競馬は時に劇的である。喜劇は常に多くの競馬ファンによって演じられ、悲劇はいつも馬に降りかかる。馬の悲劇は見るものの胸をつまらせ、時に涙が止まらない。
私はその馬のレースを見ていない。その時のレース映像はどこかにあるのだろうが、まだ見る機会を得ていない。だがその馬の生涯最高のレース「東京優駿(ダービー)」は、東京競馬場のミュージアムで見ることが出来る。
馬の名をキーストンという。古い競馬ファンたちは一様に言う。今まで一番泣けたのは、キーストン最後のレースだと。彼らは四十年以上前の、その時の様子を話しながら、うっすらと目を潤ませる。
キーストンの父は、ソロナウェーという日本に最初に入ったアイルランドの一流馬である。9戦6勝、アイルランド2000ギニーの優勝馬だ。血統的にはスピード系のマイラーで、早熟型である。イギリスのオークス馬や2000ギニー馬を輩出して日本に来た。母のリトルリッジもアイルランドから来た。リトルリッジの父はミゴリという長距離血統の馬で、その父は底力血統の長距離馬ボアルセルである。
日本でもソロナウェーは期待に背かぬ良い産駒を出した。キーストンとテイトオーの二頭のダービー馬と、ベロナ、ヤマピットの二頭のオークス馬であり、ハツユキは桜花賞馬となった。
キーストンの馬主は伊藤由五郎といい、大の鉄道ファンで知られた。彼は持ち馬に特急の名前をつけた。二冠馬コダマ、皐月賞馬シンツバメ、アサカゼ、ヒカリ等である。無論キーストンは、アメリカのペンシルヴァニア鉄道の超特急キーストンから名付けられたものである。
キーストンは関西の松田由太郎厩舎に預けられた。彼に騎乗したのは山本正司騎手である。山本は武田文吾厩舎からデビューしたが、兄弟子に天才騎手の栗田勝がいて、山本より一年デビューが早い松本善登騎手も騎乗機会が少なかった。山本は不満を抱き、五年目に高橋直厩舎に移籍した。その時、武田師はすこしも咎めなかったそうである。後に山本は移籍を後悔したという。もっと武田門下で、下積みとして学ぶことがたくさんあった筈だったと…。
キーストンは栗毛に近い明るい鹿毛の馬だった。そして男馬にしては430キロ台と小さかった。SF作家の石川喬司は「半ズボンの似合う少年のようだ」と書き、多くのファンがその形容に同意した。どこか幼さが残る、どこか頼りなげな、どこか初々しい馬…。
キーストンの背で山本は胸が弾んだ。何という素軽さだろう、何という柔らかさだろう、そして何というスピードだろう。まるで雲に乗っているようだ。そして何と重馬場が上手な馬なのだろう。
デビューから無傷の六連勝。うちレコード勝ちが三回。ハナから先頭を切って、ゴールまで他馬を寄せつけず逃げ切るのである。おそらく逃げようとして先頭に立ったのではなく、スタートからの絶対スピードの違いで先頭に立ったのである。しかも二着馬に十馬身差が二回、七馬身差が一回。
しかし…キーストンには不安があった。まず距離の壁である。そして世評では、栗田勝騎乗のダイコーターが一番強い。ダイコーターはシンザンと同じヒンドスタン(その父ボアルセル)の子である。底力のある長距離血統だ。どんなレース展開になっても関係なく、相手をねじ伏せるような横綱相撲の差し切り勝ちである。一度キー ストンに敗れているが、そもそも晩成型の血統なのである。スプリングSでキーストンは軽快に逃げたが、ゴール前であっさりとダイコーターにかわされて七連勝はならなかった。ダイコーターは強かった。がっしりとした大人の男なのである。少年のようなキーストンは、まさに子ども扱いにされた。
競馬はやってみないとわからない。最初のクラシックレース皐月賞で、二番人気のキーストンはいつものように逃走したが、十四着に沈んだ。一番人気のダイコーターも穴馬チトセオーに届かず二着となった。あの強いダイコーターが負けた。
… ダービーの前、大先輩の栗田勝が山本に声をかけた。 「おい正司…ええか、ダービーは2400メートルやで。お前はキーストンで逃げてばかりおるけど、ダービーはそうはいかへんよ。もし本番でお前が、ただ逃げの一手にでたら、俺がゴール前できっちり差し切ったるよ」
