いいかい坊や、よくお聞き、とアマ(お母さん)が言った。坊やはウンなあに、とアマに顔を近づけた。お前は大きくなったら競馬場で競走するようになる。いいかい、お前は絶対にダービーとか天皇賞とか、大レースを勝たなくてはいけないよ。お前は純粋なサラブレッドじゃないってことにされているんだよ。血統的に低く見られるサラ系って言われているの。人間たちはサラ系を馬鹿にしたり嫌ったりするのよ。
お前が大レースを勝たない限り、競走生活をやめた後は命がないんだよ。大レースを勝てばお父さんのように牧場で暮らしていけるんだよ。だから、どんなに辛い稽古にも耐えて、どんなに辛いレースでも歯を食いしばって、決して諦めずに、勝ちなさい。大きなレースを勝ちなさい。お前ならできるわ。アマのお祖母さんのそのまたお祖母さんで、ミラっていうお婆ちゃんは、遠いオーストラリアってところから船に乗って来たのよ。横浜の港に着いたとき、血統書っていうのが失くなっていたんだって。だからミラお婆ちゃんは血統不明のサラ系とされ、その血を引く者はみなサラ系とされたの。でもミラお婆ちゃんはもの凄く速かったのよ。13戦10勝2着3回だったのよ。
ミラお婆ちゃんの血を引いた一族から、帝室御賞典(天皇賞)を勝った馬が八頭、ダービーを勝った馬が一頭、桜花賞馬が一頭出たのよ。帝室御賞典を勝ったマツミドリも、第一回ダービーを勝ったワカタカもミラお婆ちゃんの血を引いているのよ。そしてマツミドリもワカタカもお父さんになるために再び牧場に帰ってきたの。わかったかい坊や、お前にはミラお婆ちゃんの凄い血が流れているんだ。きっときっと大きなレースを勝つんだよ、そうすれば生き残れるんだよ…。
それからアマは毎日わが子に語りかけた。ダービーのような大きなレースを勝ちなさい。(※1)
(※1)確かこんな話だったという筆者のいい加減な三十数年前の記憶に、記録を付加したものである。
子馬の名をドトウという。この競走馬を主人公とした胸を締め付けるような哀切な小説「走れドトウ」を書いたのは、関西の故橋田俊三調教師である。四白流星の貴公子タイテエムの調教師である。彼の愛馬タイテエムの皐月賞を阻んだのは、ミラの血を引くサラ系ランドプリンスだった。この宿敵ランドプリンスと、その前年に皐月賞とダービーを勝ったヒカルイマイが、ドトウのモデルとされる。橋田師は、特にヒカルイマイの最後方から飛んでくる怒濤の末脚の凄まじさに目を奪われたのである。
小説の着想は橋田師が夜中に自厩舎を見回っていた時だった。彼は馬が話をしているとしか思えない体験を何度もした。馬は人間にも話しかけるが、馬同士で話をしているようなのだ。いや、きっと彼らはおしゃべりをしているに違いない。橋田師は、ヒカルイマイの母馬が子馬に何を語り続けたのかと、その想いを膨らませていったのだ。
ヒカルイマイは、北海道静内の中田次作が農業のかたわら営む小さな牧場で生まれた。いわば競馬界では無名の生産者である。父はシプリアニというサラブレッドである。イタリア生まれでイギリスとアイルランドで走ったが、大した競走成績でもないし、まだこれといった大物産駒も出ていなかった(※2)。
母はミラ系のセイシュンというサラ系であった。セイシュンは既に六頭の産駒を出していたが、いずれも未勝利馬である。近親に活躍馬もなかった。
(※2)この後に牝馬トウメイが天皇賞と有馬記念を連勝し、トウメイ高速道路と呼ばれ、アチーブスターが桜花賞(武邦彦の初クラシック勝ちである)、ビクトリアCを勝った。しかしシプリアニは供用わずか三年で死んでしまった。
