掌説うためいろ 焚き火とごん狐のお話

現代の子どもたちは実に清潔である。洟垂れ小僧も全く見かけなくなった。顔に斑のたむしや白癬の子も見かけなくなった。
冬、かつて子どもたちは手に白い息を吹きかけながら登校したものだ。「ぴいぷう」と吹く北風に、彼らの手足の指や耳たぶは、しもやけで赤かったものだ。ズック靴の爪先に唐辛子を入れていた子どももいた。家で水仕事を手伝ったり、池や川やバケツに張った氷を割って投げ合ったり、軒の氷柱を折ってチャンバラをする子どもたちの手には、あかぎれができた。今、子どもたちの手に、しもやけもあかぎれも全く見かけなくなった。
自宅と学校までの道筋の、庭のある家々の生垣には、よく常緑の木が見受けられた。イヌマキやラカンマキ、カイヅカイブキ、ウバメガシ、アラカシ、カラタチ、サツキ、ツバキと、喬木から灌木までいろいろある。生垣の上には高い落葉樹が、その枝を冬空に延ばしていた(葉をすっかり落とし冬空に聳える欅の万枝を「神経叢」と書いたのは辻まことだった)。詩人が選んだ生垣は、真冬でも明るく花を咲かせるサザンカであった。
その道筋は、よく青白い霧のような煙が漂っていたものである。住人たちが庭や道の掃き掃除をし、その生垣の内や外で焚き火をしていたからである。
また左右の田畑でも、野良仕事をする人が火を焚いていたものである。その煙は少し目に煙いが、時に香ばしい匂いもする。薩摩芋などを焼いているからである。学校帰り、子どもたちは焚き火に道草をした。煙から顔を逸らしながら、火に手をかざすと、その温かさに思わず微笑みが浮かんだ。その火の主の大人が、
「もうすぐ芋が焼けるよ。食べるか?」
と言うと、子供たちは破顔一笑、頷いたものである。
詩人が描いたのは、そういう時代の冬の温かな一情景である。それは日本の冬の時代であった。

詩人の名は巽聖歌である。本名は野村七蔵、明治三十八年の厳冬に、岩手県紫波郡日詰町に生まれた。父の市兵衛は、周囲が田や畑の「村の鍛冶屋」を営んでいた。農具を作る野鍛冶である。七蔵は四男だが三人の姉がおり、市兵衛とトメの七番目の子であった。生後八ヶ月の時、その父を失った。
家業の鍛冶屋は長兄の吉蔵が継ぎ、父代わりになって、母のトメと共に七蔵ら弟妹を育てた。鍛冶屋だけでは生計が立たず、トメが養蚕をやっていた。七蔵の想い出は、働きずくめで、子どもをかまう暇もない母の姿である。七蔵の子守や面倒は、すぐ上の二人の姉たちが見た。彼の生まれる前だが、吉蔵兄は日露戦争に出征して黒溝台で足に重傷を負った。吉蔵帰郷の際、父の市兵衛は駅舎まで人力車を曳いて出迎え、家まで乗せて帰ったという。吉蔵の足には障害が残った。七蔵の想い出は、足を引きずり、鍛冶仕事に精を出す寡黙で朴直な兄の姿である。
七蔵は友達の家で「赤い鳥」という雑誌を初めて知った。その「赤い鳥」と、先輩の平野直(ただし)等の影響を受けて、童謡の詩や童話を書き始め、やがて友人たちとガリ版刷りの童謡童話雑誌に熱中した。七蔵少年は、暗算坊と渾名されるほど暗算が得意で、成績も抜群だった。大正六年に日詰尋常小学校を卒業すると進学せずに、吉蔵の鍛冶仕事を手伝った。かたわら、ガリ版刷りの同人誌や、時事新報社の雑誌「少年」や「童話」「赤い鳥」等にせっせと投稿し続けた。
大正十二年、「少年」に投稿した童話「山羊と善兵衛さんの死」が掲載された。彼は編集長の安倍季雄に宛て、時事新報社に入社させて欲しいと手紙を出した。しかし年齢が若過ぎて採用はならなかった。
七蔵はその年、横須賀にいた平野直を頼って出郷し、海軍工廠会計部で働きながら衣笠中学校の夜間部で学んだ。かたわら童謡童話雑誌に詩や童話を投稿した。翌年、ようやく時事新報社で働けるようになった。
ちなみに、平野直は明治三十五年の生まれである。後、民話の採集や再話に功績を残し、「すねこ・たんぽこ」「岩手の伝説」「やまなしもぎ」「遠野物語の国へ」を書き、また童謡「春の満州里」を作詞している。

