宮代八郎は大正11年、神奈川県二宮町の馬車運搬業の家に生まれた。八郎は小学校を出ると地方競馬の羽田競馬場少年騎手養成所に入所し、騎手となって羽田や八王子競馬場で騎乗した。
日中戦争の激化にともない、地方競馬の多くが休止され、彼は日本競馬会に移った。東京競馬場の川崎敬次郎厩舎に入門し、昭和17年に日本競馬会の騎手免許を取得したが、間もなく徴兵され、陸軍近衛師団で終戦を迎えた。
復員後、かねて馬主に紹介されていた京都競馬場の谷栄次郎厩舎に所属した。やがて谷調教師の姪と結婚し、婿養子となって谷八郎と改姓した。騎手としては恵まれず、現役時代98勝しか挙げていない。
昭和34年に調教師に転じたが、あまり預託馬に恵まれなかった。競走馬生産の僻地とも言われた九州産馬や、雑種血統と呼ばれたサラ系など、安馬が多かったのである。そんな中からサラ系ヒカルイマイが出た。
ヒカルイマイは兼業農家の小さな牧場で生まれた。人手不足で夜も厩舎に入れてもらえず、その夜間放牧で丈夫さと精悍さと度胸が備わり、山の斜面の狭い放牧場で自然に足腰が鍛えられたのである。
谷八郎調教師は自厩舎の若い田島良保騎手をヒカルイマイに乗せた。ヒカルイマイはいつも最後方に位置する競馬で、馬主やファンをハラハラさせ、「やはり田島のような若僧じゃあ駄目だ」とも言われた。谷は、それでも彼をヒカルイマイに乗せ続けた。騎乗機会を増やさなければ騎手は上達せず、また強い馬が騎手を育てるものなのである。
ヒカルイマイは「後方一気」の怒濤の末脚を爆発させ、皐月賞とダービーに優勝した。田島は戦後の最年少ダービー騎手となったのである。ヒカルイマイは雑草、反逆児、風雲児と呼ばれた。
谷八郎調教師はヒカルイマイ以外にこれといった大物を出せなかった。しかし門下生として、必殺仕事人・田島良保、天才・田原成貴、幸英明騎手らを輩出した。これは凄いことなのだ。ちなみに谷厩舎の馬主は九州出身者が多く、九州の馬産地にも人脈が多かった。田島良保や幸英明も鹿児島の出身である。
谷八郎調教師の長男・潔は、幼い頃から馬に親しんだが、乗馬はしたこともない。騎手になろうとか、競馬関係の仕事に進もうとかは全く考えなかった。同志社大学に進んだが、父の弟子の田島や田原騎手の素晴らしい活躍を見て、競馬の仕事に進む気になった。卒業後に父の厩舎で厩務員となった。
一年後に調教助手の資格を取り、やがてアメリカに二年間の修業に出た。西海岸の厩舎でエクササイズ・ライダーとなり、さらにケンタッキーの名門・ゲインズウェイファームで厩務員になった。帰国後再び父の厩舎で調教助手を務め、調教師免許を取得し、1995年、栗東に谷潔厩舎を開業した。しかし、なかなか良い馬が集まらず、苦労が続いた。
開業二年後、アイルランド産馬のヒコーキグモがきさらぎ賞を勝ち、これが厩舎の初重賞勝ちとなった。こんな不思議な馬名だから、すぐ小田切有一氏の所有馬と知れる。その後ヒコーキグモも低迷し続けたが、谷潔厩舎も低迷した。
谷潔が厩舎を開業した年、門別の日高大洋牧場に一頭の黒鹿毛の牡駒が生まれた。父はかのサンデーサイレンスである。母キャンペーンガール(父はマルゼンスキー)は妊娠中、幾度もの疝痛に苦しんで衰弱していき、牡駒を出産した五日後に死亡した。そのとき仔馬は母馬と離された馬房にいたが、ずっと悲しげに啼き続けていた。
