「この人この一曲」という歌い手がいる。私は一節太郎の「浪曲子守歌」(作詞作曲・越純平)が大好きだが、まさに「この人この一曲」の代表例であろう。私は若い頃三年ほど「飯場暮らし」をしていたが、よく「飯場がらすよ うわさは云うなよ」と口ずさんでいたものだ。
インターネットで一節太郎の「焼きそば人生」という歌を聴いた。もうセリフも含めてこんな笑える歌はない。私は彼の醸し出す雰囲気が大好きなのである。池波正太郎の「鬼平犯科帳」や「剣客商売」、藤沢周平や山本一力らの時代小説や、刑事ものミステリーなどを読むたびに、一節太郎の顔が浮かぶのである。
…老盗賊、貧しい浪人老剣客、寡黙で頑固一徹な居職の老職人、あるいは刑事退職後も逮捕できなかった犯人を追い続ける老人…。私がそのような映画やドラマのプロデューサーなら、彼をいろいろ起用しただろう。斬られ役ひとすじ「太秦ライムライト」の福本清三もいいが、一節太郎の細く鋭い眼光や、苦労人らしい面魂がいい。かつての花沢徳衛のようだ。
さて、競馬にも「この人この一頭」がある。白石一典騎手とヌアージターフ、高橋司騎手とホワイトフォンテン、山田泰誠騎手とメジロパーマー…。いずれも地味な騎手だったが、その素晴らしいパートナーを得て、共に魅力的に輝いた。ここに田島日出雄騎手とタニノチカラも入れたい。田島日出雄は引退までに400勝を挙げた騎手だが、どうしてもタニノチカラの鞍上にいた印象が強烈なのだ。
タニノチカラ(父ブランブルー)は遅れてきた青年と呼ばれた。故障で長い療養生活を送り、古馬となって再デビューしたような馬だった。半兄は皐月賞、ダービーを勝ったタニノムーティエである。つまり母タニノチェリ(父ティエポロ)は名牝なのである。
タニノチカラの世代は史上最強世代と評された。その中でも、この遅れてきた青年の強さは別格だった。かつて野平祐二は、この馬を史上最強馬に挙げた。 首を低く下げたランニングフォームは独特で、鞍上の田島(日)騎手は、ゴールまで終始強い風圧を受け続けたに違いない。
首の低いタニノチカラとは正反対に、馬群の中で一頭だけ首を上げ、空を見上げながら走っていたのがヌアージターフという馬だった。潜在的な素質は素晴らしいと思われた、しかしその父は、気性の悪さで有名だったガーサントである。
ヌアージターフを見るたびに、相撲の陸奥嵐とイメージが重なった。陸奥嵐は小さな身体ながら、柔らかく、怪力で、大きな相撲をとった。彼の相撲は、立ち会いから顔が天井を向いていた。「東北の暴れん坊」と呼ばれたほどの、実に個性的な力士だった。大きな力士を強引に吊り出し、無理な体勢から豪快に投げ飛ばした。
ヌアージターフは生涯33戦し、たった4勝しか挙げなかった。そのうちの1勝はセントライト記念のレコード勝ちである。しかしどのレースも空を見上げながら、滅茶苦茶な走り方をしつつ、鮮烈だった。その鞍上にいつも地味な白石騎手がいた。白石と言えばヌアージターフ、ヌアージターフと言えば白石なのだ。暴れん坊ヌアージターフの背で、白石騎手は輝いて見えた。
ホワイトフォンテンは無事之名馬のような馬で、生涯50戦したが、そのほとんどを逃げ続けた。そのため「白い逃亡者」と呼ばれた。デビューから東信二、郷原洋行、坂本恒三、蛯沢誠治、柴田政人と乗り替わったが、六歳時(現馬齢五歳)から高橋司騎手が騎乗するようになり、日本経済賞を勝って重賞を初制覇した。
やがてホワイトフォンテンの引退まで、その鞍上で高橋司が手綱をとり、逃げて逃げて逃げ続けて、毎日王冠、アメリカJCC、再びの日本経済賞を制した。生涯11勝、4重賞勝ちである。
そのレースぶりと白い馬体は印象的で、個性的であった。その背には多くの騎手が乗ったのだが、ファンの脳裏に焼き付いた印象は、ホワイトフォンテンと言えば高橋司、高橋司と言えばホワイトフォンテンなのである。
メジロパーマーは、メジロサンマン、メジロイーグルと続く内国産三代目である。母はメジロファンタジーといった。メジロ牧場の同期には、期待のメジロライアン、そこそこ期待されていたメジロマックィーンがいた。パーマーはさほど期待されていなかった。
彼の脚質は、父メジロイーグルと同様、典型的な逃げ馬である。三歳(現馬齢二歳)時に2勝したが、逃げ脚質と故障もあってその後低迷した。古馬となって、松永幹夫騎手で無謀にも春の天皇賞に挑戦させたが惨敗した。しかしその初夏、札幌記念を勝った。その後再び低迷すると、大久保正陽調教師はパーマーを障害競走に降ろした。大久保師は思い切ったことをする調教師なのである。しかしパーマーのストライドとスピード、綺麗なフォームが飛越に向かないと判断するや、平地競走に戻して、再び天皇賞に挑戦させたのである。このレースから無名で若くて実績のない山田泰誠騎手が騎乗している。
この山田泰誠とのコンビは、7番人気で新潟大賞典を制し、勢いに乗って9番人気の宝塚記念を制してしまった。誰もがフロックだと思った。暮れの有馬記念は16頭立ての15番人気に過ぎなかったが、これも鮮やかに逃げ切り、多くの競馬ファンを呆然とさせた。翌年の最初のレースは阪神大賞典だったが、これもレコードで逃げ切り勝ちした。
その名の由来であるプロゴルファーのアーノルド・パーマーのように、大きく飛ばし、母の名のように、鮮やかなファンタジーを演出したのである。しかしパーマーと山田泰誠の奇跡のファンタジーはそこまでで、その後低迷し、日経新春杯2着を最後に引退した。平地競走8勝のうち、重賞は5勝、実に堂々たるものである。メジロパーマーと言えば山田泰誠、山田泰誠と言えばメジロパーマーなのである。
また個性的な馬の背で、全く無名の地味な騎手が、きらきらと輝くレースを見たいものである。若い実績のない騎手が手綱をとって、癖馬を個性的に輝かせるレースを見たいものである。