掌説うためいろ 本郷すれちがい坂

昔の人はよく歩いた。交通機関が無かったからだと言えばにべもない。住まいからかなり離れたあちこちの寺社へのお参りも、気楽に頻繁に出かけている。ろくに娯楽もなかったからだと言えば身も蓋もない。暇ばかりがあったからだと言えば取り付く島もない。
みな粗食であったが実に健脚だったのである。明治になって陸蒸気が走り、人力車が行き交い、鉄道馬車が敷かれ、鉄道の敷設が進み、人々は便利になったが、時間に追い回されるようにもなった。それでも明治人は実によく歩いている。散策好きでもあったのだ。
夏目漱石もよく歩いた。学生時代から馴染んだ本郷界隈は眼をつぶっても歩ける程である。彼の散策は一に健康のためと、一に思索のためである。漱石は胃弱と神経衰弱に悩まされていた。医者があれこれ薬や摂生を勧めても生返事ばかりであった。しかし家に出入りの寺田寅彦が言うことには、「うん、そうしよう」と機嫌良く相槌をうった。寅彦が勧めたのはほかでもない。
「先生、できるだけ歩くことですよ。散策がよかろうと思います。気散じになりますし、よい考えも浮かび、食欲も進むはずです」
と言ったのである。

漱石は散策の道すがら、何度か森鴎外とすれちがっている。お互い、その顔を見知っているが、立ち止まることもなく、誰も気づかぬほどの軽い会釈を交わすのみである。この日も、二人はそのようにしてすれちがった。
鴎外は常日頃から軍人らしい厳粛な面立ちである。なかなか声を掛けにくい。なに、声を掛けにくい仏頂面なら漱石も負けてはいない。何しろ胃痛と神経衰弱でいつも不機嫌なのである。漱石は文学者としての鴎外を常に意識し、尊敬もしていたが、彼は偉い陸軍軍医総監、陸軍省医務局長でもあった。
漱石は軍人も兵隊も戦争も嫌いなのである。何しろ若い頃、徴兵免れのため北海道の浅岡家に移籍して分家届けを出したほどだ。もちろん北海道には渡ったこともない。日露戦争の際、日本中が熱に浮かされたようになった。当然とも言え、やむを得ないとも言えるだろう。しかし漱石は「滅ぶね」と吐き捨てるように言った。日本が滅ぶというのである。

その日、鴎外は外出先から団子坂の家に急いでいた。佐佐木信綱から訪ねたいという手紙をもらっていたからである。鴎外が日露戦後の奉天から帰国して日もない肌寒い時節であった。
佐佐木信綱は明治五年、本居宣長の強い影響を受けた国学と歌学の盛んな三重県鈴鹿の歌詠みの家に生まれた。父は佐々木弘綱である。弘綱四十三歳の時に、初めて授かった待望の子であった。弘綱は信綱が四歳になるやならずの頃から、万葉集や古今、新古今などの暗唱と歌道を叩き込んだ。信綱十一歳のとき、弘綱は一家をあげて東京に移り住んだ。自ら天才教育をほどこした信綱を世に問うためである。信綱は十二歳にして「文章作例集」を上梓し、翌年帝大の古典科に入学し十七歳で卒業した。
弘綱の門弟に小山作之助がいた。小山は文久三年、新潟県大潟町の生まれである。文部省音楽取調掛を経て東京音楽学校の助教授、教授となった。彼は芝唱歌会で十五歳の滝廉太郎の東京音楽学校受験を指導し、その才能に最初に気づき、最年少の仮入学に尽力した。
その小山が助教授の時、まだ二十四歳の信綱に、「国民唱歌集」のための曲を作ったので日本風の歌詞を書いて欲しいと依頼した。明治二十九年のことである。無論、信綱は喜んで作詞を引き受けた。こうして名歌「夏は来ぬ」が生まれた。

