以前「童謡道~掌説うためいろ余話~」という短い文を書いた。童謡詩人の斎藤信夫における「童謡道」である。
彼は童謡のための詩を書き始めてから、毎日一篇の詩を書くことを自らに課し、昭和六十二年にその生涯を閉じるまで、実に11,127の詩を書いている。
明治四十四年に千葉の成東の農家に生まれたが、教育者であった祖父と同じ教職に進んだ。信夫は地元の尋常小学校の代用教員を振り出しに、一時休職して師範学校に学び、尋常小学校の訓導に復職し、一貫して教育の場に身を置いた。
昭和七年に勤めた千葉市内の院内尋常小学校で、先輩教師の市原三郎との出会いをきっかけに、童謡の詩を書き始めたのである。
彼が船橋市葛飾尋常小学校で教鞭をとっていた昭和十六年十二月八日、日米は太平洋戦争に突入した。斎藤信夫は、翌日から戦争童謡の詩を書き始めた。
しかし彼は苦しんでいた。心に沁みる納得のいく詩はできないのだ。好戦的な歌ばかりでよいのだろうか。もっと兵隊さんを励ます、喜ばすような、子どもの歌はできないだろうか…。
その年の十二月二十一日、彼は風も冷たい戸外に出て、幕張の夜空を見上げた。凍てついているせいか、星が結晶のようにキラキラと輝いていた。
彼の教える生徒たちの中に、父親が戦地に行っている子もいる。子どもたちが戦地の父親に宛てて、慰問の手紙を書いているような詩はどうだろう。
「お父さんのご武運をお祈りしております。銃後の僕もお母さんを助け、お留守を守ります。大きくなったら兵隊さんになって、僕もお国を護ります。…」
彼は家の中に戻り、机の前に座って、いつものように大学ノートに詩を書き始めた。脳裏に浮かぶ情景は東北の片田舎である。小学生の男の子が、戦地の父へ慰問の手紙を書いている。
信夫は題名を「星月夜」とした。
一
しずかなしずかな里の秋
お背戸に木の実の落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てますいろりばた
二
あかるいあかるい星の空
鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
ああ父さんのあの笑顔
栗の実食べてはおもいだす
三
きれいなきれいな椰子の島
しっかり護ってくださいと
あゝ父さんのご武運を
今夜もひとりで祈ります
四
大きく大きくなったなら
兵隊さんだようれしいな
ねえ母さんよ僕だって
必ずお国を護ります
信夫は「星月夜」を、以前面会したことがある作曲家の海沼實に郵送した。しかし返信はなく、やがて彼もそのことを忘れた。戦争はいよいよ拡大しつつあり、またどうも戦局も厳しくなってきた様子が窺われる。
斎藤信夫は真面目で熱心な教師だった。軍事教練も熱心にやった。子どもたちに「日本は神国、必ず勝つ」と教えた。「みんなでしっかり銃後を守ろう」と教えた。戦争はどんどん激しくなり、とうとう日本の都市上空に敵の爆撃機が現れ、空襲がはじまった。…斎藤信夫は敗戦を予期していた。その日が来たら教職を退く覚悟をした。そして昭和二十年八月十五日、日本は戦争に敗れた。
斎藤信夫は学校に辞表を出した。子どもたちに嘘を教え続けた。彼の教師としての戦争責任をとったのだ。彼は幕張から成東に戻り、職探しをしていた。
その年の十二月、「スグオイデコフカイヌマ」という至急電報を受け取った。海沼實からである。
海沼はNHKから復員兵を迎える歌を依頼された。彼は手元にある多くの童謡の詞の原稿に目を通し、その中から「星月夜」を選び出したのである。
海沼は斎藤信夫に言った。
「一、二番はこのままでよいと思いますが、この三番、四番を削り、新たに戦地から戻って来る兵隊さんを迎える詞を書いていただけませんか」
信夫が新たに三番の詞を書き、それを海沼に渡すと、彼は頷きながら言った。
「斎藤さん、『星月夜』では硬い感じがする。『里の秋』にしませんか」
信夫は「里の秋」への改題を了承した。
新しい三番の歌詞はこうである。
三
さよならさよなら椰子の島
お舟にゆられて帰られる
ああ父さんよ御無事でと
今夜も母さんと祈ります
海沼の曲作りは早かった。その「里の秋」は二十四日には、NHKラジオの「外地引き揚げ同胞激励の午后」という番組で、少女歌手の川田正子が歌い、流された。その歌の放送は、一回かぎりの予定だった。しかしその歌は、わが子、わが父、わが夫、わが兄、わが弟の、無事な復員を待ちわびる多くの人たちの心を激しく揺さぶり、たちまち大反響を呼んだ。
その日本全国からの反響を受けて、NHKは「復員だより」という番組で流し続けることにした。これこそ敗戦後の日本の国民の琴線に触れた歌だったのだ。
しかし、すでに戦死を知らされた遺族たちは、この曲・歌を聴いて涙が止まらず、再び悲しみにくれたという。その便りを聞いた斎藤信夫は、三番はなくてもよかったと思ったという。戦争で家族を失った人たちの悲しみが心に突き刺さったのだろう。…今は三番の歌詞が歌われることはほとんどない。
一年後、斎藤信夫は再び教職に復帰した。子どもたちに伝えたいことが、たくさんあったのだろう。