大正十三年、「赤い鳥」に七蔵が投稿した詩「母はとっとと」が掲載された。喜びも束の間、その年の暮、経営が行き詰まった時事新報社は、「少年」「少女」などの雑誌を他の出版社に譲渡してしまった。
翌年春、七蔵は失意のうちに帰郷した。七蔵は日詰の教会に通い、やがて受洗した。彼の創作意欲は高まるばかりだった。冷たい山背(やませ)が吹く厳しい風土で、彼は熱く燃えさかっていた。彼の詩「お山の広っぱ」「からたち」が、「赤い鳥」に続けて掲載された。
鋭い棘をもった「からたち」もよく生垣に見受けられる木である。「母はとっとと」「お山の広っぱ」「からたち」は、後の昭和六年にアルスより刊行された詩集「雪と驢馬」の中で、「家垣根(いぐね)のそば」の章にまとめられている。「いぐね」とは彼の故郷での呼び方なのである。彼はこれらの「家垣根のそば」の章の詩を「童詩」と呼んだ。また「水田(みずた)」の章には「家垣根路(いぐねみち)で」という詩もある。彼にとって、田と家垣根は、故郷の風景そのものなのであった。

その年、七蔵は初めて巽聖歌という筆名を使って、「水口(みなくち)」という詩を「赤い鳥」に投稿した。俳句のように、贅句を削ぎ落とした詩である。

野芹が   咲く日の   水口。
蛙の   こどもら   かへろよ。
尾をとる   相談   尽きせず。
あかねの   雲うく   水口。

岩手や青森の太平洋岸は、夏に山から吹きおろす北東風の山背に悩まされる。この冷たい風が故郷に冷害をもたらすのだ。山背から田の稲を守るためには、頻繁に田水の量を調整しなければならない。水の中の方が風の運ぶ冷気より温かなのだ。河川の水がいったん溜め池で温められ、緩やかに小川に流されて、そこからちょろちょろと田に注がれたり、抜かれたりするのである。その注排水口が水口で、ここからドジョウやメダカのような小さな魚が小川と田を行き来するのである。水口付近は酸素も十分にある。陽差しを受けて温んだ水口あたりに、オタマジャクシが集まっている。まるで尾をとる相談でもしているようではないか…。
「おっとりしていい気品のある芸術童謡です。めづらしいほどいい。」…
「水口」は、北原白秋の高い評価を受けて「赤い鳥」に掲載された。それは童謡として歌うための詩ではなく、読んで味わうための詩である。巽聖歌の名は一躍詩壇に知られるようになった。以来聖歌は白秋に師事した。
昭和三年、聖歌は再び上京した。彼は白秋の弟の鐵雄が経営する出版社アルスで、編集者として働くことになった。さらに白秋に勧められて、他の白秋門下の仲間たちと共に「赤い鳥童謡会」をつくり、親しい与田準一と「乳樹」を創刊した。「乳樹」はその後「チチノキ」となったが、これに新美南吉が童話を投稿したことから、聖歌と南吉の兄弟のような付き合いが始まったのである。南吉は「乳樹」の同人となり、白秋門下となった。

新美南吉は大正二年、愛知県半田市岩滑(やなべ)に畳職人の渡辺多蔵、りゑの二男として生まれた。多蔵とりゑの長男・正八は生後間もなく亡くなっていたため、彼はそのまま長兄と同じ名を付けられた。その名には多蔵の思いがあったのだ。正八が四歳のときに母のりゑが亡くなり、六歳のおり多蔵は後妻の志んを迎えた。志んはすぐ弟の益吉を生んだが、二年半ばかりで多蔵と離縁し、幼児の益吉を連れて家を出た。正八は生母りゑの実家の祖母・新美志もと暮らすことになった。彼は志もの養子になり、新美姓を継いだ。八歳の時である。複雑な家庭事情があったのだろう。
その「おばあさんというのは、夫に死に別れ、息子に死に別れ、嫁に出ていかれ、そしてたった一人ぼっちで長い間をその寂莫の中に生きて来たためだらうか、私が側によっても私のひ弱な子供心をあたためてくれる柔い温いものをもっていなかった」のである。大きな家だったが光度の低い電燈が一つしかなかった。他の部屋にいく時は、カンテラを灯すのである。家は村の一番北にあって、背戸には深い竹薮が迫ってざあざあと鳴り、実に寂しい所であったらしい。昼でも寂しく背戸山で狢のなく声がした。正八はこの祖母と二人きりの、寂しい日々を過ごした。
正八は身体の弱い大人しい子どもだったが、学業は優秀であった。その後、父の多蔵は志んと復縁し、正八も新美姓のまま再び渡辺の家に戻った。祖母の志もは、人も立ち寄らぬような、村はずれの背戸の竹藪がざあざあなる大きな家で、再び独り暮らしに戻ったのである。

