総選挙後やっと始まった臨時国会、鳩山総理の初めての所信表明演説を、案の定、民放各局のニュース番組はほんのわずかばかり触れただけであった。彼らがその時間のほとんどを割いたのは、酒井法子の初公判なのである。どの局にも、某カルト教団、某巨大宗教法人青年行動隊や、某国の日本人愚民化工作に従事する連中が入り込んでいるらしい。
近年、市場原理・競争原理の名の下に市場原理主義者を会長に迎え、TV界に於ける市場競争原理の尺度「視聴率」を気にし、民放番組の模倣に著しく傾斜しているNHKは、有事の際は大本営発表のみをタレ流すことを義務づけられた国策報道機関としての矜持と良心はあるらしく(中立公平の旗の下に自らの批判精神を封じ、ジャーナリストの矜持は些かも持たぬに)、「腐っても」NHKで、鳩山所信表明に時間を割き、ついで酒井法子初公判に触れた。流石である。大声で誉めてあげたい。
私は酒井法子とは口を利いたことはないが、サンミュージックの創立者で、酒井事件の責任をとって会長職を退いた相沢秀禎氏なら、その社長時代にお世話になって何度かお会いしたことがある。闊達で温厚な方という好印象が強く残っている。
さて、私も覚醒剤事件で逮捕された人物について語ってみたい。
今月の中頃、京都で田原成貴が覚醒剤所持と使用で逮捕された。田原成貴は天才と呼ばれた元JRAの騎手である。今回の田原の逮捕はあまりニュースにはならなかったようだが、私には酒井法子より、「田原、再び覚醒剤で逮捕」のほうが、思うところ多い。
彼のその華やかな騎手時代、私は仕事で何度か彼と話を交わす機会があった。彼はいつもすこし背を丸めていた。周囲から生意気だと聞いていたが、シャイで、穏やかで、なかなかユーモアもあり、笑顔の美しい好青年だった。ナルシストかと思われた。
以前も書いたが、田原は天才が騎手になった男だったのである。騎手の天才・福永洋一が事故でターフを去った後、その後を襲うように勝ちまくったのは河内洋騎手であった。しかし彼は天才とは呼ばれなかった。河内は後に名手と呼ばれた。やがて河内を凌いで天才と呼ばれる若者が登場した。その若者が天才福永の後を襲うかに思われた。それが田原成貴である。彼はその甘いマスクから競馬界の玉三郎と呼ばれた。しかし彼は福永のようには勝ちまくることはなかった。田原成貴が天才と呼ばれた期間は短かったのである。
その狷介な性格から、彼を生意気と思う調教師や馬主も多く、嫌われて、いつもニコニコとした福永のようには愛されなかったからである。またその後、「名人」と慕われた武邦彦の息子・武豊がデビューしたからである。武豊は福永洋一のように温厚、素直な性格で、また若さに似ず冷静で知的で、芯があり、どこか老成した感があった。武豊はたちまち圧倒的な騎乗数と有力馬の騎乗依頼に恵まれ、その期待通り勝ちまくって、「天才」と呼ばれるようになった。だから田原成貴が天才騎手と呼ばれた期間はごく短かったのだ。しかし騎手の天才・福永洋一や武豊と違って、田原は天才が騎手になった男だったのである。
田原は実に大胆な、舌を巻くような騎乗ぶりを見せた人だった。その狷介孤高の精神は彼に災いし、トラブルメーカーと言われた。よく調教師や馬主、厩務員らと対立したからである。鞭で若い騎手や厩務員を殴った、記者を殴打したというトラブルも起こした。騎手は一般ファンに嫌われても商売に支障はないが、調教師や馬主という依頼主から嫌われれば商売にならない。
その報道される調教師や馬主との主なトラブルは、見解の相違と越権にあった。彼は調教師の指示する騎乗方法を無視した。「乗るのは僕だから」である。また馬主が騎乗方法やレースの作戦に口を挟むことに対しては、「素人は引っ込んでろ」という態度を示した。言葉にしたこともあったのであろう。あくまで乗るのは自分である。馬の調子や気持ちが分かるのも自分である。
「なあ、おい、そやろ」と田原は馬に語り続け、会話し、調教師や馬主を無視し、生意気と言われ、対立したのである。彼は決して自分を曲げなかった。そして馬から降ろされた。以下のやりとりは私の勝手な想像である。