ばんえい競走用の農耕馬が乳母となって、その仔馬に乳を与えた。乳母はかなり気性のきつい馬だったため、常に牧場スタッフが見守って仔馬を育てた。そのため仔馬は人間に懐き、人間を信頼した。放牧場で他の仔馬たちと一緒に遊んだり、走り回ったりすることもなく、いつも一頭だけ離れたところにいた。
やがてこの仔馬はスペシャルウィークと名付けられた。育成牧場でスペシャルウィークの素質は目についた。乗り手に従順で賢いため、競走しても走りにロスが無いのである。彼は栗東の白井寿昭厩舎に入厩した。温和しく賢く、人間に対して素直であった。
スペシャルウィークはダービー、天皇賞(春・秋)、ジャパンカップを勝ち、17戦10勝で引退したが、その獲得賞金は日本で初めて10億円を超えた。スペシャルウィークのライバルは、セイウンスカイ(皐月賞、菊花賞)、エルコンドルパサー(ジャパンC)、グラスワンダー(宝塚記念、有馬記念)であった。
種牡馬となったスペシャルウィークは数多くの重賞勝ち馬を輩出し、ライバルたちを凌駕した。しかしGⅠ優勝馬はシーザリオ(オークス、アメリカンオークス)、ブエナビスタ(桜花賞、オークス、ジャパンC、天皇賞・秋)の牝馬で、後継種牡馬となりうる牡馬に恵まれなかった。
ちなみに、馬の毛色で栗毛は普通だが、たてがみや尾がススキの穂のように輝く華麗な尾花栗毛は珍しく、年に一、二頭ぐらいしか生まれない。しかし近年の尾花栗毛馬のほとんどはスペシャルウィーク産駒なのである。彼自身は黒鹿毛で、父サンデーサイレンスは青鹿毛、母キャンペーンガールも母の父マルゼンスキーも鹿毛である。またキャンペーンガールの母レディシラオキも鹿毛、サンデーサイレンスの父ヘイローも母ウィシングウェルも鹿毛である。果たしてスペシャルウィーク産駒によく出る尾花栗毛はどこから遺伝してきたものか。…おそらく祖母レディシラオキの父セントクレスピン、その父オリオール、その父ハイペリオンらの栗毛の遺伝だろう。
ちなみにオリオール産駒で日本に来たオーロイから、かの伝説の癖馬・魔王カブトシローが出、セントクレスピンから四白流星の貴公子タイテエムと、気まぐれの天才エリモジョージが出た。
2011年3月11日の薄暗い朝まだき、日高の竹島幸治牧場で一頭の牡駒が生まれた。父はスペシャルウィーク、母は栗毛のトーホウガイアである。ガイアは地母神、大地の象徴である。仔馬の濡れた黒い身体が乾き始めると、美しい栗毛馬と知れた。仔馬は何度も立ち上がろうとして尻餅をつきながら、やっと震えて揺れる四肢を踏ん張った。…その日の午後、北海道の大地も震度4の強い揺れに襲われた。仔馬は大地がユサユサと長く揺れる恐怖を、母馬に寄り添って耐えた。
竹島牧場は繁殖牝馬など25頭を繋養する小規模の生産牧場である。スタッフは社長を含め、わずか三人に過ぎない。みな凄まじく悲惨なニュース映像を見ながら、奇しくもこの日に生まれた仔馬を、新しい生命の象徴として、元気に育てなくてはならない…と思っていた。
その仔馬は美しい尾花栗毛に育っていった。東豊物産の所有馬として、競走名をトーホウジャッカルと名付けられ、栗東の谷潔厩舎に預託されることになった。しかし育成牧場で鍛えられていた二歳時、重い腸炎を患ってしまった。一時は生死の境をさ迷い、なんとか危機を脱したが50キロも痩せ細り、もう競走馬としては無理かも知れないと思われた。
