掌説うためいろ 流浪の人々

  名はなんと言ひけむ 姓は鈴木なりき 今はどうして 何処にゐるらむ

名は何と言ったっけ、姓は鈴木だった。今どこでどうして暮らしているのだろうか…。石川啄木は「悲しき玩具」の中に鈴木志郎のことを記している。この鈴木と啄木の出会いは小樽新報時代である。この鈴木という男は、詩人でもない。歌人でもない。たまたま啄木と出会い、彼の記憶に残った人物なのである。鈴木志郎もそして野口英吉も、啄木同様に流浪の人であった。

札幌の「北鳴新報社」で働く鈴木志郎、かよ夫妻は、同僚の野口英吉、ひろ夫妻と共同の家に暮らしていた。野口英吉も流浪の果てにこの地に、この仕事とこの家に、やっと落ち着き、妻と長男を故郷から呼び寄せたのである。みんな貧しかった。食べるのがやっとだった。栄養も十分ではなかった。
やがて野口夫人は小さな女の子を出産した。女の子はみどりと名付けられた。しかしその子は生後七日で亡くなってしまった。野口夫妻は声を上げて泣いた。後に野口英吉は、こんな詩を書いた。

しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた

嘆き悲しむ野口夫妻を鈴木夫妻は慰めた。そして
「私たちも幼い娘を手放してしまいました」
と、問わず語りに語った。
鈴木志郎夫妻が語ったのは、志郎の妻かよの娘の話だった。

岩崎かよは静岡の日本平に生まれ育った。周囲から祝福されぬ結婚をした。かよは夫とすぐ別れた。その夫はあまり評判のよい男ではなかったのだ。佐野安吉といい、鼠小僧のような義賊を気取った強盗事件を何件か犯し、刑務所に入ったからである。一説に北海道の空知監獄か樺戸監獄に送られたらしい。
かよは実家に戻り、その年の九月に女の子を出産した。その子はきみと名付けられた。父の無い子を抱えたかよへの風当たりは強かった。彼女は意を決して、二歳になったばかりのきみを抱えて北海道に渡った。誰も知らない土地で、母娘で暮らそうと考えたのか、あるいは北海道の監獄に収監されている男の近くで、彼の出獄を待とう考えたのか、それは誰にも分からない。
かよは函館の停車場近くの土産物屋に母子住み込みで働き始めた。何かに縋りたかったのか、休みの日、かよは教会に通うようになった。
一方鈴木志郎は、故郷の青森鯵ヶ沢を飛び出し北海道へ渡った。志郎はヤクザの子分になり暴力の世界に身を置いた。森村や倶知安などで、森林伐採や道路開削工事現場とタコ部屋(地獄部屋)の人夫の監視と支配に従事したのである。志郎は監視と暴力を振るう側に身を置きながら、自分もタコ部屋の人夫と同じだと思った。その後なんとかヤクザ稼業からは足を洗ったものの、函館港の人足など、相変わらず荒んだ流浪生活を送った。
彼は函館の教会で小使いの仕事を見つけた。そこで、かよと幼いきみに出会った。子ども好きの志郎に、きみが懐いた。やがて志郎は札幌の教会でコック見習いの職に就くことになった。
志郎が札幌に移ると、かよもきみを連れて後を追った。志郎はその教会に出入りする男から、社会主義とそれに根ざした平民運動の話を聞いた。志郎は社会主義に惹かれた。そして羊蹄山麓の留壽都(ルスツ)に開かれる共同開拓地の村・平民農場への入植と、岩崎かよとの結婚を決意した。
しかし当時の北海道入植がいかに厳しいものだったか。飢餓すら予想された極寒の開拓地で、幼子を抱えて入植するのは、あまりにも過酷で危険であった。きみはやっと三歳になったばかりだったのである。かよと志郎は懊悩した。どうするのが一番良いのだろう。かよも志郎も迷い続けた。
二人はメソジスト系のアメリカ人宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻が、里子を欲しがっていると聞いた。ヒュエット夫妻なら知っている。優しい人たちだ。鈴木夫妻はきみを、ヒュエット夫妻の養女にすることを決意した。

