという間に8馬身差をつけ、驚異的なレコード勝ちをした。
続く二戦目は53万下レースのダート1000メートル戦で、唖然とするような16馬身差で圧勝し、続く特別レースダート1200メートル戦を8馬身差の圧勝。ゴールドジュニアー競走ダート1400メートル戦を10馬身差のレコード勝ち、特別戦を7馬身差、重賞の青雲賞(現ハイセイコー記念)を7馬身差…。さほど追う様子もなく、馬なりに近い。6戦6勝で中央競馬に移籍し、その後は芝のコースを走った。しかし彼は芝向きではなかった。
おそらくハイセイコーは、ダートの2000メートル戦までなら日本の競馬史上屈指の馬だったと思われる。むしろアメリカ競馬に移籍していたなら、相当の戦績を挙げたかも知れない。ケンタッキーダービーも、ブリークネスSも好勝負を演じたのではなかろうか。それともアメリカの軽いダートは合わなかったか…。
…彼の息子ライフタテヤマも、ダート戦だけなら6戦6勝の強い馬だった(芝の中京三歳Sや、シンザン記念も勝っている)。当時はダートの重賞は三レースしかなかった。今のようにダートの重賞レースが多ければ、ライフタテヤマはダート戦のみに徹し、ダートのGⅠも含め勝ちまくっていたに違いない。
いつものことながら、ダービーやクラシック競走の話から、だいぶ逸れてしまった。