敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ…明治三十八年五月二十七日午後、旗艦三笠は大本営に打電した。三笠はマストに信号旗「Z旗」を掲げた。皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ…
こうして対馬沖で日本の聯合艦隊とロシアのバルチック艦隊の戦端が開かれた。聯合艦隊総司令長官・東郷平八郎と参謀・秋山真之は、いくつもの大博打を打ち、「天佑ト神助ニ因リ」敵の第二、第三艦隊の「殆ド之ヲ撃滅スルコトヲ得タリ」という大勝利をあげた。
バルチック艦隊は、先ずウラジオストックに入り、ここを基地として日本海の制海権を狙っていると思われた。制海権を奪われれば日本の敗戦は決定的である。敵の艦隊が対馬海峡から入るのか、あるいは津軽海峡を通って来るのか、またもっと大回りして宗谷海峡から入るのかということであった。これを日本国中が固唾を飲んで見まもっていた。東郷や秋山が打った博打のひとつは、敵艦隊は対馬沖を通ると決めたことである。もうひとつは、敵艦隊の眼前で「東郷ターン」と呼ばれる大回頭をし、敵に聯合艦隊の横腹を曝す「丁字戦法」を採ったことである。秋山は「イ」に近い丁字をとった。そしてこの博打は大成功した。
余談だが、この一戦で、装甲巡洋艦日進に海軍兵学校を出たばかりの少尉候補生が乗り込んでいた。初陣である。日進は艦隊の嚮導役を担ったため、最も激しく敵の砲撃に曝され続け、聯合艦隊中でも大きな損害を受けた。この少尉候補生も半身に大火傷を負い、左手の人差し指と中指を失って、右脚のこむらの肉を削り取られた。この少尉候補生は高野五十六といった。後の山本五十六である。
小樽新聞に入社して間もない二十三歳の青年・宮原晃一郎は、この日本海海戦が迫るにつれ、並々ならぬ強い関心を抱き、当然のように、そしてごく普通に、健全に、ナショナリズムを高揚させていた。何せ、バルチック艦隊が拠点としようとしていたウラジオストック(東の支配地、あるいは東方を支配せよの意)は、小樽の対岸のようなものである。また敵艦隊が大回りして宗谷海峡から日本海に入って来る場合は、小樽の眼前を通過していくことだろう。晃一郎は、この迫り来る海戦の行方に、健全に昂奮していた。しかも晃一郎は小樽の人ではない。薩摩人である。
明治十五年、晃一郎は鹿児島の加治屋町に生まれた。本名は知久である。加治屋町は、薩摩藩の下級武士が住んだ町で、西郷隆盛と大久保利通もここで生まれた。日本海軍の創設者とも言うべき海軍大将・海軍大臣の山本権兵衛も、聯合艦隊総司令長官の東郷平八郎も、ここで生まれた。噴煙を上げる桜島は目の前にあり、多賀山に登れば穏やかで美しい錦江湾が一望できた。錦江湾の畔は、まさに景勝の地であった。
晃一郎の母は宮原家の長女として生まれ、加治屋でも評判の美人、女子師範を出た才媛として知られた。その家に婿養子として入ったのが、やはり加治屋の下級武士の家に生まれた智貞であった。智貞は鹿児島県庁に勤めていたが、晃一郎が十歳のとき、北海道札幌に任地替えとなった。
晃一郎は高等小学校では一年飛び級するほど犀利な子だったが、如何せん身体が弱かった。札幌で耳を患い、片方の耳がほとんど聞こえなくなった。そのため上級への進学を諦めざるをえなかったのである。彼は十四歳のときから鉄道運輸事務の仕事に就き、通信教育で独学を始めた。メソジスト系の教会に通ったのは宣教師から英語を学ぶためである。
やがて晃一郎は教会の紹介でキリスト教系の新聞社で働くようになる。彼は記者という身分を最大限に活かし、北海道帝国大学に出入りするようになった。この大学は札幌農学校の時代から、クラーク博士のキリスト教精神が脈々と受け継がれ、新渡戸稲造や内村鑑三等を輩出した。晃一郎はときに聴講生として席に着き、また大学の図書館に入り浸り、独学を続けた。ここで有島武郎等と親しく交わるようになり、本格的に文学に取り組みたいと思い始めた。