「調教師(せんせい)、この馬疲れています。レースは回避した方がいいですよ」
「そんなことはないやろ。体調も万全なはずだ」
「いや、疲れてますよ。僕には分かります」
「俺も調教師やで、馬のことなら分かる」
「いや、先生はこいつの気持ちがよう分かってません。こいつは精神的に疲れているんです」
「…」
「こいつの言うことに耳を傾けてください。嫌や、言うとるやないですか。もう嫌や、疲れた、言うとるやないですか」
「…」
「先生、この馬、左の後肢がおかしい」
「そんなふうには見えへんが…」
「乗った僕がおかしいと感じたんです。休ませましょう」
「それはお前が決めることではない! 馬主(オーナー)も次のレースは絶対使って欲しいと言うとるんや」
「オーナーなんて素人やないですか。休ませましょう」
「それはワシが決める」
「休ませましょう」
「じゃかしい!」
木訥であまり言葉を知らない他の騎手に比し、田原はどちらかといえば饒舌であった。語彙も豊富で、まるで詩人のような美意識、ユニークな言葉の「感覚」を持っていた。絶対我々には分からない、騎手にしか分からない、騎乗時の微妙な一瞬の感覚を、明確に、的確に伝える言葉の鋭さと、切れ味を持っていた。彼が馬と共に突っ込むべき光の中、音のない真空の広がり、自分たちの前にぽっかりと開いた異空間、異次元、神の領域、そして勝負師の凄みのある冷徹さと、美と、めくるめく陶酔…。彼の言葉は詩の言語であった。
彼は自分の言葉に感応する相手に対してだけ、その独特な言葉を発した。それが鶴木遵のインタビューに、実によく顕れている。聞き手の鶴木が予想紙の記者やスポーツ紙の記者、テレビのインタビュアーではなく、言葉に対して鋭い感覚を持った「詩人」のような書き手だったからである。
田原はレース中、ターフにしたたかに叩きつけられた。一つの腎臓が破裂し、摘出された。復帰後の田原の騎乗数は半減した。それでも大レースでは、あっと驚くような凄みのある騎乗を見せ、上位に食い込み、大穴をあけ、優勝してみせた。劇画の原作を書き、小説もエッセイも書き、歌手としてレコーディングもした。
あるときJRAの職員の一人が私に小声で吐き出すように囁いた。
「田原は駄目だよ。あいつの周りには悪い奴らがいる。あんな奴らと付き合ってちゃ駄目だ!」
やがて、田原と好ましくない人物たちとの交際が囁かれるようになった。
彼はまだ現役を退く年齢ではなかったが、騎手を引退した。腎臓がひとつしか残っていないことが、肉体的にも精神的にも負担であったのだろう。調教師になって三年、彼は東京に出張してきたおり、覚醒剤所持の現行犯で逮捕された。当然、調教師免許を剥奪され、競馬界から永久に追放されたのである。
それから数年、彼は再び覚醒剤に手を出し、今秋逮捕されたのである。更正したかに伝えられていた田原は、再び転落し、地上にしたたかに叩きつけられたのだ。
「幸福は幻にすぎないが、苦痛は現実である」と言ったのはヴォルテールであった。数々の大レースを勝った田原の栄光は一瞬に過ぎなかったのだ。幸福を栄光に、苦痛を転落という言葉に置き換えるなら、田原にはヴォルテールの箴言がふさわしい。
彼は何か苦痛から逃れるために薬に手を出したのだろうか。覚醒剤が呼び起こす幻覚の中に、栄光時代に見た「馬と共に突っ込むべき光の中」「ゴールまでの静謐な真空」「馬と自分の前にぽっかりと開いた異空間、めくるめく異次元」、「神の領域」を見たのだろうか。そして、転落もまた彼にとっては、甘美と陶酔の中の一瞬の出来事なのではなかったか。
額や目の上にかかったさらさらした髪を、顔を振って払い、すこし背を丸め、両の手を無造作にズボンのポケットに突っ込み、甘いマスクに恥らうような笑みを浮かべながら、受け答えする田原の姿が思い出される。私は今でも田原成貴の天才を、いささかも疑っていない。
(この一文は2009年10月29日に書かれたものです。)