幻野の虹

虹の橋のたもとには、美しい緑と花の野が広がり、亡くなったペットたちがいて、元の飼い主を待っているという。…以前「虹の橋文芸サロン」というコーナーに動物文芸アンソロジーのようなエッセイを書き続けた。
そこにスペインの詩人ロルカについての「漆黒の馬」や、自然歳時記について書いた「生き物たちと自然の呼び名」等を加え、「人のとなりに」と題して纏めた。野生にせよ、家畜にせよ、経済動物にせよ、ペットにせよ、古来「人のとなり」には、動物たちがいるのである。

最近の競馬中継は、レース中に落馬や競走を中止した馬が出ても、それが人気馬でなければ一言二言で競走中止の事実に触れるのみで、そのままレースを伝え続ける。レース終了後も、競走を中止した人馬の姿をカメラで追うこともなく、人馬の怪我の有無やその様子を気遣うこともない。重要なのは着順と当たり馬券の番号であり、その配当金なのである。アナウンサーは淡々と結果や配当を読み上げ、レギュラー出演者やただ声の大きいだけのお笑い芸人と、馬券の当たり外れを賑やかに大騒ぎするだけなのである。
2014年のダービーでは、競走を中止したエキマエや、直線で内ラチにぶつかって馬群の最後方に落ちていったトーセンスターダムについても、放送はレース後に何のリポートも伝えなかった。
かつて社台の統帥・吉田善哉は「サラブレッドは経済動物だ」とドライに言った。経済動物なのだから、心情的な判断や思い入れはしないということなのである(しかし彼は誰よりも長い時間を馬に接し、誰よりも注意深く馬を見続けたという)。
ある有力大馬主は、調教師から調教中の落馬事故の一報を受けた際、騎手の怪我から伝えた調教師に対し「騎手の怪我なんてどうでもええ、馬はどうなったんじゃい!」と怒鳴りまくったという。
レース中に馬が転倒したり骨折したりする事故を目撃することがある。その場で動かなくなる馬も、骨折をしたらしい馬も、馬運車に乗せられて運ばれていく。馬主でもなく、生産者でもなく、特にその馬がらみの馬券を持たず、また応援している馬でなくても、胸が痛むものである。…あの脚を痛めたらしい馬はその後どうなったのか、騎手は怪我をしていないかと気になるのだ。
予後不良(安楽死)、斃死…。競馬ファンとして想うのである。その後、彼等もまた、虹の下の草原でのんびりと草を食み、ずっと気ままに遊べばよい。

クラチカラという馬がいた。準オープン級の馬で、ダートが得意な力馬であった。それは土曜日だったか、日曜日だったか、また中山だったか府中の競馬場だったかの記憶も定かでない。準オープン級の特別レースのダート戦である。そのレース名が武蔵野ステークス(現在は重賞レースになっている)だったような気もするのだが、これも定かでない。武蔵野Sだとすれば府中である。しかし記憶の中の残像は右回りだったような気がするのだ。そうだとすれば別のレースであったか。1972年のことである。
クラチカラは先行タイプであり、2着、3着と善戦する馬であった。その日の彼は得意のダート戦でもあり、前走の好走もあって、今度は勝てるだろうと1番人気に推されていた。彼は好スタートし、ごく自然に好位置で先行し、向こう正面で先頭に立ち馬群を引き連れていた。
と、クラチカラは突然ズルズルと後退していった。誰の目にも故障発生と知れた。彼はたちまち馬群から大きく取り残された。しかし、走るのをやめない。騎手(これも誰であったか記憶にない)が立ち上がるようにして制止させようとしている。そしてクラチカラの脚元を覗き込んでいるのだが、彼はトコトコと走り続けている。何で停めない。馬を止めろ。…ゴール前の追い競べがあり、すでに彼以外の全馬がゴール板を通過し、レースは終わった。他の馬たちはスピードをゆるめダク足になっている。クラチカラはやっと四コーナーをまわり、トコトコと走り続けている。脚の故障ではないのか? 騎手は何で走るのをやめさせないのか? 騎手は中腰で馬の脚を覗き込むように走らせている。クラチカラがスタンド前をトコトコと走り、やっとゴールを過ぎたところで横倒しになるように崩れ落ちた。騎手が跳ね起き、何人もの係員が駆けつけた。馬運車もやって来て、数人かがりで倒れたままのクラチカラを馬運車に担ぎ入れた。
翌日の新聞にクラチカラの死因が心臓マヒだったと書かれていた。中央競馬会の獣医や騎手の談話によれば、向こう正面ですでに心臓が止まっていたらしい。騎手はクラチカラを止めようとしたが、馬の意識はその指令を受け止める状態ではなかったのだ。走ることを止めなかったのは、競走するために作られたサラブレッドの本能か、あるいは薄れ行く意識の中でゴールまで走ろうと決意したのか、自分の馬券を買ってくれたファンのためにも最後の最後まで頑張ろうと思ったのか…。
当時ラジオ関東で競馬実況を担当していた井口保子アナは、涙が止まらず、後年のエッセイにクラチカラのことを書いている。今、その本は手元にない。