正八は大正十五年、半田中学の二年の時から童謡、童話を書き、雑誌に投稿を始めた。新美南吉を名乗り、やがて投稿を通じて巽聖歌や与田準一と知り合った。彼らは繁く文通をするようになった。ときに南吉は、原稿を聖歌に送って文章の添削を依頼してきたりもした。
昭和六年春、南吉は岡崎師範学校を受験したが体格検査で不合格となった。彼は半田第二尋常小学校の代用教員となった。この年の「赤い鳥」五月号に初めて彼の童謡「窓」が掲載された。その秋に半田小を辞し、東京師範学校受験のために上京し、下北沢の巽聖歌の下宿で共に暮らすようになった。聖歌は南吉を実の弟のように面倒を見た。
南吉は書いた原稿を聖歌に読んでもらい、その意見を取り入れて書き直した。どちらかと言えば、南吉の文章は長く綴られ、聖歌のは贅句を削り、読点を多用した意味が取りやすい文章なのである。無論それらのことは、個性の違いとも言えた。
南吉は「ごん狐」を書き始めた。その「ごん狐」は鈴木三重吉に高く評価され、翌年一月の「赤い鳥」に掲載された。それを自分のことのように手放しで喜んだのは聖歌であった。
南吉は受験志望を竹橋にあった東京外国語学校の英文科に変えた。南吉はひとりで合格発表を見に行ったが、戻ってくると、聖歌に自分の番号があったことを伝え
「番号は私のらしいけれど、見誤りでないかと心配なんです。一緒に行って見てください」
と、「泣き出しそうな顔をして、じたばたした」。仕方なく聖歌は彼の合格を確認しに出かけた。南吉の東京外国語学校合格を一番喜んだのは聖歌だった。泣き出しそうな顔で、じたばたしていた南吉は「意気軒昂」となった。聖歌はこんな南吉が可愛く、腹を抱えるほど可笑しく思えた。

聖歌は中野区の上高田に家を借り、聖歌が結婚するまで、南吉もここで共に暮らした。当時、その家の周辺は田畑と屋敷林で囲まれた、旧い農家が点在する長閑な田園地帯だったのである。聖歌の家の近くにも、何本もの樹齢三百年の大ケヤキや、カシ、ムクノキが聳える家があった。ケヤキやカシやムクノキの大木は、サザンカの生垣の上に聳えていた。
やがて聖歌が結婚し、南吉は独り下宿住まいをすることになった。南吉は勉学にいそしむと同時に、せっせと幼年童話と小説を書いた。学校でも文学や芸術について語り合える多くの友人ができ、「赤い鳥」の仲間たちとの交流も盛んになった。そんなある日、南吉は突然喀血した。そういえば、微熱が続き、びっしょりと寝汗をかくことが多くなっていた。
師走の十二月二十四日、南吉は聖歌に誘われて白秋の家に行った。白秋は顔色の優れぬ南吉に
「独り暮らしではろくなものを食っておらんだろう。少し栄養を摂らせてやろう」
と言って、菊子夫人に
「おい、うんと滋養のあるものを、な」
と頼んだ。彼らは晩ご飯をご馳走になった。南吉が白秋先生とこんなに話し込んだのは初めてだった。
南吉は昭和九年に東京外国語学校を卒業した。神田の貿易会社に勤めていたが再び喀血し、晩秋に本格的に療養するため半田に戻ることになった。聖歌は駅まで南吉を見送り、「いいか、無理をするなよ。でも書き続けろよ。大丈夫、そのうち良い薬もできる」と励ました。南吉の病気を一番心配し、その帰郷を一番寂しがったのは聖歌だった。

南吉は翌年の春から河和小学校の代用教員になったが、その夏には退職せざるをえなかった。たびたび学校を休んでいたからである。秋から鶏などの飼料を製造する鴉根山の農場に住み込みで働くことになった。この鴉根山での生活は、南吉の身体には良かったようである。だいぶ、体の調子が良いように思えた。
南吉は昭和十一年の春から安城高等女学校の教員となり、英語と国語と農業の授業を受け持った。国語の時間には、生徒たちに詩や童話などの創作の楽しさを教え、彼女たちの詩と自分の詩を、聖歌が紹介してくれた哈爾賓日々新聞に掲載してもらった。しかし南吉の体調は再び悪化し、彼の体力は落ちていった。
昭和十六年、聖歌の紹介で学習社から初めての単行本「良寛物語 手鞠と鉢の子」が刊行された。

