デルタブルースの話しである。彼の父はダンスインザダークと言った。その父はかのサンデーサイレンス、母はダンシングキイである。つまり馬の話しで、ミシシッピの黒人ブルースを起源とする音楽の話しではない。
ダンスインザダークが菊花賞(3000メートル)を勝った時、私は胸を締めつけられる思いで、向こう正面まで流す彼を見ていた。武豊よ、何であそこまで彼を追ったのか…。脚は大丈夫だろうか、いや、おそらく彼の脚はもう駄目だろうと確信した。
ダンスインザダークは500キロを超える雄大な馬体でありながら、最後方から凄まじい追い込みを見せてゴール前で差し切り勝ちを演じた。彼以外の全ての馬が止まって見えた。上がり3ハロン33秒。いや32秒台かも知れなかった。淀のスタンドは凄いものを見た感動から、どよめくような歓喜の渦に沸いた。しかし私は、我々はもう二度とダンスインザダークの勇姿を見ることはないだろうと確信したのだ。私は周囲の人々に「あれは故障しているよ」と言った。しかし彼は脚を引きずることもなく、何事もなく優勝記念撮影に応じていた。
それから二日後、全てのスポーツ新聞に彼の名が大見出しで載った。「ダンスインザダーク故障、引退」「ダンスインザダーク再起不能」「ダンス重症の屈腱炎、引退決定」「ダンス重症、競走生命断たれる」…。
デルタブルースの母はディクシースプラッシュという。その父はデキシーランドバンドである。デキシーランドバンドの父は名馬ノーザンダンサーであるが、母はミシシッピマッドといった。つまり「ミシシッピの泥」である。ミシシッピの泥の父はデルタジャッジという。つまり三角州の判事(ミシシッピ州判事のことであろう)である。そして母の名はサンドバギー(砂上用のバギー車)という。私はこのように、代々引き継がれるユーモアとペーソス溢れる馬名が大好きだ。
ある静まりかえった日曜日の夕、薄暗くなった室内でひとり踊る大柄な黒人男がいた。仕事帰りの男の靴は泥だらけだ。伴奏のホンキートンクピアノは、マイナーキイで気怠いブルースを奏でている。ここはミシシッピのデルタ地帯、場末の、客も疎らなダンスホールであった。…
デルタブルースは福島で初勝利を挙げるまで6戦を要した。凡庸な馬のようだった。父のように500キロを超える大型馬である。しかし父のような凄まじい瞬発力は持っていなかった。3歳秋に本格化し、人気薄で父と同じ菊花賞を勝った。鞍上は兵庫公営競馬に所属する騎手・岩田康誠である。中央の競馬界に進む規制緩和と交流が、デルタブルースへの騎乗を可能とした。デルタブルースは父と同様にスタミナに優れていた。レース中に引っ掛からず(騎手と喧嘩せず)、穏やかな気性と強い精神力を持っていたのだ。これは典型的な長距離特性を持った馬である。
デルタブルースは、器用さに欠け、俊敏さに欠け、いつも人の良さそうな笑顔で、穏やかで木訥で…。いつも、抜け目のない競争相手に出し抜かれ、とろい奴だと馬鹿にされ…。しかし実に粘り強い、忍耐強い男なのだった。
彼が菊花賞を勝ったとき鞍上にいた岩田康誠は、一年半後に中央(JRA)に移籍を果たした。この男は粘り強い先行にも追う技術にも長けた、凄まじいまでの職人騎手であった。地方の小さな競馬場で、歓声を浴びることもなく、毎日たんたんとダートコースのレースに乗り続け、いぶし銀のような技術を身につけて勝ち続けた岩田と、地味で、どこか木訥で器用さのないデルタブルースは、確かに相性が良かったのである。
長距離レースは、穏やかな気性と強い精神力や忍耐力を持った者が勝つのである。そして騎手の技量がものを言う。彼等はオーストラリア最大のレース、メルボルンカップ3200メートルに挑み、その大レースを圧勝した。菊花賞馬は強いのだ。
不器用な奴だと、とろい奴だと、のろまな奴だと、おいらを馬鹿にしちゃあいけねえや。おいらはその分、誰よりも我慢づよいんだ。死んだ曾婆ちゃんは、おいらのそんなとこを褒めてくれたっけ…。いつも地味な岩田康誠は拳を握って小さなガッツポーズを取ると、おいらの太い首筋を何度も何度も軽く叩いて褒めてくれたっけ…。メルボルンの競馬ファンたちはおいらがあけた大穴に、あっけに取られ、それから万雷の拍手で褒めてくれたっけ…。
デルタブルースはのんびりと歌っていた。
(この一文は2007年4月27日に書かれたものです。)