奇跡の復活(2)

長浜牧場はこれまで生産馬が重賞を勝ったこともない、家族経営の小さな牧場である。
1988年にトウカイナチュラルから誕生した牡駒は、あまりルドルフに似ていなかった。ひょろひょろと脚が長く何とも華奢に見えた。しかし肌は薄く天鵞絨のように艶やかで、額から鼻の流星も美しく利口そうで、どこか気品が漂っていた。仔馬は父の愛称「皇帝ルドルフ」に因み「帝王」と呼ばれ、そのままトウカイテイオーとして登録された。
やがて二風谷軽種馬共同センターで調教される頃、彼は注目を集めるようになった。驚くほどの柔軟性と勝負根性が際立ち、調教のため騎乗すると初めて体験する乗り心地だったらしい。クラシックを狙える馬だと誰もが思った。繫が非常に柔らかく、球節が地面につきそうだったという。これは諸刃の剣で、テイオーのバネともなろうが、あるいは故障の原因になるかも知れなかった。

テイオーは松元省一厩舎に入った。厩舎の馬のレースによく騎乗し、調教もつけていた安田隆行騎手が、テイオーの調教も手がけた。
安田は1972年に騎手デビューした。何度か大きな怪我に見舞われたこともあり、あまり騎乗数に恵まれず、まことに地道に小倉や中京などローカルで活躍する38歳のフリー騎手であった。
松元調教師は彼の腕と真面目な人柄を信頼し、安田に「レースでもテイオーに乗ってくれ」と伝えた。安田は目を輝かせ「よろしくお願いします」と頭を下げた。何しろこれほど柔らかな背に乗ったことがなかったからだ。この馬なら大きなところを勝てる。
1990年の12月、テイオーは新馬戦と特別レースを楽に連勝し、91年を迎えた。先ず強力メンバーが揃った若駒ステークスを楽勝し、東上した。初戦は皐月賞前哨戦となる中山の若葉ステークスである。スローペースに馬が引っ掛かったものの直線は楽だった。
テイオーは4戦全勝で第51回皐月賞を迎えた。18番の不利な大外枠なのに圧倒的な一番人気である。安田は馬群に揉まれず都合が良いと割り切った。しかも前日の雨でインの馬場は荒れており、どっちみち外を回った方がよい。スタートのよいテイオーである。無理なく外目の好位置につけた。4コーナーでテイオーの勝利を確信し、直線に入ると先頭に躍り出た。ゴールまで並びかける馬はいなかった。先ずは一冠である。
そして第58回ダービーである。前夜さすがに不安で安田の胸がざわついた。
パドックでのテイオーは泰然としており、その鞍上で安田の心も落ち着いた。この日もスタートは良く、いつものように好位置につけた。直線に向くとテイオーをマークしていた馬たちのほうが早めに仕掛けた。それを待ってから安田が仕掛けると、あっという間に先頭に躍り出た。まさにライバルたちとは物が違っていた。テイオーは父ルドルフのように無敗のままダービーを制した。誰もがこれで父と同様三冠も達成するものと思った。
しかし数日後、テイオーの左脚に骨折が認められ、全治6ヶ月と診断された。
これで三冠馬となる夢は断たれた。

