ディック・フランシスの小説の邦訳は、漢字二文字のものばかりだ。おそらく、訳者の菊池光と早川書房の間で、全て漢字二文字の題名にしようと取り決めたのだろう。
彼の本を初めて読んだのは今から30年以上も前のことである。競馬好きの私は「本命」という題名に惹かれて手に取った。
ディック・フランシスはイギリス競馬のチャンピオン・ジョッキーだったと言うことだったが、それは障害レースのチャンピオンなのであった。エリザベス女王の馬にも騎乗していたが、それは障害レースの馬なのであった。日本では障害レースは格が低いものという印象が強い。私も当初「なあんだ、障害レースのチャンピオンか」と少々馬鹿にしてしまった。日本では、障害レースは未勝利馬救済レースのような趣があったのである。しかしイギリスでは違う。
障害レースの最高峰グランド・ナショナルのチャンピオンホースはダービー馬に匹敵するのだ。そして障害レースに優れた血統も重んじられている。
ディック・フランシスの作品は、競馬の専門用語を散りばめ、イギリスの競馬界を舞台にしたサスペンス小説である。彼は多作の作家だ。これまでに何冊が訳されているだろう。「興奮」「大穴」「査問」「血統」「転倒」「重賞」…私は七、八冊は読んだであろうか。たしか「飛越」「混戦」というのもあった。
さて凱旋門賞のディープインパクトの尿から薬物が検出されたという。フランシス流なら、さしずめ題名は「失格」か「陰謀」「謀略」だろう。あるいは主人公の馬の名から「衝撃」としておこう。
極東の「血統の墓場」からチャンピオンホースがやって来る。さてお手並み拝見だ。フランス人をはじめ、欧州の競馬関係者はそう思ったはずである。シャンティでディープインパクトの調教を見た者は、そのランニングフォームに「衝撃」を受けたはずだ。そして新しい環境に馴れ、調教が進むにつれ、誰の目にもディー プインパクトの凱旋門賞優勝は間違いないと思われたはずだ。
ディープインパクトの走るフォームには大きな特徴がある。横から見ると背中のラインと地面が常に平行なのである。背が上下しない。これを他馬と比較して欲しい。 上下するのが普通である。その上下の動きを吸収するのは、騎手の膝と踝の柔らかさなのである。馬の背が激しく上下しても、優れた騎手の背は常に一定で、上下に動かないものなのである。出前のバネ付き岡持をイメージしてもらえばよい。普通の馬は後脚で大地を蹴り、斜め上に跳ぶように前進する。ディープインパクトは後脚の蹴りでほとんど上に跳ばずに前に跳ぶ。凄まじい推進力となって前に出るのだ。よほど柔らかな踝と筋肉なのだろう。このような推進力と柔らかさを持った馬は、過去にも類例がないのではないか。
ディーブインパクトに付き添っている日本の関係者は、あまり言葉が分からない。通訳を入れても、彼もしくは彼女に競馬や獣医の知識がないと、上手く通訳できないことが多かろう。必要なのは専門用語なのだ。ここが「陰謀」の付け目だったのではないか。極東の「血統の墓場」からやってきた馬を勝たせるわけにはいかない。でもあの馬なら勝たれるだろう。しかし、勝っても薬物が検出されて「失格」に追い込めばよいのだ。凱旋門賞を勝つと勝たないとでは、引退後の種牡馬としての価値が全く違う。それも二年連覇ともなれば…あっ、犯人陣営がばれるようなことを書いてしまったか。私はどうもサスペンス小説は無理なようだ。ちなみに二年連覇が可能だったのはハリケーンランであった。
ちなみにディープインパクトは、あの礼儀も口の利き方も知らぬ「チンピオン」の亀田某とは違う。先代の金平会長なら「チンピオン」を勝たせるためには薬物も使いそうだが(先代会長は過去に相手陣営に薬物入りのジュースや果物を贈っている)、池江調教師も武騎手もインタビューを見れば分かる通り、常に謙虚で物静かで、どこか知的な紳士である。ディープインパクトも実に礼儀正しい爽やかな馬である…と見える。
今回の題名は「陰謀」か、やはり「衝撃」だろうか。
(この一文は2006年10月20日に書かれたものです。)