イベント、出版物、番組などの企画をしていると、決まって知名度や人気を求められる。誰でも知っている人や事物に関して、改めて知らしめる必要はないと私は思うのだ。多くの人にとって「知られざること」あるいは「知る人ぞ知る」「埋もれ、忘れ去られたこと」を、改めて知らしめることこそ、書き手やイベント企画者、ドキュメンタリーやドラマ制作者、マスコミの大義の一つであろうと思うのだ。私は「知られざること」を知りたい。「知る人ぞ知る」の「知る人」になりたい。埋もれてしまった、あるいは忘れ去られてしまった人々や事物を掘り起こしたい。知る人ぞ知る存在を、より広く知らしめたい。
大正九年生まれの白崎秀雄という書き手がいる。私は彼の著作「当世畸人伝」から大ノ里や長尾よね、阿部謙四郎らのような人物たちを知った。大正十一年生まれの山田風太郎の明治時代小説から、西郷隆盛の陰を担った益満休之助や、瞠目すべき人物である原胤昭や有馬四郎助らを知り、「同時代性」という時空の把握や、奇想とその魅力を知った。
大正十四年生まれの作家・森田誠吾の名作「曲亭馬琴遺稿」から江戸の書き手たちや出版界のことや、多くの言葉を学んだ。森田と同年生まれの作家・古川薫の「異聞岩倉使節団」から、アメリカ号の船内で行われた日本人初の陪審制度裁判が行われたことを知った。
昭和二年生まれの神坂(こうさか)次郎は、先述の人々と同時代人とみてよい。彼等の目、その好奇心、文体と知性と教養は素晴らしく、安心して読めるのだ。神坂は故郷の「知る人ぞ知る」人物「縛られた巨人ー南方熊楠の生涯」を書き、熊楠ブームに火を付けた。さらに私は神坂の作品から、わずか百二十石ながら大名や大身旗本と同様に将軍に御目見を許された「新田岩松」家のことを知った。「猫男爵(バロン・キャット)」改題「猫大名」である。
主人公は岩松氏の第二十一代当主満次郎俊純(としずみ)である。加賀や尾張の参勤交代の大名行列は三千人近い。万石以上、従四位以上の岩松氏の行列は、わずか十数人という侘びしさである。
岩松氏は清和源氏、八幡太郎義家という名族の末裔で、その祖を父・足利太郎義純(よしずみ)、母・新田大炊介(おおいのすけ)の娘という、二つの名流武門家の血脈を受け継ぎ、鎌倉時代、将軍・源実朝から「地頭職たるべし」の下文を賜り、上野国、新田庄など十二郷を領していた。南北朝の動乱期、新田義貞に従い、また足利尊氏に与して大いに軍功を挙げ、新田庄岩松に難攻不落と言われた金山城を構えていた。しかし戦国時代に衰微し、十三代守純(もりずみ)は上野国桐生の茅屋の庵に逼塞し、僧形の老残をさらしていた。
天正十八年、徳川家康の関東入部の年、守純は川越に呼び出された。八幡太郎義家以来の新田岩松の系図を披露せよと言うのである。守純は子の豊純を伴って罷り出た。
家康の祖は徳阿弥という遊行坊主の浮浪者だったが、やがて西三河の松平郷で還俗、婿入りして松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)と、もっともらしい名乗りをあげ、その祖は武門流の新田であると称した。家康は守純から新田岩松の系図を簒奪し、松平の祖を清和源氏八幡太郎義家として、新田の系図のどこかに松平を潜り込ませ、改竄するつもりだったのである。新田岩松十三代守純は、そんな家康の魂胆を見抜いていた。守純は耄碌・痴呆の佯狂を演じて家康を躱した。怒った家康は守純に二十石を与えただけであった。「あの系図をよこしさえすれば、大身旗本か万石の大名にも取り立ててやったものを」
家康が「徳川の始祖は新田」と、もっともらしくその来歴を誇ったため、四代将軍となる家綱は、生まれるとすぐ「新田竹千代」と称せられた。そのため新田岩松家では新田姓を遠慮し、幕末まで岩松姓を名乗った。
豊純の子義純は幼くして、天海の東叡山寛永寺に身を寄せていた。天海は家康、秀忠、家光の三代の将軍に最高顧問として仕えた。彼は義純を寵愛し、やがて義純の元服にあたり守純以来の満次郎を襲名させ、岩松満次郎秀純と名乗らせた。天海は「秀純を大名に」と春日局や英勝院に働きかけたが、天海、春日局と相次いで亡くなってしまった。
その願いを受け継いだのが幕閣一の実力者で忍藩主・阿部忠秋である。彼の推挙で下田島に百石加増され、交代寄合格に準ぜられて将軍・家綱に御目見なり、以後将軍に拝謁が叶う身分となった。十万石の大名格、従四位以上である。しかし家禄はわずか百二十石なのである。家政は常に貧窮逼迫していた。