この年の晩夏、聖歌はNHKラジオの幼児番組用の作詞を依頼された。寒い十二月に放送予定のものらしい。彼は「たきび」という詩を書いた。
聖歌は土産を持ち見舞いを兼ねて南吉を訪ね、その話をした。
「そうですか、NHKラジオで全国に放送されるんですね。それはすごいなあ」
と南吉は喜んだり、羨んだりした。
「冬に放送されるんですね。十二月ですか。それは楽しみだなあ。十二月まで生きていたいなあ」
と南吉は言った。
「おいおい、心細いことを言っちゃあいかんよ。病に対しては気を強く持たなくちゃあいけないよ」
と聖歌は南吉をたしなめた。
聖歌は話を逸らすように、その詩の着想を話した。
「この『たきび』という詩はね、ほら、中野の家の近くに大欅の家があっただろう、山茶花の生垣に囲まれてた家さ」
「ありました、ありました。樹齢何百年という巨木でしたねえ」
「あそこの家のご主人はいつも焚き火をしてただろう」
「してました、してました。懐かしいなあ」
「あれを思い出してね。こんどの詩に書いたのさ」
「懐かしいなあ。もういちど、あの辺りを歩き回りたいなあ」
と南吉はしょんぼりした。
聖歌はまた話を変えた。
「君も童話がだいぶたまったね。そろそろ童話集を出さないか。『おぢいさんのランプ』とか『ごんごろ鐘』とか…。出版社は俺に任しておけ。装丁や挿絵も、いい人がいるんだ」
「それはうれしいなあ、ぜひお願いします。何編くらいでいきますかね」
と、南吉はだいぶ元気を取り戻した。

さて、聖歌が書いた詩「たきび」は、田畑の中に屋敷林で囲まれた農家が点在した中野区上高田辺りの情景である。聖歌は、樹齢三百年の大ケヤキが聳えサザンカの生垣に囲まれた家の前を通り道とした。巨樹の枯れ葉は掻き集められて、畑の肥料として撒かれ鋤込まれたり、焼かれたりしていた。その灰も肥料として撒かれるのである。焚き火は周辺を霧のように煙らせていた。しかしそれは田園の住宅地の日常風景で、誰も苦情を言う人はいなかったのである。この家垣根も焚き火も、聖歌にとって懐郷につながる風景なのであった。

かきねの、かきねの まがりかど、
たきびだ、たきびだ おちばたき。
「あたろうか。」「あたろうよ。」
きたかぜ、ぴいぷう ふいてくる。

さざんか、さざんか さいたみち、
たきびだ、たきびだ おちばたき。
「あたろうか。」「あたろうよ。」
しもやけ、おててが もう、かゆい。

こがらし、こがらし さむいみち、
たきびだ、たきびだ おちばたき。
「あたろうか。」「あたろうよ。」
そうだんしながら あるいてく。

「たきび」と題された詩は、すぐに作曲家の渡辺茂のところに持ち込まれた。前年の皇紀二千六百年記念歌の作曲コンクールで次点になった渡辺茂は、当時二十九歳の注目の若手作曲家であった。茂は聖歌の「たきび」が気に入った。
彼は明治四十五年、本郷の林町に生まれた。聖歌の詩を読みながら、茂の脳裏に焚き火の温かで懐かしい想い出が甦った。
家の近くの寺の境内で、正月の門松を燃やしていたときの情景である。子どもも大人もパチパチと竹がはぜる火を取り囲んで、何故か心がほっこりとした記憶なのだ。女の子の誰かが「雪よ雪よ」と空を見上げた。それは灰が雪のように舞い落ちてきたものである。小さな子どもがお姉さんの少女を真似て「雪だ雪だ」と、空に両手をかざした。子どもたちの頭に灰が雪片のようにのった。大人たちが笑った。「雪だ雪だ」と小さな子らが境内を走り回った。その中に茂もいた。