専業牧場でなかったため、ヒカルイマイはほったらかしにされ、小さな運動場を走り回っていたらしい。馬主の鞆岡達雄のために谷八郎調教師が二百万円で購入することにした。谷厩舎に入った時、入念に馬体検査をしたところ、肋骨の一部が折れて陥没していることが判明した。幼駒の時に柵にでも激突して折れたものらしいが、生産者の中田は全く気づかなかったという。狭い牧場を走り回り、勢い余って柵を避けきれなかったのだろう。鞆岡は支払いを百五十万円に値切り、「もし一勝できたら、残りの五十万を支払う」とした。
ヒカルイマイは調教では全く動きが悪く、誰も期待しなかった。ところがデビューから圧勝で三連勝したのである。若手の田島良保騎手は胸を高鳴らせた。この馬で東京に行ける。
関西にはフイドール、シバクサ、ロングワン、ニホンピロムーテーという良血馬が犇めいていた。関東にはメジロゲッコウ、オンワードガイ、ヒデチカラ、ヤシマライデン、ベルワイド、ハスラー、ダコタという良血馬がいたし、バンライ、ゼンマツ、コーヨーという実力馬も犇めいている。その後ヒカルイマイは重賞きさらぎ賞を勝ったもののスプリングSまで六敗した。
クラシック第一弾の皐月賞は四番人気だった。ヒカルイマイは最後方から怒濤の末脚を爆発させ、バンライに二馬身近くの差をつけて圧勝した。「後方一気」と記録されている。続くダービートライアルのNHK杯も怒濤の「後方一気」で勝った。いつしか競馬ファンは、二流いや三流血統の彼を「雑草ヒカルイマイ」「風雲児ヒカルイマイ」と呼ぶようになった。
ダービーでヒカルイマイは二番人気となった。ダービーを勝つにはセオリーがある。一、二コーナーは十番手くらいで回り、三コーナーは必ず十番手以内に位置し、四コーナーを回るときは直線いつでも抜け出せる好位置をキープしていなければならない。しかし田島とヒカルイマイはスタートから最後方グループに位置した。三コーナーも後方で大外を回った。誰もが「失敗だ」「田島は若い」と思った。四コーナーを回ったとき、彼らはまだ最後方のグループにいた。直線、フイドール、ベルワイド、ハーバーローヤルが抜け出し、激しい叩き合いを演じた。田島とヒカルイマイは、まだ後方の大外に位置していた。そこから凄まじいばかりの怒濤の豪脚が爆発した。一気に二十頭を抜き去って、彼らは一着でゴールした。二着はハーバーローヤルだった。そのレースは「後方一気」と記録された。
田島良保は若い甲高い声を弾ませた。「ぼくはダービーに乗るのだとは思わなかった。ヒカルイマイに乗るのだと、それだけを自分に言い聞かせて乗りました!」
その秋に三冠達成かと思われたヒカルイマイは、屈腱炎を発症し、ついに治らず引退した。二流血統のサラ系であったが、皐月賞、ダービーの二冠馬であることから、種牡馬として北海道新冠の大栄牧場に繋がれることになった。昭和四十八年、馬運車に乗り込むヒカルイマイは、厳しいアマの声を思い出したことだろう。「いいかい、お前は絶対にダービーとか天皇賞とか、大レースを勝たなくてはいけないよ。きっときっと大きなレースを勝つんだよ、そうすれば生き残れるんだよ」
そして彼の耳に優しい声も聞こえただろう。「私のいい子、よくやった。さすがミラお婆ちゃんの凄い血を引いているわ。お前は私の自慢だよ」
彼は「アマ、あなたのおかげです。もうすぐ帰ります」と呟いたことだろう。
橋田俊三著「走れドトウ」(1977年「優駿」連載、二見書房刊・絶版、
2011年雑誌「ROUNDERS」創刊号、2号に復刻掲載された。