晃一郎は語学の天才である。宣教師から学んだ英語は無論、図書館での独学でフランス語、ドイツ語、ロシア語を習得していった。彼がのめり込んだのは外国文学の面白さであった。彼はさらに後年、イタリア語とスペイン語とノルウェー語まで身につけている。
彼は明治三十五年、二十歳のとき受洗した。この年、父の智貞が亡くなった。晃一郎が宮原家の屋台骨を担って、家族の生活を見ることになった。弟は晃一郎と違って壮健な若者に育った。晃一郎は彼を進学させたかった。しかし弟は米国経路の船員になって独り立ちした。彼が乗り込んだ船は、明治三十三年にシアトル航路の貨客船として竣工した日本郵船の信濃丸である。晃一郎は海に乗り出した弟を羨ましく思った。ちなみに、この信濃丸は明治三十六年の秋に永井荷風をシアトルに運んでいる。
晃一郎は教会や勤め先の新聞社の紹介で、小樽新聞に記者として入社することになった。彼が二十三歳の時である。宮原家は小樽に引っ越した。小樽新聞の記者には、クリスチャンの碧川企救男がいた。
晃一郎は小樽の海を眺め、少年時代に過ごした錦江湾の海の色とはずいぷん違うものだと思った。小樽は沖合いへ、沖合いへと埋め立て工事が始まっていた。この工事で小樽運河が完成するのは大正の末年である。まだハイカラな煉瓦造りの倉庫や店舗も建っていなかった。船溜まりにたたずんだ晃一郎は、ふとデンマーク等の北欧の海もこんな色であろうかと想像した。
日本海海戦での大勝利が伝えられると、まさに日本中が湧いた。みんな貪るように新聞を読み耽り、それを口々に声に出し、喜びをあらわにしゃべり合った。
晃一郎は弟が乗った信濃丸が海軍に徴用され呉を母港にしていると聞いてはいたが、今回の海戦で大手柄を立てたことを初めて知った。
信濃丸は陸軍の御用船となった後、海軍に徴用されて呉鎮守府に属し、仮装巡洋艦としてバルチック艦隊の策敵活動の任務に就いていたようである。やがて哨戒艦信濃丸は、五島列島白瀬西方四十海里沖にバルチック艦隊を発見し、「敵艦見ユ」の第一報を打電したというのである。その後も二等巡洋艦和泉に追尾の役を譲るまで、敵艦隊にぴったりとつきまとって報告を続けたとある。
晃一郎は身内が乗船していたことを誇らしく思った。また巡洋艦和泉は、あえて敵艦隊に身を曝し、攻撃を受けつつ、敵の砲撃力、進路、速力、陣形等を刻々と打電し続けたとある。はたまたバルチック艦隊の「煙突ハ全テ黄色」と打電したとも伝えられた。…晃一郎は沈着剛胆な海の男たちを想った。
また新聞によれば、宮古島の漁師がバルチック艦隊を発見し、これはお国の一大事と、手漕ぎの小舟で無線施設のある石垣島まで、百七十キロの海原を昼夜十五時間も漕ぎ続けて報せたという。晃一郎は赤銅色に輝く肌をした頑健な海の男たちを想った。
ついでながら、晃一郎の弟が乗っていた信濃丸は後年、漫画家の水木しげる等を絶望の南方戦線に送った輸送船となり、第二次世界大戦後は引き揚げ船として就航している。
明治四十一年、文部省が小学校唱歌用に新体詩を懸賞募集した。晃一郎はこれに応募した。詩の題名は「海の子」である。
我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に、
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ生れてしほに浴(ゆあみ)して
浪を子守の歌と聞き、
千里寄せくる海の気を
吸ひてわらべとなりにけり高く鼻つくいその香に
不断の花のかほりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)と我は聞く。丈余(じょうよ)のろかい操りて
行手定めぬ浪まくら、
百尋(ももひろ)千尋の海の底
遊びなれたる庭広し。幾年(いくとせ)こゝにきたへたる
鉄より堅きかひなあり。
吹く塩風に黒みたる
はだは赤銅(しゃくどう)さながらに。浪にたゞよふ氷山も
来たらば来れ恐れんや。
海まき上ぐるたつまきも
起こらば起これ驚かじ。いで大船(おおふね)に乗り出して
我は拾はん海の富。
いで軍艦に乗組みて
我は護らん海の国。
