見えざる神の手

人が自分の安全や利益のみを追求しても、「見えざる(神の)手」が働き、最適な資源配分がなされて社会全体の利益が達成される、また市場では需要と供給が常に予定調和的に調整される。…経済学の祖アダム・スミスが「国富論」で述べた「見えざる手」は、現代のモラルと徳なき面々に受け継がれ、新古典派経済学、新自由主義、市場原理主義として猛威をふるっている。
アダム・スミスは道徳哲学の教授だった。彼は「道徳情操論」も著し「徳」を重視していた。しかし、アダム・スミスの「見えざる神の手」という言葉は独り歩きをし、市場原理主義者たちの金言となったのである。

ラムタラという馬がいる。アラビア語で「見えざる神の手」という意味である。アラブ首長国連邦ドバイの王族モハメド・アル・マクトゥームが、豊富なオイルダラーで入手したアメリカ、ケンタッキー州のゲインズボロ・ファームで、1992年に生まれた。父は名馬ノーザンダンサーの最高傑作で英国の三冠馬ニジンスキー、母はブラッシンググルーム牝馬で繰り上がり優勝とは言えオークス馬スノーブライドである。良血中の良血馬と言えるだろう。
マクトゥーム一族所有馬の専属調教師の一人、英国人アレックス・スコットは一目見るなりこの馬が気に入り、ぜひ自分に調教させてくれと懇願した。こうしてラムタラはイギリス、ニューマーケットの彼の厩舎に入った。
モハメド殿下は甥っ子のサイード・マクトゥームにこの馬をくれてやったが、彼がまだ未成年であったため、殿下の競走馬管理組織ゴドルフィン・レーシングの所有馬とした。言うまでもなくゴドルフィンとは、サラブレッド三大始祖の一頭ゴドルフィンバルブから名付けられたものである。
1994年夏のニューベリー競馬場で、ラムタラはスコットの親友W.スウィンバーン騎手を鞍上に、いきなり準重賞レースでデビューし、勝った。さすがに圧勝とは言い難い。しかしスコットはこれでダービーの勝利を確信したという。その後ラムタラが脚を痛めると、殿下はラムタラを温暖なドバイのサイード・ビン・スルール調教師のもとに送った。スコットは少し不満だった。
9月30日の夕、アレックス・スコットは以前から口論が絶えなかった厩務員のオブライエンのもとに赴き、彼に解雇を伝えた。オブライエンは逆上した。その一時間後、厩舎の物置小屋でスコットは銃殺された。…まるでディック・フランシスの競馬サスペンス小説のようである。
こうしてラムタラはそのままスルール調教師が管理することになった。そのラムタラにも死がまといついた。肺疾で生死をさまよったのだ。
ラムタラにはダービーまで、その能力を試す時間が無かった。彼はわずか2戦目で英国ダービーに挑戦した。レースは厳しく、直線ラムタラの前を馬群の壁が塞いだ。「神よ、天国のアレックスよ、力を貸してくれ!」とスウィンバーン騎手は馬上で祈った。すると見えざる神の手が働き、モーゼの前の海が二つに分かれて道ができたように、彼等の前が開いた。ラムタラは勝った。英国ダービーのレースレコード、エプソム競馬場のコースレコードだった。
続いてデットーリ騎手を鞍上にキング・ジョージ&クィーン・エリザベス・ステークスに勝ち、さらに並み居る古馬を相手にフランスの凱旋門賞を勝った。
この三つのレースを欧州三大競走と言う。これを連勝したのは史上二頭目、無敗で達成したのはラムタラだけであった。ラムタラはデビューからわずか4戦で欧州三冠馬となり、「欧州の歴史的名馬」「神の馬」と讃えられた。

