ベベールはとても有名な猫である。正真正銘のパスポートを交付され、その特異な飼い主と共に長い亡命の旅を続けた、数奇な猫なのである。
1935年、パリ市内のどこかで生まれた雄の雉トラの子猫は、動物愛護協会によってデパートに持ち込まれ、他の子猫と一緒に箱に入れられ売られていた。あのジャン・ギャバンも出演していたジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画「ゴルゴタの丘」で、キリスト役を演じたロベール・ル・ヴィギャンと、恋人のアルジェリア人の端役女優が、その子猫を買った。
この二人とモンマルトルに暮らし、夫婦が仲の良いときは毛艶もよく丸々と太っていたが、喧嘩や冷戦状態のときは食べ物も与えられなかったため痩せ細っていた。劇作家のマルセル・エイメ、版画家のダラニュス、小説家のセリーヌらロベールの友人たちは、界隈を歩くこの猫を見て二人の仲が判断できた。彼が七歳の年、二人は別れ、捨てられた猫は界隈のゴミ箱を漁っていた。
ある日、セリーヌの妻リュセット・デトゥシュ(リリィ)がドアを開けると、その子はそれを待っていたかのように坐っていた。リリィは食べ物を与え、夫にこの子を飼いたいと言った。彼は反対した。戦局が悪化し人間も逃げ出さなければならない時である。反ユダヤ主義者、ナチ協力者と目された彼は、身の危険を感じていた。フランス国民は彼を許さないだろう。セリーヌはデンマークかスイスへの亡命を考えていたのだ。だが彼はリリィに根負けした。そもそも大の動物好きだったのだ。彼は猫に「夜の果ての旅」に登場する少年と同じ、ベベールと名付けた。ベベールはすぐ夫妻になついた。
ルイ・フェルディナンド・デトゥシュは医者であった。パリの貧民街に開業し、貧窮と悲惨に苦しむ人たちの診療に当たった。やがてセリーヌの筆名で、社会に対する憤怒と絶望、激越で汚い罵りと呪詛の言葉に満ちた「夜の果ての旅」を発表した。この作品は大きな評判を呼び、サルトルやボーボワール等にも強い影響を与えた。続いて「なしくずしの死」を出版したが、これは激しい非難を呼び起こした。前後して反ユダヤ主義色の濃い「虫けらどもをひねりつぶせ」「死体派」等の無数の政治的文書・評論を書いた。大衆は彼の反ユダヤ主義を支持した。彼はナチズムなどには興味はなく、また寸毫も協力するつもりもなかったが、国内外のファシストからの支持も得た。
44年春、連合軍の上陸が迫りテロも頻発した。「対独協力者、ファシスト」の彼に何通もの脅迫状が舞い込んだ。セリーヌは、偏屈で猫好きで知られる時評家のポール・レオトーから手紙を受け取った。「あなたはきっと、パリ解放時に消されるでしょう。それも身から出た錆というもの。私は一滴の涙さえ流しません。心配なく息を引き取ればいい。ベベールなら、私が引き取ってもいいと思っている。なにしろあの猫だけは、私も気掛かりなので」
セリーヌはデンマークへの亡命を決意した。もちろん猫のベベールも一緒だ。
ドイツ軍大佐の獣医が健康診断し、ベベールの写真まで添付した証明書(パスポート)を交付してくれた。
六月、連合軍のノルマンディー上陸から数日後、二人と一匹の亡命者は東駅からバーデンバーデン行きの列車に飛び乗った。ベベールは無数の穴を開けた鞄の中で、いい子にしていた。バーデンバーデンは爆音もせずパリよりずっと静かだった。彼等はホテルに入り、公園の散歩も楽しむことができた。しかしセリーヌはデンマークへもスイスへも入国できず、フランスに戻ることもできぬ八方塞がりの状況に陥っていた。必要な許可証が発行されないのだ。
ベベールはこの町で、落ちぶれた元の主人ロベール・ル・ヴィギャンと再会した。この俳優は政治宣伝番組の司会をやっていたため、早くから亡命していたのである。ベベールが彼に甘えることはなかった。
セリーヌの知り合いの医師の世話で、三人と一匹はベルリン北西のブランデンブルクに移動して、村の農家に身を寄せた。やがてベルリンも戦火に包まれ、彼等の生活も逼迫していった。九月、ドイツ軍がジークマリンゲンに本拠を移した。同地にフランスからの亡命集団があることを知ったセリーヌは、そこに医師の資格で移住申請を出した。十月末に三人に移住許可が下りた。
ベベールは再び鞄の中に入った。砲撃下のベルリン、ライプチヒ、プラウエン、フュルト、アウクスブルグ、ウルム…十一月末にジークマリンゲンに着いた。着く早々、セリーヌ夫妻はロベールと喧嘩別れした。町には二千人の亡命者が暮らしており、セリーヌは無報酬の医師として彼等を診察した。夜ともなると夫妻は、スイス密入国のための夜間雪中行軍の訓練を始めた。ベベールも彼等の後ろに付いてまわり、その訓練に加わった。