テイオーは古馬となり、傷癒えて戻って来た。松元師は春の天皇賞の前に大阪杯を使うことにした。安田は自ら降板を申し入れた。責任を感じていたのである。安田は調教師試験を頑張りたいと言った。
彼の替わりに岡部幸雄が騎乗することになった。テイオーの父シンボリルドルフに騎乗していた岡部である。岡部は言った。「ルドルフそっくり、凄い乗り味だ」
大阪杯は、骨折の休み明け十ヶ月ぶりというのに圧倒的な一番人気である。スローペースにも引っ掛からず、三番手の好位置につけたまま、直線に向くと何と馬なりで先頭に躍り出、他馬を全く寄せつけない楽勝ぶりであった。
天皇賞もテイオーが一番人気となった。最大の対抗馬は若き武豊騎乗のメジロマックィーンである。
メジロパーマーが逃げ、マックィーンは5、6番手の好位置、テイオーは外目の中団にいた。3コーナーを過ぎると武マックィーンは早過ぎる仕掛けをした。瞬発力ではテイオーに敵わないがスタミナなら上。早めに前に出て、あとは持久力で勝ち残る作戦だ。4コーナーで岡部テイオーが動いた。パーマーをかわすと、誰の目にもマックィーンとテイオーの一騎打ちかと思われた。直線マックィーンは力強くゴールに驀進した。テイオーは意外に伸びぬどころか、左右から他馬に抜かれて5着に沈んだ。
…こんな負け方は予想外だった。距離の壁なのか(※1)、あるいは翌日に判明した左脚の剥離骨折のせいなのか。
(※1)父シンボリルドルフは本質的にステイヤーである。母の父は天皇賞(春)と宝塚記念、有馬記念(二回)勝ったスピードシンボリで、テイオーの母の父ナイスダンサーも12ハロン(2400メートル)をこなしており、距離の壁が敗因ではあるまい。パーソロン(本質的にマイラー)系は母系によりステイヤーが出る。メジロマックィーンもパーソロン系の典型的ステイヤーである。

幸い怪我は軽く、陣営は直接秋の天皇賞に出陣することにした。二千の距離ならテイオーの最適距離だろう。しかも有力馬が故障で次々と離脱した。当然一番人気である。一時熱発による調整の狂いも伝えられたが、当日は馬体の張りも素晴らしく、調子が良さそうだった。…ところが、勝ったのは穴馬レッツゴーターキンで、テイオーはなすところなく7着に沈んだ。熱発の影響なのか。…私には、彼から走る意欲、闘争心が消えていたように思えた(※2)。
(※2)馬体が良く見えても、馬には闘争心が消えることがままある。オグリキャップにもそんな時期があり、最近のゴールドシップからも闘争心が消えている。

第12回ジャパンカップは、英ダービー馬ドクターデヴァイス、欧州年度代表馬ユーザーフレンドリー、全豪年度代表馬レッツイロープ、豪ダービー馬ナチュラリズム等、海外からかなりな有力馬がやってきた。日本の有力馬ミホノブルボンが脚部不安で回避し、テイオーの天皇賞の惨敗ぶりを見れば、また外国勢が勝つだろうと予想された。テイオーは屈辱の5番人気に甘んじた。直線、内からナチュラリズムが力強く抜け出した。すると外からやって来たのはテイオーであった。二頭は並んだまま叩き合い、ゴールまで壮絶な一騎打ちを演じた。首差ながら勝ったのはテイオーだった。珍しく岡部がガッツポーズをした。スタンドは感動にどよめき続けた。日本馬のJC優勝は父シンボリルドルフ(騎手岡部)以来、七年ぶりのことであった。
陣営の次の目標は暮れの有馬記念に向かった。ところがその一週前、岡部が進路妨害で騎乗停止処分を受けてしまった。岡部に替わる騎手として選ばれたのが、その日空いていた田原成貴騎手であった。実は田原はエリザベス女王杯でお手馬のサンエイサンキューの調子やローテーションをめぐって、どうしても出走させたい馬主や、調教師、果ては競馬記者たちと激しくやり合った。彼はサンエイサンキューが疲れている、休ませるべきだと主張したのだ。そのため田原は有馬記念に出走するこの牝馬から降ろされたのである。
第37回有馬記念、テイオーは一番人気に返り咲いた。彼はパドックでも、本馬場での返し馬でも、絶好調に見えた。
予想通りメジロパーマーが逃げ、テイオーの位置取りは珍しく後方である。道中いつものテイオーではないと、この馬をマークしていたライスシャワーの的場や、ヒシマサルの武など、他の騎手たちが気づいた。彼等はパーマーを追って先に動いた。テイオーはいつものように動けないままなのであった。メジロパーマーが見事な逃げ切り勝ちを演じ、テイオーは馬群に沈み11着の惨敗である。ちなみにサンエイサンキューはこのレース中に故障を発生、競走を中止し、闘病空しく亡くなっている。「馬主なんか素人や」…田原の主張が正しかったのである。
さてテイオー惨敗の理由は何か。スタート直後にトモを滑らせた? レース前の寄生虫駆除の投薬?…。私にはやはり闘争心が消えていたとしか思えない。