      卯の花の匂ふ垣根に
時鳥(ほととぎす)はやも来鳴きて
忍び音もらす 夏は来ぬ

五月雨の注ぐ山田に
早乙女が裳裾ぬらして
玉苗植うる 夏は来ぬ

橘の薫る軒端の
窓近く螢飛びかひ
怠り諫むる 夏は来ぬ

楝(おうち)散る川辺の宿の
門遠く水鶏(くいな)声して
夕月涼しき 夏は来ぬ

さつきやみ螢飛びかひ
水鶏鳴き卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

鴎外や幸田露伴、斉藤緑雨が「めさまし草」を創刊したのは、信綱が「夏は来ぬ」を書いた年である。信綱は「めさまし草」投稿者の常連となって、以来鴎外らと親交を深めた。
ちなみに「めさまし草」は鴎外や露伴、緑雨の合評「三人冗語」を載せた。ここで鴎外等は無名の樋口一葉を絶賛したが、惜しくも、彼女はそれからほどなくして亡くなってしまったのである。
本郷の路地坂で、小柄な樋口一葉(奈津)が鴎外や漱石、信綱等とすれちがったこともあっただろう。奈津は春日、伝通院前の安藤坂にあった中島歌子の歌塾「萩の舎」に通っていたこともあった。良家の令嬢ばかりが集まったこの歌塾では、奈津ばかりが貧しく、地味な古着姿で座っていたのだ。奈津は内向し、「ものつつみの君」とからかわれていた。「ものづつみ」とは〈物慎み〉で、控えめで遠慮がちという意味である。しかし信綱が、一葉、田辺龍子、伊藤夏子を萩の舎の三才媛と呼んだほど、彼女の才能はひときわ光っていたのである。

信綱も鴎外邸を訪ねる道すがら漱石を見かけた。信綱は「あ」と声をあげて会釈したのだが、漱石は不機嫌そうに何やら思案顔で、俯いたまま彼に気づかずに通り過ぎて行った。
信綱は鴎外に
「ついさっき、夏目漱石さんとすれちがいましたが、こちらには気づかず行ってしまいました」
と笑った。
「私も見かけました。何か新しい小説のことでも考えながら歩いておられたのでしょう」
と鴎外も言った。
その日の信綱の用件は、文部省の「尋常小学校読本」用の唱歌「水師営の会見」の作詞に当たり、乃木希典将軍に面会したいので、鴎外に口添えの紹介状を書いて欲しいというものであった。鴎外は了解した。すでに信綱の詞はほぼできあがっていたのだが、彼はいくつかの点を直接将軍に確認したかったのだ。
こうして信綱は鴎外の名刺と紹介状を持ち、閑寂な木造洋館の小邸を訪い、名高い乃木将軍に会う機会を得た。将軍は信綱から用件を聞くと「面映ゆい」と言って黙ってしまった。信綱は寡黙な彼から、苦労して水師営会見の話を聞き取った。
後、信綱はできあがった詞「水師営の会見」を持参して、再び乃木邸を訪ねた。詞を一読した将軍は
「確かに…拝読しました」
と言ったきり、何も言わなかった。不安になった信綱が
「いかがでしょう」
と尋ねると、将軍は
「うむ」
と言ったきり黙したままであった。普段から物音一つしない乃木邸は、ますます気まずいまでに静まりかえった。信綱は将軍がこの詞に不満なのだと思った。
その年の六月「水師営の会見」は「尋常小学校読本(五年)」に掲載された。

