平成五年(1991年)に、田端文士村記念館のオープニング時のイベントを依頼された。田端文士村記念館の名称だが、当時の館内の主たる展示を見渡せば、それは芥川龍之介記念館に等しかった。
私はここで、手話ひとり語り(ボディランゲージ)で世界オンリーワンの活動をされていた丸山浩路さんのパフォーマンス公演を提案した。彼はよく舞台で、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や「藪の中」を演じていたからである。
その際の音楽効果、伴奏は横笛奏者の横田年昭さんであった。横田さんはもともとジャズフルーティストとして知られていたが、伊豆の稲取に移り住み、作務衣を着て、飄々とした仙人のようであった。彼は裏の竹林の竹で笛を作り、窯で土笛を焼き、時にアボリジニのディジュリドウを演奏していた。
この丸山浩路さんの「蜘蛛の糸」「藪の中」の手話一人芝居と、横田年昭さんを幕開けにやったのである。
このイベントの実施にあたり、何回かオープン前の記念館に伺ったのである。実はそのとき、恥ずかしながら小杉放庵の名を初めて知り、田端文士村の形成を知ったのだ。
明治三十三年、小杉国太郎(放庵)が最初に田端に住み始める。入会し指導を受けていた洋画会に通うのに都合が良い場所ということだったらしい。この小杉放庵は、強い磁力、引力を持った人物らしく、次々に文人や陶芸家、俳人、画家や詩人たちが、吸い寄せられるように田端に住み始めたのだ。
田端文士村は、小杉放庵がここに住み始めたことで形成されていくのである。小杉放庵の友人たちは、彼と気のおけぬ話をしたい、あるいは芸術論をしたい、あるいは彼と酒を飲みたいなどの理由で、集まり始めたのかも知れない。
私がこのイベントをやった頃、小杉放庵は一般にはほとんど知られていなかったのである。印象としては、放庵は「器用貧乏」なのではないかと思われた。作家が作風・画風を変えたり、新しいものに挑戦することはよくあるのだろうが、小杉放庵は作風・画風をよく変えたと思われる。そして画号(筆名)も三度変えた。
彼は最初、小杉未醒を名乗り、洋画家であった。次に小杉放菴を名乗り、日本画家となっている。さらに小杉放庵と変え、後年は南画を描いている。
小杉放庵は明治十四年、日光の二荒山神社の神官で国学者の小杉富三郎の子として生まれた。本名は国太郎である。父の富三郎は後年、日光町長も務めた。
国太郎は地元の洋画家の弟子となるが、勝手に上京し白馬会洋画研究所に入るも、病を得て帰京。また上京を繰り返した。
明治三十三年、小杉国太郎は田端に移り住んだ。明治三十六年、放庵は国木田独歩と出会った。彼は独歩の主宰する「近時画報社」で挿絵や漫画を描いた。
明治三十七年から未醒の号で太平洋画会に出品し、画家として評価を得た。
日露戦争が始まると近時画報社の従軍記者として戦地に赴き、迫力に溢れた戦争画を描くとともに、漫画的な絵も描き人気が出た。
彼はユーモア画(漫画)も描き、ロゴデザインも制作している。漫画は岡本一平に影響を与えたと言われている、また後年、田端に住居した田河水泡にも多少の影響を与えているのかも知れない。安田講堂の壁画を手がけ、洋画と日本画を融合させたものだと言われ、高い評価を得ている。また放庵は都市対抗野球の「黒獅子旗」のデザインを手がけた。
小杉放庵はテニスや野球、空手など多彩なスポーツや趣味をたしなんでいる。野球については、田端に移り住んだ正岡子規とも語り合ったかも知れない。「ポプラ倶楽部」という芸術家の社交倶楽部を作り、テニス大会を開催した。
また彼は押川春浪が主宰する「天狗倶楽部」という社交団体にも参加し、日本のテニスの振興に大きな功績を残した針重敬喜とダブルスを組んで、東日トーナメント(後の毎日テニス選手権)にベテランの部に出場して優勝を果たしている。本格的なテニスプレーヤーだったのである。