皐月賞馬チトセオーが故障し、キーストンは二番人気になった。この美しい少年のような馬を応援したい、というファンの判官贔屓と思われる。ダイコーターは圧倒的な一番人気である。山本の耳に自信満々の栗田の声が蘇った。しかしキーストンには逃げしかない。当日は昨夜来からの雨である。蹄の大きなダイコーターには苦手な馬場で、キーストンは重馬場巧者である。「勝てるかもしれない」と山本は思った。
キーストンの馬体も雨に黒く濡れていた。彼はハナから先頭に立ち、泥も被らず先頭のまま三コーナー、四コーナーを曲がり、最後の直線も先頭のままゴールをめがけて走り続けた。馬群を割って泥だらけのダイコーターが猛追してくる。しかしキーストンは、二馬身近い差を保ってダイコーターに勝った。
武田文吾師は「おめでとう正司、うまく乗ったな」と山本を誉めた。
秋の菊花賞は重馬場だったが、キーストンはダイコーターに差されて二着に敗れた。古馬となってからダイコーターは急に弱くなった。晩成型の血統なのに。…疲労が蓄積したか、おそらく精神的な理由で闘争心をなくしたのだろう。
キーストンも体調を崩したり、脚部不安も出た。誰もが引退を予想したが、六歳(現馬齢五歳)になったキーストンは競馬場に戻ってきた。復帰戦に二着した後、いずれも中距離のレースを飛ぶように逃げて四連勝した。五馬身差、八馬身差、五馬身差、七馬身差の圧勝である。
そして12月17日、阪神大賞典3000メートル、負担斤量59キロ、キーストンとの対戦を避ける馬が多く、わずか五頭立てである。無論、圧倒的な一番人気だ。
キーストンは当然のように先頭に立ち、軽快に逃げた。向こう正面では八馬身の差をつけた独走状態である。第四コーナーも後続馬を離したまま回った。…突然、キーストンが前のめりになると、山本正司はその首から放り出されたように前方に飛んだ。倒れた山本から7、8メートル前に出てキーストンは止まった。黄色く冬枯れて穴だらけの芝は硬く、頭から叩きつけられた山本は昏倒したまま全く動かなかった。キーストンは首を曲げて振り返り、そんな山本を見た。彼は山本のところに戻るように歩き出した。それは三本脚である。痛めた左前脚は皮一枚でつながり、ぶらぶらと揺れた。スタンドから悲鳴があがった。駄目だ、動いては駄目だ、じっとしていろ…。しかし キーストンは三本脚でそろそろと、倒れたままの山本の傍らにたどり着くと、彼の顔に鼻先を付けた。二度三度、鼻先を山本の耳に、顔に押しつけた。何度もそれを繰り返し、山本を起こそうとしているのである。「大丈夫? ねえ起きて」「ごめんね…ねえ、起きて」…キーストンが歴戦の盟友・山本を気遣っている。山本は朦朧とした意識のうちに、キーストンの鼻先と、彼の顔を心配そうに覗き込む 大きな黒い目を見た。「大丈夫? ごめんね」とキーストンの優しい目が言った。山本はゆっくりと両手を動かし、その鼻先と顔を撫でた。彼はキーストンの脚が折れてぶらぶらしているのに気づかなかった。「大丈夫だ、キーストン、ありがとう、大丈夫だ…」
厩務員や競馬会の職員たちが駆け寄って来る足を、山本は見た。山本は再び意識を失った。そのレースを実況していた関西テレビの松本暢章は、ふるえた涙声で放送を続けた。スタンドのファンは、みな泣きながらその様子を見まもった。馬運車で運び出されたキーストンは、直後に予後不良と診断され、苦しまぬよう薬殺処分された。
その夜、病院のベッドでキーストンの骨折と死を知らされた山本は、声を上げて泣き続けた。その後、山本正司はキーストンの話になると、人前も憚らず泣いて、涙が止まらなかったそうである。騎手を引退し、調教師となり、定年で調教師も引退した山本正司は、 今もキーストンの話になると、泣くそうである。そして、四十二年も経つのに、古い競馬ファンたちは、声を震わせて語り、涙ぐむのである。ああ、キーストン…。
(この一文は2009年4月18日に書かれたものです。)