…駿河台から冷たい北風が吹いてきた。漱石は冬の街をぶらぶらと歩いて、春日通りに面した本郷中央会堂の前に出た。美しく壮大な木造チャーチである。当時、本格的にコンサートができるホールは、鹿鳴館と東京音楽学校の奏楽堂と、この中央会堂しかなかった。最もコンサートが行われたのはこの中央会堂である。ここでは伊藤博文の演説会や、野口英世らの講演会なども数多く開催されている。
漱石は以前この会堂で開催された慈善音楽会に行ったことがある。別に「耶蘇教」に関心があったわけではない。たまたま鏡子夫人に誘われて同道しただけである。鏡子夫人も親しい知人に誘われただけであった。そこでパイプオルガンの演奏を聴いた。確かに美しく荘厳な調べではあった。演奏していたのは細身で小柄な男である。漱石には彼の小さな背中しか見えなかった。その後も散策がてら、何度か中央会堂の前に立ち止まって、中から聞こえてくるオルガンの演奏や賛美歌に耳を傾けたことがある。…あいにくその日は何も聞こえてこなかった。漱石は所在なげに鉄柵にもたれ掛かったり、掲示されている説教文を読んだりした。読み終わって
「ふん」
と言った。
漱石が中央会堂の慈善音楽会に行ったらしいことは、彼の「琴のそら音」の中で触れられている。幻想的な幽霊話である。

漱石が聴いた本郷中央会堂のオルガンの演奏者は岡野貞一といった。この中央会堂は明治二十三年に開設されたが、すぐ焼失し、結城無二三らの熱心な奔走で再建された。この中央会堂の初代のオルガン弾きはエドワード・ガントレットである。ガントレットは明治二十三年にイギリスから聖歌隊長として来日し、二十五年に再建されたばかりの中央会堂で最初にパイプオルガンを弾いた。彼は山田耕筰の姉の恒子と結婚し、耕筰にもオルガンの演奏を手ほどきしている。
明治三十三年、ガントレットは岡山の教会に赴任することになった。後任の演奏家を誰にするか、ガントレットや牧師たちは決めかねていた。そのとき熱心な信者の一人だった岡野が、自らオルガン演奏と賛美歌の歌唱指導を買って出たのである。買って出たと言っても実に慎ましい申し出であった。
「もし私でよろしけれは…」
と言うのである。「そう言えば…」とガントレットや牧師等は、岡野が東京音楽学校で「先生をしている…らしい」ことを思い出した。
岡野はオルガンの前に座って弾き始めた。それは見事な演奏であった。牧師は感動し、ガントレットもぜひ岡野に後を託したいと興奮気味であった。岡野は
「はい」
と小さく言って頷き、静かに微笑んだ。聞けば岡野にオルガンを教授したのは、日本の先駆的オルガニストの島崎赤太郎であった。島崎の名を聞いて、ガントレットは岡野の腕前にますます納得した。
以来岡野は昭和十六年にその生涯を閉じるまで、およそ四十年間に渡って、本郷中央会堂のオルガン弾きを務めた。しかし教会に通うほとんどの信者たちは、岡野が東京音楽学校の教授だったことも、誰もが知っている唱歌「故郷」「朧月夜」「春が来た」「日の丸の旗」「春の小川」「桃太郎」の作曲家だったことも、全く知らなかったのである。岡野貞一の子息ですら、「もみじ」が自分の父が作曲したことを知らなかったほどである。岡野は実に寡黙で、自らを語ることの少ない、物慎ましき人だったのである。

さて、本郷中央会堂の前に立った夏目漱石のことである。
「前に立って、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往ったり来たりした。」
三四郎は美禰子を訪ねたが会堂(チャーチ)に行って留守であった。その場所を聞き、会堂の前で美禰子が出てくるのを待つことにした。三四郎は「新しい女」美禰子に翻弄され続け、手も足も出ないのである。忽然と会堂の戸が開いて中から人が出て「天国から浮世に帰る。」…冷える時節である。出てきた美禰子はいかにも寒そうな仕草を見せた。
美禰子は「往来の忙しさに、始めて気が付いた様に顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の眼に映った。二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。」…そして美禰子は「われは我が咎を知る。我が罪は我が前にあり」と言った。三四郎と美禰子は中央会堂の前で、このようにして別れるのである。漱石は、このようにして〈迷羊=ストレイ・シープ〉「三四郎」の恋を終わらせたのである。漱石が「三四郎」を発表したのは明治四十一年であった。