やっと回復したものの、谷厩舎に入廏したのは三歳の3月である。彼のデビューはダービー前日で、京都の未勝利戦であった。対戦相手のほとんどは何戦も体験している馬たちである。彼は10着に敗れた。騎乗した酒井学はこの馬に魅力を感じたらしい。2戦目は幸英明騎手が騎乗し9着に敗れた。酒井はまたジャッカルに騎乗したいと谷調教師に申し入れた。夏競馬が始まり、ジャッカルは酒井学騎手を背に中京の未勝利戦に出て、人気薄で初勝利を挙げた。
小倉に移動し、500万下レースを連勝、続く玄海特別を古馬と闘って首差の2着。この馬の素質が明らかになってきたのである。
谷調教師は無謀かも知れないがジャッカルを重賞神戸新聞杯に挑戦させたかった。獲得賞金額が少ないジャッカルの出走可否は、抽選である。運良くこの出走権を獲得した。さすがにダービー馬のワンアンドオンリーが1番人気で、ジャッカルは16頭立ての10番人気に過ぎなかった。ジャッカルは直線で大きな不利を被りながら、差のない3着に突っ込んだ。…穴党はこのレースぶりを見逃さなかった。もしこの馬が菊花賞に出てくれば、狙いだ。ちなみにこのレースを勝ったのはダービー馬であった。
神戸新聞杯3着でトーホウジャッカルは菊花賞の優先出走権を得た。ジャッカルはクラシックレースへの登録をしていなかった。陣営は急遽クラシックの追加登録を行い、菊花賞に臨んだのである。
淀の競馬場、第75回菊花賞(GⅠ)、3000メートル、18頭立て。前日オッズに異変が起きていた。出走馬中で獲得賞金が一番少ないトーホウジャッカルが、一時的とはいえ1番人気に推されたのである。異変である。当日はそれでも3番人気に推されていた。こうなれば、もう穴馬ではない。
なぜジャッカルは人気になったのか。よく言われる菊花賞のセオリーは一に、「夏の上がり馬」を狙え。一に、長距離血統、晩成型血統を狙え。サンデーサイレンス系は万能型が多く、スペシャルウィークもそういう馬である。強いて言えばサンデー系種牡馬の中で、フジキセキはマイラー色が濃く、スペシャルウィークは長距離色が濃い。しかしジャッカルの母の父アンブライドルズソングはマイラー型なのである。毛色を思い出そう。ジャッカルの栗毛は、セントクレスピン、オリオール、ハイペリオンの遺伝が色濃い。これらは極めつけの長距離血統、あるいは晩成型の重厚な血なのだ。
リアリストは思う。神戸新聞杯の直線、大きな不利がありながら、差の無い3着に突っ込んだ脚色、勝負根性、そしてこれまでのレース記録で分かるコンスタントに出せる上がり34秒台のスピード。
ロマンチストは思う。東日本大震災の日に生まれた馬、生死をさ迷う大病を患った「遅れてきた青年」という物語、そして美しい「尾花栗毛」のこの馬に勝たせたい、とても綺麗…。
さてレースである。内枠を利したジャッカルは終始5番手という好位置に付け、落ち着いていた。京都の4コーナーから直線に入るとき、内にいる馬が有利だ。ジャッカルは前を塞がれることなく早めに進出した。人気のワンアンドオンリーは伸びなかった。ジャッカルは直線、もう一頭の人気馬トゥザワールドを力でねじ伏せた。3分1秒0、3000メートルのコースレコード、いや驚異的な日本レコードだった。そしてデビューから149日の菊花賞制覇は最短の記録となった。遅れてきた青年が勝ったのだ。
谷潔調教師は開業20年で初のGⅠ制覇、菊花賞制覇であり、酒井学騎手も初の菊花賞制覇となった。今年九十二歳となった谷八郎は、このレースをどこで見ていたのだろうか。彼がヒカルイマイの故障で達成できなかった菊花賞を、息子の潔が成し遂げたのだ。