気まぐれジョージ

「実存は本質に先行する」と言ったのはサルトルだったか。
エリモジョージという馬がいた。エリモジョージに則して言えば、どう走れば勝てるのかという彼の脚質の本質以前に、天才馬という彼の実存があったのだ。そのエリモジョージの本質を引き出したのは福永洋一である。
世に天才騎手と云われた人は福永以外にも数人いる。シンザンの主戦騎手だった栗田勝。彼が騎乗したシンザンもおそらく天才馬であったろう。
現在の競馬ファンの多くは武豊を天才騎手と呼ぶ。しかし私は武豊に天才を感じない。無論、彼は実に素晴らしい騎手で、極めて達者で理知的なレース運びをする。岡部幸雄もそうであった。武豊は常に同一レースで複数の騎乗依頼があり、その中から最も勝つ可能性のある馬を選んで騎乗してきた。洋一も数多くの騎乗依頼があったが、彼は常に所属厩舎やお世話になった調教師や馬主の馬の順で騎乗馬を選んでいた。福永は義理と人情の男だったのだ。当然、勝つ可能性の少ない馬も多かったのだが、そんな人気薄の馬に騎乗してもアッと言わせたのが洋一であった。
私は調教師となった後に覚醒剤所持で競馬界を追放された田原成貴を天才として挙げたい。おそらく栗田も福永も騎手として天才なのだが、田原の場合は天才が騎手を職業としたのである。彼は小説や漫画の原作も書き、その発言は非常にクレバーでスッ飛んでいた。またその騎乗ぶりも常人のものではなかった。騎乗者として馬の能力や状態を把握すると、それとは異なる調教師の指示や馬主の意向には平然と反対した。ために数々の軋轢を生み、生意気だと批判され干されもした。騎手という職業は調教師や馬主に依頼されて成り立つ商売なのだが、田原は決して自分の考えを曲げなかった。彼の騎乗は変幻自在かに見えたのだが、その生き様はいかにも不器用だったのである。

さてエリモジョージである。彼の父は底力のあるセントクレスピン、母の父は晩成型ステイヤーのワラビーである。しかし二戦目の距離の短い新馬戦を勝ち上がり、重賞レースにも参戦した。この頃の騎乗者は大久保光康や松田幸春であった。戦法は差し、追い込み、先行と定まっていない。
やがてシンザン記念で福永洋一を鞍上に、先行し初の重賞勝ちをした。クラシック戦線は皐月賞3着と才能の片鱗を見せたが、ダービーは惨敗した。その夏、札幌記念に松田騎手と臨み、これも惨敗した。
彼はエリモ牧場で休養に入ったが、その厩舎が火事となり多数の馬が死んだ。奇跡的に生き延びた四頭の中にエリモジョージがいた。彼は炎から逃げ切ったのである。しかし暫くこの火災ショックから立ち直れず、やっと翌年の一月に池添兼雄騎手を背に競馬場に戻ってきた。彼等は逃げ先行戦法を試したが勝つまでには至らなかった。
そして四月の末、福永洋一を背に天皇賞に挑戦した。
「春まだ遠い襟裳岬に春を呼ぶかエリモジョージ」…関西テレビの杉本清がエリモジョージの本場馬入場を名調子でアナウンスした。エリモジョージの人気は全くなかった。馬場コンディション不良の中、彼等はスタート直後から先頭に立ち、スイスイと逃げた。そして強豪人気馬を後目に逃げ切った。人々は「展開のあや」「まぐれ」と言った。たしかにその後、池添騎手とのコンビで臨んだ宝塚記念を惨敗した。

夏再び福永を背に、函館記念を60キロという斤量を背負い、一人旅の大逃げを打って7馬身の大差で日本レコード勝ちをした。秋の京都記念では61キロもの斤量を背負い、逃げて逃げて、これも8馬身差をつけての日本レコード勝ち。
エリモジョージは440キロ台で、牡馬としては小柄で細身の馬なのだ。その背に60キロを超す斤量はいかにも苛酷である。しかしエリモジョージには斤量も距離も無関係なのだ。「今日は気分が良いかどうか」だけなのである。見た目に楽な一人旅の大逃げを打てても、気分が乗らない日は直線で失速し惨敗した。人々は「気まぐれジョージ」と呼んだ。やがて一年以上に及ぶ低迷を続ける。
この間、彼は常に人気を背負っていた。古いファンたちは「まるでカブトシローのようだ」と微笑んだ。そして誰もが馬券を離れて「気まぐれジョージ」を応援し続けていた。
そして再び春が来た。春の京都記念に60キロを背負い、一人旅の大逃げで4馬身差の圧勝。続く鳴尾記念は62キロを背負い、再び大逃げを打ち、そのまま大差のぶっち切り勝ち。勢いは止まらず、宝塚記念も大逃亡劇を演じて、4馬身差の圧勝劇。…
「さあ行った行った、エリモジョージの一人旅だ。誰もついていけない、誰も追いつけない。今日は気分良く走っているのか。馬は天才エリモジョージ、鞍上はこれまた天才福永洋一だ。…」
この劇的な三連勝の後、エリモジョージは再び走る気をなくした。一年間出れば惨敗し続けて引退した。…京都競馬場でエリモジョージの引退式が行われた。すでに福永洋一は事故でターフを去り、彼の鞍上にいない。エリモジョージは首を低く下げ、ゆったりと、ゆったりとスタンドのファンの前を駆けていった。「気まぐれジョージ」は少し淋しげだった。

(この一文は2006年7月18日に書かれたものです。)