引退か、現役続行か、松元師は現役続行を選んだ。テイオーはどこか虚弱な体質である。またガラスの脚である。一度温暖な海の近くで調整させようと、鹿児島の牧場に放牧された。海岸で調教し、海水で脚を冷やした。
春に帰厩し、6月の宝塚記念を目標に調整を開始したが、そのレースの一週前、彼は再び左前脚を骨折し、今度は二風谷に放牧された。
一年ぶりのレースとなるが、暮れの有馬記念を目指して帰厩し、調整に入った。藤田伸二騎手によれば、帰厩したテイオーは全くオーラがなく、ガレて(痩せて)いたという。
このレースのライバルは、岡部騎乗で菊花賞を圧勝したビワハヤヒデ、ダービー馬ウイニングチケット、桜花賞とオークスを圧勝したベガ、JCを勝ったレガシーワールドと強力であった。岡部は活きの良いビワハヤヒデと、骨折で一年の休養明けのテイオーを比較し、迷わずビワハヤヒデを選択したのだ。
レースの一週前、テイオーの調教を終えた田原が藤田にこう言ったらしい。「こんなもんアカンぞ、一年ぶりだし勝つわけがないだろ」…しかし目つきが違う、内心は自信満々なのだと藤田は見た。「田原さんは策士」なのである。
第38回有馬記念の一番人気はビワハヤヒデであった。テイオーは多分に心情馬券が含まれた四番人気である。やはりメジロパーマーが逃げた。テイオーはゲート出もよく、好調時のように好位置につけた。芦毛の馬体ビワハヤヒデが早めに上がっていき、直線に向くと先頭に踊り出た。道中掛かったウイニングチケットや、その日のレガシーワールドはいつもの伸びを欠く。やはりビワハヤヒデかと思われたとき、外からもの凄い勢いで飛んできたのがトウカイテイオーであった。二頭の激しい一騎打ち、追い競べである。田原が何か叫びながら鞭を振るった。もう少しでゴール板だ。わずかにテイオーが前に出たかに見える。そしてさらにグイと半馬身出てゴールを過ぎた。
テイオーが勝った! トウカイテイオーが復活した! 奇跡の復活だ!
レース後、田原はウィナーズサークルで泣いた。…「久々の苦しいレースなのに、よく頑張ってくれた…本当に頭が下がる思いです」
藤田伸二騎手は田原を「策士、アーティスト、エンターテイナー」と評している。「あれはウソ泣きだ」と藤田は言う。後で「どやった? ファン酔うてたやろ。感動するやろ、あのほうが」と田原は言ったらしい。
アーティスト田原はテイオーの鞍上で脚に負担を感じさせない心地よい手綱さばき心がけ、エンターテイナー田原は競馬ファンを楽しませること、感動に酔わせることを心がけたのだ。
藤田は言う。「ああいう人のことを生粋のプロというのだと思う。まさに天才。なりたくて努力でなれるもんじゃない」

翌年もテイオーは現役続行し、先ず大阪杯を選んだが、右トモを痛めて回避。宝塚記念を目標にするも、また四度目の骨折をした。やはりガラスの脚だったのである。次に秋の天皇賞に目標を切りかえたが再び脚部不安に見舞われ、ついに引退が発表された。正直多くのファンはほっとしたのである。
内村正則はトウカイテイオーを「情の生んだ馬」と言った。トウカイテイオーは、ヒサトモから六代目、トウカイローマンと共にその消滅しかかった血を奇跡的に復活させ、また自らも、奇跡の復活劇を演じたのである。
まことに惜しむらくは、シンボリルドルフ、トウカイテイオーの父系が途絶えたこと、そしてヒサトモの母系の血が再び低迷していることだ。また彼等の奇跡の復活劇を見たいものである。競馬は大河ドラマなのだから…。