「たきび」は日本放送出版協会の放送テキスト「ラジオ少国民」十二月号に載った。放送は十二月九日から三日間、朝十時の短いニュースの直後「幼児の時間 ウタノオケイコ」で流される予定だった。初日の九日は放送されたが、あとの二日は中止となった。大日本帝国が八日未明ハワイの真珠湾を奇襲し、アメリカと戦端を開いたからである。
九日の放送直後、軍部からNHKに強硬な申し入れがあった。
「この非常時に焚き火とはけしからん。万一敵機襲来あらば、焚き火はたちまち敵爆撃機の格好の攻撃目標となってしまう。たとえ少国民といえども、今や大人と合力し、お国を護るために戦うときである。こんな歌を歌わせてはならぬ!」
「それにたとえ落ち葉といえど、この非常時に於いては貴重な燃料である。風呂ぐらいは沸かすことができよう」
「ついでに言わせてもらうが、あの巽聖歌なる国籍不明のふざけた名前は実にもってけしからん。本名の野村七蔵に戻せ!」…。
巽聖歌は当惑した。嫌な時代になったものである。
南吉は学校を休みがちであった。その日も南吉は休みをとり、布団の上に身を起こして、朝からラジオのくぐもったような、波打ち、うねるような音声に耳を傾けていた。「幼児の時間 ウタノオケイコ」で聖歌の「たきび」が流れた。いい詩だ、いい曲だと南吉は思った。その「たきび」が三日間放送されると聞いていたので、次の日もその次の日も楽しみにラジオに耳を傾けたのだが、その歌は九日の朝の一回しか流れなかった。日本と米国とが戦争に突入した非常時なので、仕方のないことかも知れなかったが…。

翌十七年、聖歌が南吉の童話集「おぢいさんのランプ」刊行話を、どんどん進めてくれた。出版社と装丁や挿絵の手はずを調えてくれた。聖歌は棟方志功に装丁と挿絵を依頼した。上がってきた志功の装丁や挿絵を見た南吉は
「いいですねえ、やっぱりいいですねえ」
と撫でるように喜んだ。その秋、有光社から「おぢいさんのランプ」が出た。初めての童話集である。
南吉の体力が落ち始め、彼は自分の命の蝋燭の火が消えかかっていると感じていた。十二月に入ると学校に休職願いを出した。
年を越した一月、病状が悪化し、南吉は安城高等女学校を退職した。やがて、もうすぐ桜のつぼみが開こうかという頃、彼は静かに息を引き取った。まだ二十九歳だった。駆けつけた聖歌は、人目も憚らず慟哭した。
南吉の葬儀が済むと、聖歌は彼の残した原稿を全て預かり、その整理に入った。南吉をもっと知ってもらいたい。彼をもっと世に出したい。南吉の全ての作品を出版してあげたい。聖歌は南吉の原稿に手を入れた。こうすればもっと良くなる。こう表現した方がもっと子どもの心に伝わるだろう。ここを削れば、もっとすっきりする。…聖歌は詩人であり、物書きであり、編集者だったのだ。
彼は奔走し、紙の入手も困難になった昭和十八年の秋、立て続けに二冊の南吉の童話集を刊行した。「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」である。聖歌は、それを南吉の仏前に献じて報告した。

…仏檀に飾られた南吉の小さな遺影が、自分の童話集が二冊も出たことを、とても喜んでくれているようで、聖歌はすこしうれしく思いました。南吉の童話集の世間の評判も上々で、このことも聖歌はうれしく思いました。そしてその本を出すために、自分ががんばったことに、世間がちょっと気づいてくれてもいいのになと、少しさびしくも思いました。…

戦後も巽聖歌は新美南吉の作品を広めるために尽力した。やがて南吉は宮沢賢治に比され、童話作家としての評価を得ていった。聖歌はそれをとてもうれしく思った。
ある日、聖歌は愕然とした。彼が勝手に新美南吉の原稿に手を加えたとして批判の的になったからである。その批判が聖歌を痛撃した。

…聖歌はおどろき、深く傷つきました。そしてとても悲しくなりました。自分が良かれと思ってやったことは、いけなかったのだろうか。
やがて聖歌が南吉を弟のように可愛がり、南吉の作品をもっと良いものにしたい、そしてもっと世に出したい、という強い思いから、南吉の原稿に手を入れたことを、世間の人は知るようになりました。世間の人は聖歌の思いや、やさしさに気づき、そうだったのかと言いました。聖歌は静かに目をつむったまま、うなづきました。焚き火の青いけむりが、周辺に霧のように漂っていました。…
時に無償の親切な行為が、逆に相手に迷惑をかけることになったり、理解されず誤解を招くことになったりするのだった。…それが「ごん狐」の、ちょっぴり切ないお話しなのでした。
それは、こころの温かな「たきび」の詩人と、その弟分のような、若くして亡くなった童話作家の、だいぶ昔のお話で、わたしも子どもの頃に、村のことなら何でも知っているお婆さんから聞いたのです。そのお婆さんは、村の一番北はずれの、山茶花の家垣根に囲まれた大きな家に、たった独りで暮らしていました。背戸の竹藪がざあざあなり、ときどき狢や狐の鳴く声が聞こえる寂しい所でした。お婆さんは、よく焚き火をしていました。その煙は辺りに青い霧のように漂って…