ハマノパレードは牡馬としては小柄で細身の美しい馬だった。最強世代と言われたタイテエム、ロングエース、イシノヒカル、ランドプリンス、タニノチカラ、ストロングエイト等と同世代である(クラチカラも同世代)。この世代でなければ大レースを二つ三つは勝っていたかもしれない。宝塚記念をレコード勝ちの後、中京の高松宮杯(当時は2000メートル)で前のめりにもんどり打って転倒し、翌日予後不良で安楽死となった。
テンポイントは輝くような美しい栗毛と額と鼻梁にかけての流星から「流星の貴公子」と呼ばれた。暮れの有馬記念で強い勝ち方をし、翌年の二月にイギリス遠征に出発する予定だった。多くのファンのもう一度勇姿が見たいという要望に応え、日経新春杯に出走した。斤量は66.5キロという酷量である。
雪の舞う中、テンポイントは楽に先頭に立っていたが、四コーナー手前で急に減速した。故障発生だ。スタンドに悲鳴が起こり騒然とした。痛めた片脚を浮かせてたたずむテンポイトの傍らで、鹿戸明騎手が泣きながら鼻筋を撫で、脚元を覗き込んでいた。
普通なら予後不良で安楽死処分となるところだが、全国から寄せられた助命嘆願があまりにも多く、彼は闘病生活に入ることになった。しかし四十数日間の闘病空しくついに逝った。馬の葬儀が行われたのはテンポイントが最初だった。
テンポイントの全弟キングスポイントは、かなり強い障害馬だった。船橋聖一の「花の生涯」や大河ドラマをもじって「花の大障害」と呼ばれる春の中山大障害で落馬し、予後不良となった。
カバリエリエースは四歳(現三歳)一月にデビューし、重賞のクィーンカップとオークストライアルの四歳牝馬特別を勝った。オークスではテンモンに次ぐ2番人気に推されたが大惨敗した。カバリエリエースは気性が激しく難しい馬だった。何しろ父ハーディカヌート、その父ハードリドン(英ダービー馬)の系統はダービーのような大一番に強いが、また恐ろしく気性の悪い血統だったのである。ハードリドンは日本に来てダービー馬ロングエースやオークス馬リニアクインを出し、ハーディカヌートは仏ダービー馬のハードツービート等を輩出している。
カバリエリエースはその後も惨敗し続けた。主戦の岡部騎手は「どこも悪いところはないよ。ただ頭が壊れたんだ」と言ったほど、彼女はいかれていたのである。ダービー卿チャレンジトロフィで、彼女は後方を走っていたが、引っ掛かって一気に前に出ようとした。岡部騎手は必死に抑えようとしていた。私は思わず「抑えるな、行かせろ行かせろ」と声を出してしまった。直線でバテるようなスタミナのない馬ではない、好きなように行かせろ。母カバリダナーの父はステイヤーのパーシアである。しかし岡部とカバリエリエースは折り合いを欠き喧嘩をしていた。と、カバリエリエースは天を仰ぐような仕草をした後、腰を落とし、ズルズルと後退して競走を中止し、その脚の一本を痛々しく浮かして庇った。…彼女は予後不良と診断された。
タカラテンリュウはカバリエリエースの半弟で、父はインターメゾという典型的なステイヤーであった。彼はその血統の良さと素質の良さで注目され続け、長距離レースに強く、天皇賞では1番人気に推されたほどである。しかし二月の固い馬場の目黒記念でレース中に骨折し、姉同様に予後不良となった。