岩松氏の家臣たちは半農で、田畑を耕し作物を殿様に献上した。また岩松家の由緒の者たち、出入りを許された各地在郷の有力者たちは「眩いばかりの貴種、東照神君家康公と遠祖が同じ新田嫡流の血脈、名門新田岩松」に接し出入りすれば我が家の格も上がり箔も付くと、金品を献上し、融通し、財政援助を惜しまなかった。その広がりは関八州、奥羽、信濃、甲斐、越後など約千人に及んだ。出入りの商人たちは「新田の飛脚札」を喜んだ。この札を運送荷物に掲げれば公用荷となり、運送費も安く、しかも優先的に早く運ばれていくのである。また岩松氏は好学文藻をもって知られ、土地の文人たちも出入りした。
さらに岩松氏は「猫絵の殿様」とも呼ばれた。当主自らが筆をとった「猫絵」の下げ渡しが金になるのである。十八代満次郎温純(あつずみ)の頃から、各地の百姓商人から「猫絵」を請われるようになったのである。
「太平記」に述べられるように、遠祖新田義貞、義顕、義興親子の最期は凄絶で、彼等の怨念は鼠となって祟るのだという。関八州、信濃、甲斐は養蚕の盛んな土地であり、鼠害はもっとも恐れるところであった。この新田義貞親子の祟り鎮めのために、新田嫡流の殿様直筆の猫絵を戴き、貼り出せば鼠害が防げるというのである。「新田猫は気品の中に、かの怨霊がこもり田畑を荒し、蚕を食べる鼠どもを一瞥、ぎょっとすくませる」…この猫絵が一枚、十両となる。この当主の猫絵は、温純、徳純(よしずみ)、道純、二十一代当主満次郎俊純へと受け継がれる。
ところで新田岩松氏には江戸屋敷がない。昵懇の大身旗本や大名屋敷内の一棟を提供され「岩松満次郎江戸屋敷」として使用しているのだ。満次郎俊純の江戸屋敷は母の実家、祖父の大身旗本・中山主馬(しゅめ)の屋敷内の一棟である。この屋敷から新年の将軍御目見、拝賀に登城し、翌日から昵懇の大名や大身旗本の屋敷を年賀に回る。新年早々「畏れ多くも東照神君家康公の先祖筋にあたる新田の当主が御入来」で、まことに吉相が良いと歓待され、ご祝儀が出されるのだ。俊純はこうして金を掻き集め、猫絵を描き、この絵を手土産に知行所巡りをするのである。他にも当主はまことに忙しい。時に病気を治すことなど様々請われることがあり、俊純は奔走した。様々な訴訟事も待っている。当主によるこの裁きも温順で、皆心穏やかに納得した。
時は幕末、世情は騒然としている。俊純は大身旗本渡部錬三郎の妹くみと恋をし、彼女は身ごもった。一計を案じた人々の知恵で、くみは新田岩松家に奥女中として奉公するという形になった。こうすれば、くみも渡部家にも箔が付く。そこで新田岩松当主の手が付き、そのまま俊純とくみの婚姻がまとまった、というシナリオである。…くみとの間に生まれたのは女の子で、武と名付けられた。その子が六歳のとき、くみは肺疾で亡くなった。
慶応四年三月八日、南朝の義臣新田義貞公以来の機と、新田官軍として出撃した。…
明治となり、下田島の俊純主従と領民は活気に溢れた日々を送っていた。赤城、榛名、妙義の山裾に広がる上州一面の桑畑が、豊穣をもたらしたのだ。絹糸が海外貿易の主役となったのである。俊純の猫絵も船荷と共に海を渡った。
東京に暮らす娘の武は、薩摩藩脱藩浪士の鬼才にして豪傑、風来坊の中井桜州と恋をし、その妻となった。中井は大隈重信家の食客で、武もそのままそこに暮らした。しかし中井は風来坊である。大隈家に出入りしていた井上馨が武を強奪するように妻とした。一騒動あったが、武も中井も了承した結婚である。
井上は彼女を溺愛し、華族のように武子と呼んだ。井上は武子を伴い欧州視察に出かけた。武子はパリで二年間暮らし、ファッション、マナーを身に付けた淑女として帰国して、外務卿の井上がつくった鹿鳴館の華となった。ちなみに鹿鳴館の命名者は中井桜州である。
武子は夫に父新田俊純の叙爵を迫った。井上の働きで俊純は男爵となり、その叙爵披露が外務卿井上馨と妻武子主催の天長節祝賀大夜会で行われた。俊純は武子と肩を並べ、大階段を降りてきた。下で外務卿の井上が双手を挙げ、「ようこそ、バロン新田」と声を上げた。賓客たちの拍手が響きわたり、しばしの間鳴り止まなかった。
…知らないことを知ることは、かくも楽しい。
神坂次郎「猫大名」(中公文庫)