狐の話

狐のことである。日本では古来より狐は、五穀の神お稲荷様の使いとされ、良くも悪しくも霊力を持つ存在として、様々に物語られてきた。本物の狐は、野性の狐も動物園の狐も貧相で、みすぼらしい姿をしている。
学生時代、地方都市の動物園でアルバイトをしていた。飼育係の助手である。動物たちが展示場に出ている間に畜舎の掃除をし、飼育係の方がバケツに用意したそれぞれの動物たちの餌を、リヤカーで畜舎に配って回るのである(白熊はリンゴとジャガイモが好物であった)。玖保キリコの傑作動物園漫画「バケツでごはん」は、まさにそのままである。
動物たちは鼻がいい。彼等は展示場の柵外を歩く私の匂いを嗅ぎ分ける。「こいつは餌を持ってきてくれる奴だ」…特に狐である。彼等は警戒心が強いと言われているが、私から決して眼を離さず、私が右に歩くと後を追うように動き、私が反転して左に歩くと狐も反転し左に動く(狐からすれば右だが)。遊びなのだろう。そんな狐が実に愛らしかった。

狐は賢い。孤児となって祖父母に引き取られたインディアンの少年「リトル・トリー」は、作者フォレスト・カーターの少年期の思い出を小説とした名作である。その中に赤狐スリックが出てくる。
スリックはけしかけられた猟犬に自分の後を追わせ、犬どもを嘲弄するように欺き、彼等を十分に引きつけるため一休みする余裕も見せる。「ふん、どうだ」と言いたげに、祖父やリトル・トリーの前に姿を現し、これ見よがしに休憩を取るのである。知恵比べでは野性の赤狐スリックの圧勝だ。狐は人間と犬を相手にゲームを楽しんでいるのである。

大好きな狐の話に、「狐のチャランケ」がある。鮭が遡上する川に近い集落の家の中で、若者が寝ていると外で大きく呼ばわる声がした。
「みんな聴いてくれ、みんな俺の話を聴いてくれ!」…若者が外に出てみると、一匹の狐が、一人の男を悲しげな目で睨みながら叫んでいるのだった。集落の家々からも人々が顔を出した。
「みんな聴いてくれ! この男が川を浚うようにたくさんの鮭を捕っていた。俺がそのうちの一匹を盗むと、こいつは怒って神様に訴えたんだ。俺がもうここで暮らせないように、永久に追放してくれって。でも、みんな聴いてくれ! この川の鮭は、神様が、人間の分、羆の分、狐の分、シマフクロウの分って、数を数えて与えて下さったものだ。鮭はこいつだけの物じゃない。人間だけの物じゃない。みんな、こいつが神様に訴えたことを撤回するよう言ってやってくれ! 俺がずっとここで暮らせるよう、神様に訴えてくれ!」
若者が男に言った。「この狐の言うとおりだ、お前が間違っている」…
チャランケとは、談判、訴え、ディベートのような意味らしい。アイヌに伝わる古い物語だ。ちなみに我が敬愛する漢字学者・白川静によれば、「歌ふ」は「訴ふ」であり、もともと神に「訴ふ」ことらしい。つまり祝詞は歌なのだ。

池波正太郎に、狐が人間に憑依する話が二つある。一つは「剣客商売・第八巻・狐雨」で、もう一つが「鬼平犯科帳・第九巻」の、これも「狐雨」である。
無外流の杉本道場は、先代道場主が一人息子の又太郎に「決してわしの跡を継ごうとは思うな」と遺言したそうな。又太郎に剣客としての力量がないと見極めていたからだ。しかるに、又太郎は二千石の大身旗本松平修理之助の家臣を退身し、道場を継いでしまった。門人達にポンポン打ち込まれる程度の腕だったため、道場はたちまち寂れて閑散とした。虫の知らせか秋山大治郞が久しぶりに又太郎の道場を訪ねると、彼はまさに覆面の曲者に殺害される寸前だった。むろん大治郞が又太郎を救った。
又太郎は旧主の養女小枝を、引っ攫って隠してしまったらしい。小枝は無体なことに、修理の養女の形をとって妾にされたのである。又太郎と小枝は愛し合っていた。そこで又太郎は小枝を連れ出し隠したのだ。こうして又太郎は松平修理の刺客どもに襲われたのである。
その後又太郎が寛永寺の鬱蒼たる御料林で驟雨を避けていると、「もし…もし」とこの世の者とは思えぬ女の声を聴いた。「杉本様…又太郎様」「誰だ、出て来い!」「出ておりますが。あなた様には私の姿は見えませぬ」「何?…」「私めは、あなた様とわりない仲となられました小枝様に、大恩を受けた者にござりまする」…これがかつて少女時代の小枝に命を救ってもらった白い牝狐なのである。白狐はもはやこの世のものでない。この白狐が又太郎の身体の中に入ると、その神通力で彼は人が違ったような無敵の強さとなり、その後に襲ってきた五人の刺客どもをたちどころに撃ち倒すのである。
「アノ、これからが、大事でござります。私が、あなた様のお体に乗り移っていられるのは、足かけ三年の間でござります。…それまでに、アノ、あなた様は真に強い剣士にならねばなりませぬ。おわかりでございますか?」
「しっかりと御修行なさりませ。あなた様が御修行の折には、体内より抜け出しまする。あなた様が刺客と闘ったり、門人達に稽古をつけるときは、体内に戻りまする。…それとアノ、ナア…あなた様が小枝様と、アノ、ナア、睦まじゅうなさるおりは、体内から出ておりまする」
こうして又太郎は、秋山大治郞の道場にやって来ては、猛烈な稽古を始めた。秋山小兵衛がその稽古を覗いた。「はて、どうも、な…姿は見えぬのだが、道場の片隅に、何かが凝と蹲っているような。…何か、生き物の気配がな…」