翌年の三月初旬、ドイツの降伏が迫る中、セリーヌはデンマーク入国の特別許可証を手にした。敗戦の混乱の中の移動は、過酷な困難が予想されたため、夫妻はベベールをジークマリンゲンに置いていこうと決意した。幸い、ベベールをたいそう可愛がってくれていた食料品店の店主に頼むと、彼は喜んで引き受けてくれた。出発の前日、夫妻はベベールを店主に預けてホテルに戻った。二人は翌早朝四時にはホテルを出て、列車に乗り込まなければならない。食料品店に閉じ込められたベベールは、自分が置き去りにされたことを知った。
その夜、ベベールはドアのガラスに体当たりした。ガラスが音を立てて割れると、外に飛び出し、町を突っ切り、夫妻のいるホテルを目指して走り出した。こっちだ、確かこっちだ! やっとそのホテルを見つけた。そして誰かが回転ドアを通るのをじっと待ち、ドアが回るとその中にさっと飛び込んだ。ロビーを駆け抜け、階段を駆けのぼり、廊下を走り、夫妻のいる部屋の前に辿り着いた。そして一声鳴き、ドアが開くのを坐って待った。…空耳か? ベベールの声がした。セリーヌがドアを開けると、ベベールが行儀良く坐って彼を見上げた。ベベール! 室内に入ったベベールは夫妻の脚に身体を擦りつけて甘えた。その身体には無数のガラスの破片がささり、血が滲んでいた。夫妻は泣きながらガラス片をとってやり、傷の手当てをした。もう絶対おまえを離さないよ!
ウルム、ライプチヒ、エアフルト、カッセル、ゲッチンゲン、ハノーファ、ハンブルク、フレンスブルク……ほぼ三週間、空襲警報の合間を縫い、爆撃に遭って列車が横転し、戦火に焼かれ、一切を失い、二十七回も列車を乗り替え、十八日間何も口にせず、三十七キロを歩いた。そしてスエーデン赤十字が用意した列車に飛び乗り、三月二十七日、二人と一匹の亡命者はコペンハーゲンに辿りついた。
夫妻は弁護士と連絡を取り、警察の外人登録課で滞在許可証を得た。夫妻と一匹は、コペンハーゲンの小さなアパートに入った。ベベールはやっと窓辺でうたた寝を楽しんだ。しかしコペンハーゲンの新聞がトップ記事で「セリーヌがコペン亡命」を報道した。フランス公使館は彼の身柄の引き渡しを求めた。ある夕、私服刑事たちが部屋を襲った時、夫妻はベベールを連れて屋根伝いに逃亡をはかったが逮捕された。ベベールは犬猫病院に送られ、さらに夫妻の女友達の家に引き取られた。
ベベールがリリィに再会することができたのは一ヶ月後である。彼女は衰弱していた。デンマーク政府はセリーヌを釈放するか、本国に引き渡すか結論を出せず、彼はそのまま一年半も獄舎に拘束された。セリーヌの面会が許されるようになると、リリィはベベールをこっそりと例の鞄に入れて会いに行った。セリーヌが鞄の中のベベールを撫でると、喉を鳴らして喜んだ。
セリーヌは衰弱して病舎に移され、さらに国立病院に収容された。ベベールも癌が発見され手術を受けた。彼の手術は成功したが、リリィも病に倒れ入院した。セリーヌは自分の病室のベッドの下にベベールを隠し、自分の病人食を分け与え、リリィが退院するまで世話をした。
47年六月セリーヌは仮出所し、二人と一匹は屋根裏部屋ではあるが、やっと揃って暮らせるようになった。その後知人からバルト海に面したクラルスコフガールの別荘を提供され、そこに移った。夫妻は新たに一頭のシェパードと三匹の迷い猫を飼い始めた。ベベールは犬とは仲良くなったが、新参の猫たちを無視していた。
51年春、パリの軍法裁判でセリーヌの恩赦が認められ、やっと逮捕の不安がなくなった。七月、夫妻はベベールと犬と二匹の猫を連れてフランスに戻り、パリ郊外のムードンに落ち着いた。ベベールは十六歳になり、痩せ衰え一日中セリーヌの書斎で眠った。セリーヌはその書斎で執筆を続けていたが、それらが出版される見通しは全くなかった。彼がベベールを抱いている写真が残されている。「二十世紀文学の巨大な影」「敗残の巨人」セリーヌは、その長身を猫背にし、落ち窪んだ小さな目には失意のためか覇気がない。ベベールはその腕の中に抱かれて、安心しきって眠っている。
フランスに帰国してから七ヶ月、ベベールは死んだ。しかしベベールは、セリーヌの作品「城から城」「北」「リゴドン」の中に登場し、自由にのびのびと生き続けている。
フレデリック・ヴィトウー「セリーヌ〜猫のベベールとの旅」
村上香住子訳(創林社1983年刊)