この年は戊辰詔書が発表され、あらためて国家主義と忠君愛国が全面に打ち出された。佐佐木信綱が作詞した「水師営の会見」は、文部省尋常小学校唱歌作曲委員の岡野貞一によって曲を付けられ、明治四十三年の「尋常小学校唱歌」に掲載された。

    旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の 所は何処水師営

庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木 弾丸あともいちじるく
くづれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍

乃木大将はおごそかに 御めぐみ深き大君の
大みことのり伝ふれば 彼畏みて謝しまつる

昨日の敵は今日の友 語る言葉もうちとけて
我は称へつ彼の防備 彼は称へつ我が武勇

かたち正して言ひ出ぬ この方面の戦闘に
二子を失ひ給ひつる 閣下の心如何にぞと

二人の我が子をそれぞれに 死所を得たると喜べり
これぞ武門の面目と 大将答へ力あり

両将昼食をともにして 尚も尽きせぬ物語
我に愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし

厚意謝するに余りあり 軍のおきてに従ひて
他日吾が手に受領せば 永くいたはり養はん

さらばと握手ねんごろに 別れて行くや右左
砲音絶へし砲台に ひらめき立てり日の御旗

いくつかの余談を書き留めたい。
鴎外はその本郷の住まいを「観潮楼」と名付けていた。書斎から品川沖が望めたからである。明治四十年、彼は自邸で観潮楼歌会を始めた。何かと対立していた与謝野鉄幹らの「新詩社」系と正岡子規系の「根岸」派の融和のための歌会である。鉄幹や伊藤左千夫、上田敏、平野万里、木下杢太郎、佐佐木信綱、斎藤茂吉らが参加した。やがて北原白秋、吉井勇、石川啄木等も顔を出すようになった。
明治四十一年、本郷西方町一番地の家に、魯迅ら仲間五人が暮らし始めている。彼らはこの共同の家を伍舎と名付けた。この家は漱石がロンドン留学前に住んでいた家である。漱石と魯迅も本郷のどこかですれちがっていたに違いない。
岡野貞一が演奏し夏目漱石が聴いた本郷中央会堂のパイプオルガンは、当初、西洋の賽銭箱と間違えられ、お賽銭を投げる人が後を絶たなかったそうである。
そして本郷中央会堂の初代牧師・結城無二三のことである。無二三は近藤勇と親しく、彼の客士として行動を共にし、伊東甲子太郎らを叩っ斬り、鳥羽伏見戦に参加し、甲陽鎮撫隊として戦った男であった。敗走後はまさに波瀾万丈である。故郷の山梨に帰り開拓民となるが、病に倒れて漢訳の聖書に接した。メソジスト会のカナダ人宣教師イビィから受洗し、山梨で伝道活動に入った。彼はイビィの本郷中央会堂の設立の計画を聞くと、上京してこれを助け、初代牧師となったのである。
結城無二三の名は坂本龍馬暗殺に於いても頻出する。龍馬を斬ったとされる見廻組の今井信郎の談によれば、無二三は竹刀を持った稽古ではからきし弱いが、真剣を握ると誰も敵わぬほどの恐ろしい使い手に変じたという。無二三を見ていると日頃の剣術の鍛錬が馬鹿らしくなった、と今井は言ったらしい。
無二三は教会の維持のため下宿屋を経営した。牧師を辞したあと癌に冒されたが、その痛みを全く顔に出すことなく、平然として逝ったという。
本郷中央会堂の建物は、東京に最も早く入ったパイプオルガンと共に、大正十二年の関東大震災で焼尽した。山葉製の小さなオルガンだけは外に運び出され、被災を免れたそうである。現在の教会はその後の昭和四年に再建されたものである。
ちなみに滝廉太郎の恩師で「夏は来ぬ」の作曲家・小山作之助は、山葉楽器の顧問も務めた。山葉楽器は無論現在のヤマハである。