この「神の馬」は4戦全勝のまま引退し、ゴドルフィンが英国に所有するダルハムホールスタッドに繋養された。種付け料は3万ポンドで、凱旋門賞優勝牝馬を含む56頭への種付けが行われた。
その後日本人ホースメン等によって33億円で購入され、44億2800万円のシンジケートを組まれて、日高にやって来た。サィード・マクトゥーム等の売却条件は、彼らの牝馬に年間5頭分の種付け権利を保有させることであった。種付け料はプライベートとして公表されていないが、一千万円とも二千万円とも囁かれた。
ラムタラは、これまで日本に輸入された種牡馬としては、その競走能力の高さにおいてダンシングブレーブに匹敵した。ダンシングブレーブはアメリカ産で、サウジアラビアのハーリド・ビン・アブドゥラ王子が入手し、イギリスで調教され、80年代の欧州最強馬と讃えられた。この名馬は不治の奇病にかかったため、格安で日本に入ってきたのである。
この日本人によるラムタラの輸入は、欧米の競馬関係者からやっかみ混じりの強い非難を浴びた。しかしもっとも高額の金を提示した者に売り渡すことは、「市場原理」なのであった。わずか4戦で欧州三冠馬となったラムタラはその価値があると思われ、このような歴史的名馬を手に入れるのは「円高」を利した今しかあるまいと思われた。これも「経済原理」なのであった。
「欧州の歴史的名馬」「神の馬」ラムタラの産駒は、1999年にデビューした。それは期待を大きく裏切るもので、この年ラムタラのサイヤー(種牡馬)ランキングは320位であった。供用初年度にして早くもこの馬の導入は「歴史的失敗」であることが明らかとなったのだ。

広い視野も展望も欠き、目先のことにとらわれ「バスに乗り遅れるな」とばかり流行を追いかける付和雷同性は、日本社会の大きな特質のひとつである。
日本のサラブレッド生産界は、ある系統の種牡馬が成功するとその系統ばかりを輸入し、その血に偏る傾向が強い。古くはネバービートの成功でネバーセイダイ系ばかりとなり、パーソロンの成功でマイリージャン系が続々と入り、次にプリンスリーギフト系に偏った。ノーザンテーストが成功するとノーザンダンサー系だらけとなった。しかも日本にはニジンスキー直仔の種牡馬マルゼンスキーがいた。そこにラムタラが導入されたのだ。優れた繁殖牝馬はノーザンダンサー系に偏っていた。インブリードは虚弱体質や気性難が出る可能性が高い。とてもラムタラに掛け合わせることはできないのだ。それにラムタラの重厚な底力血統、長距離血統は、日本の短距離高速指向の軽い競馬には不向きだったのだ。日本にはこれ以上のノーザンダンサー系はいらないと「見えざる神の手」が働いたのであろう。
トニービンやサンデーサイレンスが何故大成功したかと言えば、彼らは戦績も血統も一流であり、さらにノーザンダンサー系牝馬とはアウトブリードになって、健康な産駒を出し得たからである。そして今、サンデーサイレンスは既に亡いが、馬産界はサンデーサイレンス系だらけである。また「見えざる神の手」が働くかも知れない。

欧州の歴史的名馬ラムタラは、日本で「失われた十年」を過ごしてしまった。当初は90頭を超える花嫁を集めたが、その産駒は全く振るわず、徐々に花嫁の数は減っていった。これまでの産駒で重賞を勝ったのは、GⅢを一つ取ったメイショウラムセスのみである。
2006年、神の馬ラムタラは、ゴドルフィンのダルハムホールスタッドに24万ドル、約2750万円で買い戻され、イギリスに帰って行った。ラムタラほどの馬にしては破格の安値であろう。…その後ラムタラは種牡馬として供用されていない。ゴドルフィン、ダルハムホールスタッドはラムタラに、のんびりとした余生をプレゼントしたのである。わざわざ買い戻したのは、市場原理、経済原理とは離れて、数奇な馬(調教師射殺事件、ラムタラを担当した二人の厩務員の不慮の死)、神の馬、欧州の歴史的名馬「見えざる神の手」への、慰労とご褒美だったのだ。

ディック・フランシス 一連の競馬サスペンス(ハヤカワ・ミステリ文庫)
伴野朗「ラムタラは死の香り」(徳間文庫)
江面弘也「サラブレッド・ビジネス ラムタラと日本競馬」(文春新書)