この詩の着想に、日露戦争と日本海海戦での勝利があったのではないか。晃一郎の郷土の英雄である、山本権兵衛や東郷平八郎への讃仰があったのではないか。そして弟が乗船していた信濃丸のお手柄や、宮古島の漁師たちの赤銅色に輝く鋼のような肉体と勇気への讃歌があったのではないか。美しい錦江湾の海の輝きと、小樽の鉛色の海面に泡立つ白い波頭があったのではないか。
ほどなく、文部省から佳作当選の通知がきた。晃一郎は賞金十五円を受け取った。大金である。翌年の一月、再び文部省から著作権譲渡の来状が入り、晃一郎はこれに同意した。明治四十三年、「海の子」は「我は海の子」と改題され、国定教科書「尋常小学読本唱歌(六年)」に採用された。作曲者、作詩者はともに不詳とされた。一部に芳賀矢一の作詞説もあがったが判然としなかった。第二次世界大戦後もしばらくの間、この歌の作詞者は不詳とされたままであった。
大正五年、晃一郎は上京し馬込に住んだ。彼は明確に文学の道を進もうと決意したが、先ずは生活である。晃一郎は得意のロシア語を活かし、貿易会社に勤めた。この貿易商会でロシア文学者の中村白葉と出会っている。彼らは生涯の親友となった。
晃一郎の住まいは「馬込文士村」と呼ばれた一画にあった。自然、文壇、詩壇の友人が増え、白樺派に参画していた有島武郎との交遊も復活した。文士村で特に親しく付き合ったのは尾崎士郎と宇野千代らであった。
鈴木三重吉が始めた「赤い鳥」に共鳴し、多くの童話を書いた。彼の童話は、「昔聞いた話である」とことわりをした「聞き語り」である。昔聞いた話を、いま話者として子どもたちに伝えようというのである。それは分かりやすく、優しく、聞きやすい語り口である。晃一郎は「赤い鳥」に、主宰者の三重吉に次ぐ五十四篇の童話を書いた。「竜宮の犬」「漁師の冒険」という海の話もある。
また晃一郎は熱血の少年冒険読み物をたくさん書いた。軍艦富士がスエズ運河を乗り切る物語もある。おそらく彼の脳裏にはいつまでも、天気晴朗ナレドモ浪高シ、日本海海戦での兵士たちや船乗りになった弟、宮古島の漁師たちを讃える心があったのだ。そして熱血少年海洋冒険譚を書くことで、読者の子どもたちを勇気づけ、自らも奮い立たせていたのにちがいない。
昭和二年に北海道出身のキクと結婚し、八年に娘の典子が生まれた。義弟の子どもを引き取り、典子を含め三人の子どもを育てた。相変わらず身体が弱く、転地療養を続けながら、トルストイやイプセン、アミーチスの「愛の学校クオレ」等を翻訳し、スカンジナビア文学の研究に没頭した。
日本に北欧文学を本格的に紹介したのは、この独学の人、宮原晃一郎である。彼はまさに語学の天才であった。しかし生活は苦しく、いつも現金に窮していた。
晃一郎は現金収入が得られる焼き芋屋になろうとしたが、その元手もなかった。晃一郎は中村白葉のところに行って、
「焼き芋屋になろうと思うんだが元手の十五円がなくてね」
と言っただけで、貸してくれと言わなかった。その暮らしぶりを見れば白葉も貧窮しており、とても人に貸せる状態ではないと分かったからである。
空襲が激しさを増し、敗戦が濃厚になった昭和二十年の六月、一家は北海道に疎開することにした。晃一郎は練馬から具合の悪い身体をおして、世田谷の桜新町に住む白葉を訪ねた。
「君にだけは会ってから行きたいと思ってね。これで、もう君とも会えないだろう」
と言って涙ぐんだ。
「なに、また会えるさ」
と白葉は励ましたが、彼も胸がいっぱいになった。白葉は晃一郎を玉川電車の停車場まで見送り、
「北海道に発つ日に上野まで見送りに行くよ」
と言った。
しかし白葉は晃一郎一家を見送れなかった。毎日激しい空襲が続いたからである。
一家は上野を発った。列車は野辺地に差しかかっていた。間もなく青森である。その列車の中で晃一郎は堅い座席に腰掛けたまま、まるで居眠りでもしているかのように息を引き取っていた。動脈硬化だったと伝えられる。津軽海峡を渡れば、晃一郎の第二の故郷、そしてキク夫人の故郷北海道は、すぐそこであった。その日、海峡は風が強く、びょうびょうと鳴り続けていた。
高く鼻つくいその香に
不断の花のかほりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)と我は聞く。