ヒュエット夫人のエマはきみのために、当時は珍しい可愛いワンピースのスカートとインバネスと赤い靴を用意した。別れの日、スカートと赤い靴を履き、小さな肩にインバネスをまとったきみは、ちょっと恥ずかしげで、そしてとても嬉しそうであった。かよはそんな娘を抱いて泣いた。志郎は唇を噛みしめた。
きみはヒュエット夫妻に手をとられて、何度もかよや志郎を振り返りながら遠ざかっていった。こうして鈴木夫妻は、三歳のかよを手放したのである。
三年の歳月が流れ、留寿都の開拓は実に凄惨を極めた。何組もの入植者が倒れたり、脱落していった。志郎とかよは、まだ留寿都の大地にしがみついていた。
やがて二人のもとに、ヒュエット夫妻から手紙が届いた。キミを連れてアメリカに帰るというのである。きみは既に六歳になっているはずだった。かよはまた別れた頃のきみを思い出して泣いた。もうずいぶん大きくなっていることだろう。

「でも、今きみはアメリカで幸せに暮らしているから、良かったと思います。今は私たちのことも忘れて、もう目も青くなっちゃったかしら…」
かよは野口夫妻に冗談を言い、泣き笑いした。野口夫妻もつられて泣き笑いした。
「外人さんを見かけると、ついつい、きみのことを思い出して、その日は一日落ち着きません」
かよは涙声で言い、淋しく笑った。
後年になって、野口英吉はこんな詩を書いた。

赤い靴 はいてた
女の子
異人さんに つれられて
行っちゃった

横浜の 埠頭(はとば)から
船に乗って
異人さんに つれられて
行っちゃった

今では 青い目に
なっちゃって
異人さんのお国に
いるんだろ

赤い靴 見るたび
考える
異人さんに逢うたび
考える

きみはアメリカに渡れなかった。船に乗れなかったのだ。肺を患っていて、こんな小さな体では、おそらく船での長旅は無理だろうと医者は言った。
エマ・ヒュエットはキミを抱いて泣き続けた。ふくよかだったエマが一、二週間の間にげっそりと窶れた。チャールズは、食事も摂らず夜も眠らず泣き続けるエマの健康を気遣った。
チャールズは妻を慰め必死に説得した。よく知った人がいる教会付属の孤児院にキミを預けよう、それがキミのためだと。
こうしてやむなくヒュエット夫妻は、メソジスト系の麻布鳥居坂教会の女の子だけの孤児院にキミを預けた。そのことをヒュエット夫妻は鈴木夫妻に知らせなかった。キミを親元に戻すことは考えられなかったのだ。あの過酷な、極寒の開拓村では、キミの体はとても持たないだろう。それより、キミのためにアメリカから良い薬を送って、船の長旅に耐えられる健康と体力を取り戻させよう。キミがもっと大きくなれば体力もつくだろう。そうすればキミをすぐアメリカに呼び寄せよう。夫妻はキミと別れ、アメリカに帰って行った。
きみは全くひとりぼっちになった。
きみは教会の孤児院の二階で闘病生活を送った。きみがヒュエット夫妻と別れて三年たった秋の終わり、彼女の九歳二ヶ月の命が散った。鳥居坂の街路樹や教会の庭の樹々から、はらはらと葉が落ち続ける十一月のことであった。鈴木夫妻はそのことを全く知らなかった。

北の原始林の開拓は辛酸を極めた。開拓者たちの中から、犠牲者が相次いだ。先ず年寄りと子どもたちが、寒さと栄養失調のため病を得て亡くなっていった。鈴木夫妻は、幼いきみを連れて来なくてよかったとさえ思った。
かよが静岡から呼び寄せた弟の辰蔵も、過酷な労働のため病に倒れ、ついに帰らぬ人となってしまった。開拓者たちの集会所も失火で焼け落ちてしまった。平民農場の理想と開拓の夢は、実に多くの犠牲を払って破れた。留壽都の平民農場は閉鎖され、開拓地は再び荒野と化したのである。
鈴木夫妻は札幌に出て、小さな新聞社で働き口を見つけた。そして野口雨情夫妻と出会い、その後間もなく小樽に移り、そこで石川啄木に出会ったのである。
鈴木かよはその後に生まれた娘のそのに、
「あなたには、きみと言う名のお姉さんがいて、いまアメリカで幸せに暮らしているのよ」
と語った。そして
「野口雨情さんが、きみのことを詩に書いてくださって…」
と言いながら、よく「赤い靴」を歌っていたという。

今では 青い目に
なっちゃって
異人さんのお国に
いるんだろ

昭和二十三年、かよは「アメリカに渡った」きみのことを想いながら、小樽で亡くなった。
きみの墓は青山墓地にある。墓碑名は佐野きみとなっている。