先に引退して種牡馬になったオルフェーヴルの馬名について、ウィキペディアでは、フランス語で「金細工師」の意と解説している(馬主がそう言ったのかも知れない)。このウィキペディアの解説はいささか直訳的に過ぎるのではないか。普通なら、いや、ミステリー好きなら、パリ警視庁と解釈するのが妥当ではないか。
セーヌ川中洲のシテ島、オルフェーヴル河岸36番地には、泣く子も黙る国家警察、パリ警視庁がある。その別称は「オルフェーヴル河岸36番地」略して「オルフェーヴル」である。
金細工師では、どこか重厚で鋭い洞察力、緊迫感や凄味、ミステリアスなイメージに欠け、締まりがない。私が金細工師と聞いてすぐイメージするのは、モロッコのタンジールのカスバか、マラケシュのスーク周辺の、うろんな、胡散臭い職人兼売り子たちである。
ジョルジュ・シムノンは河と運河の情景や匂いを好んだ作家である。彼が創り出したジュール・メグレ警視は、このシテ島の「オルフェーヴル河岸36番地」に勤務する。
もしシムノンが東京に詳しく、刑事ものの推理小説を書くとすれば、隅田川河畔や、隅田川と繋がった幾本もの堀や川筋を舞台にしたかも知れない。「三文酒場」もたくさんある。とすれば主人公は、「本庁」ではなく墨田署所属の、いわゆる「所轄」の警視であろうか。
隅田川をセーヌ川に見立てるのは別に新しくない。かつて北原白秋や木下杢太郎、吉井勇、山本鼎らが、パリの若い芸術家たちがセーヌ河畔のカフェで芸術論を闘わせていたのに憧れて、日本版「パンの会」(パンは牧神、享楽の神)を結成し、隅田川河畔の料亭や飲み屋で、暴飲暴食と、たわいもない「浪漫的、新芸術的、耽美的」乱痴気騒ぎを繰り返していた。
警視庁の別称を俗に「桜田門」という。むろん桜田門に所在するからである。
戦前、警視総監に丸山鶴吉という捌けた人がいて、「桜田門の大狸」と呼ばれていた。ちなみに彼は戦後、武蔵野美術学校の校長に就任している。現在の武蔵野美術大学である。彼については以前、「北明漫画」という一文で触れたことがある。
パリ警視庁「オルフェーヴル」という馬がいるのだから、厳めしい「サクラダモン」という馬もいるのではないか。
…いた。しかも何故か牝馬である。私はこの馬のことを全く知らない。馬主はターフ・スポートというクラブ法人だが、牝馬に厳めしい馬名を付けた理由はわからない。血統や競走成績などのデータを眺めて、どういう馬だったのかを想像した。
サクラダモンは父ボストンハーバー、母トウヨウロイヤルで、2004年生まれである。脚部不安からの仕上がり遅れか、2007年に中央競馬の中京競馬場からデビューし、芝とダートで6戦して未勝利。2着が最高で、他は良いところなく敗れている。その後、公営の園田競馬場に移籍し、4戦して3勝。勝ったレースは全て先行逃げ切りか先行抜け出しで、負けたレースは中団から伸びずに後退して敗れている。再び中央競馬に移籍したが、芝、ダートで5戦して全て大惨敗を喫し、引退している。
つまりサクラダモンは園田競馬場のような小回りのダートコース、短距離には対応できたが、中央競馬の芝の高速馬場や、ダートでも園田より直線の長い中央のコースには対応できなかったのだ。
父のボストンハーバーはアメリカではGⅠ重賞勝ち馬一頭を出したが、日本では中央の重賞GⅢを勝ったダイワバンディット、イクスキューズくらいで、あまり強い馬を輩出していない。この血統を遡れば、シアトルスルー系、ボールドルーラー系で、一本調子の不器用なレースぶりと早熟を特徴とし、しかも典型的な短距離型である。データを見ると、サクラダモンもそういう馬だったと思われる。…競馬のメグレ警視はそう推理(妄想)した。
競馬の楽しみは、空想(妄想)の楽しみでもある。ちなみに、繁殖に上がったサクラダモンの産駒に、まだ勝ち馬は出ていない。いつかその血に逆らうような、自在で器用な脚質と、晩成型で、底力もあり、長距離もこなす、凄味のある、オルフェーヴルのような怪物を産んでくれ。