しかし彼は何と強い磁力、引力を発していた人であったろうか。大正時代になってからだが、あの夭折したデカダンの天才画家にして放浪の詩人・村山槐多は、小杉放庵の田端の家に転がり込んでいる。放庵は村山槐多のような凶暴な魂さえも魅了したのであろう。
田端文士村記念館のイベントから二、三年後であろうか、たまたま読んでいた本の中に、小杉放庵の名を見つけた。山口昌男氏が「『敗者』の精神史」の中に「小杉放庵のスポーツ・ネットワーク」を書いていたのである。その章のサブタイトルは「大正日本における身体的知」というものであった。その冒頭は「小杉放庵復活」である。少し長いが引用したい。
「時代は小杉放庵(未醒)の復活へと向かっている。小杉放庵と親密な関係を結び、放庵と仕事の上で緊密な協力関係にあり、芸術的にも近い様式の持ち主であった画家たちの回顧展が目につくようになっている。一九九三年夏、国立近代美術館で回顧展が展開されている小川芋銭が、その最もよい例である。
正直言って小杉放庵は、近代日本絵画史の中では評価が低いというわけではないが、特に高い位置が与えられているとも言い難い。美術全集に収まることは少ないし、戦後も小杉放庵についての著書は二冊あるだけである。
しかしながら、その生涯が明治、大正、昭和(戦後)にまで相わたっていること、日光の山奥と都市的感性、洋画と日本画、漫画と芸術絵画との橋渡し、国木田独歩、田岡嶺雲、大町桂月、内藤鳴雪(俳人)、沼波瓊音(俳諧研究者)、押川春浪ら、ポプラ倶楽部と称するスポーツ任意団体の結成、山本鼎の信州における農民美術研究所への協力等々、その同時代へのかかわり合い方は、今日我々を刺激してやまないものに満ちている。つまり小杉放庵は明治から大正にかけて一個の魅力ある多彩なメディアであった。」
そうだ、小杉放庵という存在そのものが、芸術とスポーツの、気のおけぬ、かつ最新の、本格的なメディアだったのだ。
それからからまた数年後のある日、友人の美術キュレーターから、「小杉放庵を知っているか?」と尋ねられた。私は田端文士村の話や、山口昌男の「『敗者』の精神史」の話をした。
私は彼から日光にオープンする「小杉放菴記念日光美術館」の相談を受けた。また館内に流される映像制作物に関するアイデアを求められた。今は記憶も曖昧だが、流れ落ちる滝と滝壺の猛烈な飛沫が、いつしか小杉放庵がいた風景やその作品、彼が関わったスポーツ、あるいは彼の周辺の人物たちの映像とオーバーラップしていく、というようなプランを提示したと記憶する。二荒山神社の朱色、深い樹木、そして柔らかな風光、柔らかな南画…ユーモラスなコマ絵。
だいぶ以前NHK教育の「新・日曜美術館」で、パリ在住の画家・小杉小二郎を紹介していた。小杉小二郎はフランスではとても評価の高い人気画家ということであった。その番組で彼が小杉放庵の孫であると知った。
私は相良眞児郎という写真家とだいぶ以前から何度も一緒に仕事をしてきた。彼は子猫の写真を得意とし、「かわいい子猫のヨーロッパ旅行」などの写真集で知られていた。その写真展などをやってきたのである。
ある日、彼と雑談するうち、私はたまたま小杉放庵について話をした。すると彼は驚いたような顔をした。そして「小杉放庵は僕の祖父です」と言ったのだ。私も驚いた。彼とはそれまで二十年以上の付き合いになるのに全く知らなかったのだ。私がNHK教育の「日曜美術館」で放庵の孫・小杉小二郎を紹介していたという話をすると、相良氏は「従兄弟です」と言った。それはそうだろう。
ある時テレビの「なんでも鑑定団」を見ていたら、小杉放庵の絵が登場した。その絵は本物と鑑定され、驚くような値がついていた。しかし、小杉放庵の名と業績は、日光では知られているだろうが、一般には未だ知る人ぞ知る存在なのではなかろうか。