「鬼平」の「狐雨」はこうである。盗賊改方の同心青木助五郎は、もともと前任の長官の組下同心であったが、平蔵が長官就任時に公儀に願い出て、筆頭与力の佐嶋忠介と共に平蔵の組下に編入してもらったのである。助五郎は確かに凄腕の警吏であったが、無口で陰気で単独で行動し、あまり評判の良い男ではなかった。陰で何をしているのか、盗賊たちとの関係も囁かれていた。
助五郎は暗い少年期を送っていたという。彼の実父は早くに亡くなり、継父沖之助は病弱な上に癇癖が烈しかった。この父が徐々に狂い始めた。ある時目黒不動に参詣の帰り、林の中に見つけた野狐を追い回し、ついにその首を切って家に持ち帰り、鍋の中に入れた。それから間もなく発病し五日後に死んだ。
晩春、盗賊改方の役宅に戻って来た青木助五郎の様子が明らかに怪しい。
「下郎! 下がりおろう! 当屋敷のあるじ、長谷川平蔵宣以(のぶため)はおるか。…下がれ、下がれ、下りおろう!」…青木は狂ったのである。彼は平蔵の書斎に入り、床の間に坐った。やがて戻った平蔵が「当家のあるじ、長谷川平蔵でござる」と両手をつかえた。「おお、宣以であるか。近う寄れ。近う、近う」…その声は狂い声である。その眼は人の眼ではない。妖怪の眼だ。
「よう聴け、よう聴け。去んぬる十六年前、青木助五郎の父、沖之助によって、われは殺害されたのじゃ。…目黒不動尊境内の稲荷の社に祀られたる亡き母の霊に見えんとせしが、その途中青木沖之助に追われ、この首を打ち落とされたのじゃ。…かくなる上は憎い沖之助の子、青木助五郎を取り殺し、われの恨みをはらすまでじゃ。なれど、その前に、助五郎めの行状を長谷川平蔵につたえんがため、かくは当屋敷へ参上いたしたのじゃ」
こうして助五郎に取り憑いた天日狐は、助五郎本人の口からその悪行を述べ立てたのである。そして平蔵が抜き打った一刀で、天日狐の霊魂は助五郎の肉体から抜け落ちた。その後の取り調べで、天日狐が語った助五郎の悪行は全て事実であった。…「鬼平犯科帳」の魅力は、実はリアリズムである。その中で、この「狐雨」は実に不思議な事件なのであった。

狐の童話で名高いのは、新美南吉の「ごん狐」である。「ごん狐」は童話としては、実に解釈の難しい作品である。
以前「グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」という童謡絵本に携わったおり、童謡唱歌の詩人や作曲家を調べたことがある。既存の解説では、同時代性の欠落、つまり想像力の欠落が気に入らず、その後も私は調べ続け、想像を逞しくし、「掌説うためいろ」として彼等の逸話を勝手に書いた。その中に「たきび」を作詞した巽聖歌がいる。それは「焚き火とごん狐のお話」とした。巽聖歌は新美南吉を弟のように可愛がっていた。さて「ごん狐」と巽聖歌の物語は別の機会としよう。

フォレスト・カーター「リトル・トリー」(和田穹男訳 めるくまーる)
池波正太郎「剣客商売」(新潮文庫)
池波正太郎「鬼平犯科帳」(文春文庫)
新美南吉「ごんぎつね」(絵・黒井健 偕成社)