サクラスターオーは皐月賞と菊花賞を勝ち、メリーナイス、ゴールドシチー、マティリアル世代では、おそらく最も傑出していたと思われる。幼くして母サクラスマイルと死に別れ、曾祖母にあたるスターロッチに乳をもらい、育てられた。
スターロッチは偉大な名牝である。自身もオークスと有馬記念に優勝したが、その子孫からハードバージ(皐月賞)、サクラユタカオー(天皇賞)、ウィニングチケット(ダービー)などを輩出している。スターオーは暮れの有馬記念に堂々の1番人気で出走した。その最後の四コーナーで左前脚を骨折し競走を中止してしまった。普通なら予後不良、安楽死処分になるはずだが、多くのファンから助命嘆願が寄せられて、長い治療生活に入ったのである。しかし半年近い闘病後についに逝った。
ライスシャワーは小柄で細身の馬であった。当初は強いのか弱いのかはっきりせず、快速ミホノブルボンとの差は歴然であった。しかしステイヤーのリアルシャダイ産駒である。的場均騎手は菊花賞を狙っていた。ライスシャワーは秋に本格化し、菊花賞でミホノブルボンの三冠を阻止した。レコードタイムである。古馬となって春の天皇賞をレコードで制したが、その後も強いのか弱いのか分からぬような負け方をした。
ライスシャワーは二度目の春の天皇賞を勝ち、宝塚記念に出走した。的場騎手は一周目あたりで様子がおかしいことに気付いたらしい。その時点で勝つことは考えず、無事にゴールすることだけを考えていたという。しかしライスシャワーは自ら勝負に出ていったのである。そして前のめりになりながら、体勢を立て直したものの転倒し的場騎手を投げ出した。故障の程度がひどく苦しみもがいたことから、周囲に幕が張られ、その場で安楽死処分がとられた。
サイレンススズカの脚質は典型的な逃げであった。しかしそれは勝つためにどうしても逃げなければならないといったものではなく、天成の絶対スピードで自然に先頭に立ってしまうのである。
実が入った古馬となってからも終始先頭を走り続け、負け知らずの6連勝であった。その内容は二つのレコード勝ちと宝塚記念を含む重賞5連勝である。
特に毎日王冠はエルコンドルパサーやグラスワンダー等を相手とした、相当ハイレベルなレースであった。宝塚記念は南井騎手の騎乗だが、他の5勝は武豊が手綱をとっていた。
天皇賞・秋は当然1番人気である。サイレンススズカはその日も他馬を大きく引き離して快足を飛ばしていた。ところがスズカは三コーナーを過ぎた地点で急に失速し、後続馬に次々に抜かれていった。スタンドは騒然とした。スズカは左前脚を庇うように浮かせて競走を中止した。その後スズカは予後不良と診断され安楽死処分がとられた。

これら人気馬ばかりではない。競馬ファンはクラチカラのような馬の姿に感動し、胸をつまらせ、無名馬の死にも心を寄せ、悲しむのである。
ウツクシイニホンニ死せり日の丸の 翩翻と予後不良の通知
寺井淳という高校教師の短歌である。ウツクシイニホンニは未勝利で終わった。死んだ彼等はみな、虹立つ幻野で遊び、ずっと気ままに走ればよい。