以前ベトナム大使館に行く用があって、そこに向かっていた。ふと、その道や風景に見覚えがあることに気づいた。
そうだ、この道の右手側の、一本か二本奥を平行に並ぶ通りに、TTIという会社が入ったマンションがあった。そのマンションは事務所用途として設計された感じで、TTIはその一階に入っていた。事務所の隣はたしかケーキ屋さんだった。私はその事務所に起こった話も思い出した。
その当時、TTIは汐留スキースション(スキーバスの発着場)の企画とプロデュースをしており、私の会社はその企画に絡んでいた。汐留スキーステーションは巨大なパビリオンテントの中に、バス会社のカウンターブースや、インフォメーションブース、飲食ブースが入り、またステージやミニFMサテライトも設けられる。それが開設されるおりに、その運営を依頼されていた。私の会社の担当者はM君である。M君は頻繁にTTIに出向き、打ち合わせを重ねていた。
ある時、M君からTTIの異変を聞いた。事務所に怪奇現象が起こるというのである。彼はそれを実際に目撃したわけではないが、TTIの社長をはじめスタッフたちから、その度々起こる怪奇現象を聞いたという。
社員たちが帰り、社長が一人残って仕事をしていると、突然コピー室のコピーが作動する音がしたという。全員帰ったはずなのに?
「誰か残っているの?」と聞いても返事がない。しかしコピー機は回っている。行ってみると誰もおらず、コピー機は白紙を排出していた。彼はこの誤作動を不思議に思いながらも、電源を落とし、その夜は帰った。
あるとき、社員たちが二、三人で残り、会議室で打ち合わせをしていた。他の部屋にはすでに誰もいないはずであった。するとトイレで水の流れる音がした。実際、水が流れていたそうである。またあるとき、誰もいない給湯室の瞬間湯沸かし器からお湯が流れ始めた。さらにまたコピー室のコピーが勝手に動き始めた。
コピー機のリースとメンテの会社からサービスマンに来てもらい、調べてもらったがどこも故障していないらしい。しかし基板がおかしくなっているかもしれないので持ち帰って調べるという。その修理期間の代機も持ち込まれた。
しかしその新品に近い代機もまた、無人のコピー室で作動し、白紙を排出したのである。また無人の給湯室の水道から水が流れ続けていた。
ある朝、女性の取締役の方が出社すると、彼女のデスクに見知らぬ女性が座っていたという。彼女はぞっとしたものの、気丈に「あなた誰? そこで何をしているの?」と聞くと、その女性は椅子から立ち、無言のまま部屋を出て行こうとする。「待ちなさい! あなた誰なの! どこから入ったの?」…その女性は無言のまま、すっと彼女の横を通り、会社のドアから出て行ったという。
ここに至って、TTIは阿含宗の行者の方に部屋を霊視してもらったそうである。その方の見立てによると「母子の霊がいる」とのことであった。TTIは阿含宗に浄霊を依頼した。その事務所に頻繁に出入りしている方たちもお祓いをしたほうがいいという。その浄霊は次の土曜日に行われることになったらしい。
M君が一緒にお祓いを受けようと私に勧めた。私は「TTIには三回ぐらいしか行っていないし、企画書を仕上げなければならないので忙しい」と断った。本当はそんな恐ろしい所に行けるか、と思ったのである。
浄霊は午前中に終わるらしいので、終わったら一時半か二時頃に出社して報告しますとM君は言った。しかしその日、M君はなかなか帰ってこなかった。彼は夕方になって社に顔を出した。やや顔色も悪く、強張った顔をしている。私は彼からTTIの浄霊の様子を聞いた。
阿含宗の浄霊を担当される行者さんは三十歳くらいの若い方だったそうである。浄霊師というらしい。浄霊の修法を手伝う方も何名か来られたそうである。彼らは先ず、浄霊の本尊や、修法に必要な道具を運び入れ、祭壇を組み立てた。
そして集まった社員たちやM君たちのお祓いがあり、社内の浄霊が始まったという。それは予定通り午前中に終了したらしい。
浄霊師が言った。「霊は向こうの世界にお送りいたしましたので、これで大丈夫だと思います」
茶菓が出され、やがて出前の食事も届き供応された。みな興味があって、阿含宗の方たちにいろいろ質問したり、世間話をしていたらしい。
と、電話が鳴った。休日の会社である。若い男性社員が受話器をとった。
「はい、TTIです。…え? もしもし、TTIですが…あのう、もしもし…」
誰かが彼に声をかけた。「誰? 間違い電話?」
彼はやや青ざめながら受話器を置き、言った。
「子どもなんです。…子どもが、『お母さんは? お母さんはどこに行ったの?』と言うんです」
そこに居合わせた人たちは、それぞれ周囲の目顔を見回した。…
祭壇が再び組まれ、もう一度社内の浄霊が行われたというのである。
その後、浄霊の効果があったのか、なかったのか、聞くことはなかったが、やがてTTIは六本木のプリンスホテルの近くに移転したのであった。