結城よしをは戦場で童謡と童話、手記を書き続け、徴用された輸送船・神龍丸の最期も記録した。山之井龍朗も神龍丸の最期を油絵に描き残した。二人は共に船舶高射砲兵として海上輸送戦に就き、軍徴用の輸送船めるぼるん丸の甲板から、炎上し沈没する神龍丸を目撃したのである。
神龍丸は、めるぼるん丸より先行して、千島列島の中央にある松輪島に向かっていた。松輪島はアイヌ語で「土着の者」を意味するモト・アから、ロシア語でマトゥワと呼ばれていた。富士に似た美しいコニーデの島山である。ここに海軍の飛行場があり、守備隊が常駐していたのである。
昭和十八年六月、神龍丸はガソリンと弾薬を満載して、濃霧と風浪荒れ狂うオホーツク海を北上した。しかし松輪島から東方に一キロ離れた磐城島沖で座礁してしまったのである。嵐ますます凄まじく、離礁作業中に崩れたドラム缶から漏れたガソリンが気化し、爆発したのだ。一部の砲兵隊員らはボートで上陸し、残った船員と隊員等によって重要物資の懸命の陸揚げ作業を図ったがうまくいかなかった。神龍丸は二昼夜に渡って炎上し、やがて大きく傾き、激しい波浪の中に消えていった。六月下旬とは言え嵐の千島の海は冷たい。陸地を目指して泳ぎだした隊員や船員も、次々と風浪の中に消え、救助された者はごく僅かに過ぎなかった。
「七月七日、めるぼるん丸は神龍丸の遺骨を乗せて、小樽に暗く入港した。」
と、結城よしをの「月と兵隊と童謡―若き詩人の遺稿」にある。
山之井龍朗の「神竜丸の最期」は、信州上田、塩田平の、戦没学生慰霊美術館「無言館」にある。
結城よしをは昭和十九年九月十三日の朝、九州小倉の陸軍病院で、重篤を聞いて駆けつけた両親に看取られながら二十四歳で亡くなっている。南方戦線で罹患したパラチフスによる。その末期に、紫色に変じた唇に耳を近づけた母親や、すっかり様変わりした顔をのぞき込む父親に、ささやかなお願いの遺言を伝えた。
山之井龍朗も二十四歳で亡くなっている。その最期の言葉は残されていない。彼は昭和二十年五月、ルソン島のバギオで戦死したからである。
山之井龍朗は大正九年に横浜に生まれた。父は洋画家である。八人兄弟の長男であった。昭和十六年に応召され、高射砲兵として輸送船に乗り込み、北洋、南洋の輸送戦に参加した。フィリピン、ジャワ、シンガポール、サイゴン、高雄と転戦した後に一時帰国している。彼はこの間に「神竜丸の最期」と、共に画家を目指していた弟の俊朗と合作で、妹の百合子をモデルにした「少女」を描いている。その後、再応召されフィリピンに赴いた。そこから兄は「俊朗もいよいよ来年兵隊ですが、十分に体を鍛へて…」と、その武運を祈る手紙を出し、弟は「兄さん、かならず帰ってきてくれよ。ふたりで立派な絵描きになるんだから」と便りを出した。しかしこの兄弟は帰って来なかった。俊朗も昭和十九年四月に、輸送船と共に爆沈し、南溟に消えたからである。兄弟合作の「少女」も無言館にある。
臨終の子に童謡を聞かせつつ頬つとふ涙妻は拭はず
と父は詠んだ。
乳首吸ふ力さへなし二十五の兵なる吾子よ死に近き子よ
と母は詠んだ。この母が死にゆく息子の耳元で歌った童謡は、「ナイショ話」であったろう。
「アララギ」の中心人物、斎藤茂吉を生んだ山形は、彼の強い影響を受けて多くの歌人を輩出している。結城よしをの父・健三は、その歌人としての筆名を〈柚村みのる〉という。毎日最低一首を詠む中央にも知られた歌人であった。母えつも歌を詠んだ。
結城よしをは大正九年三月、山形県置賜郡宮内町に長男として生まれた。本名は芳夫である。父母の影響を受け、読書と詩や文章を書くことが好きな子であった。よしをの下に五人の弟妹がいた。
結城家は貧しかった。よしをは子どもながらそれを察し、弟妹の面倒をよく見た。彼は漫画を描くのも大好きで、ノートの余白に描いては弟妹に見せて喜ばせていた。ノートの端に連続して描いた漫画をパラパラめくると漫画が動き出し、幼い弟妹はそれを飽かずねだり、楽しんだ。
昭和九年に尋常高等小学校を卒業すると、山形市内の八文字屋という書店で住み込みの店員として働き始めた。彼は沢渡吉彦に師事し、時雨夜詩夫の筆名で童謡や童話、随想などを書いては、「詩と歌謡」「山形新聞」等の地元の詩誌や新聞に投稿した。日中戦争が拡大していった頃である。やがて彼は童謡童話の同人誌「おてだま」を主宰した。十七歳の時である。
沢渡は童謡や唱歌のための詩を書き、出羽の民話や民謡、わらべうた等の採録を続けた在郷の文化人であった。よしをは彼のもとで多くの仲間と出会った。
武田勇治郎もよしをが出会った童謡詩人仲間の一人である。勇治郎は大正八年、東村山郡相模村要害地区の農家の二男として生まれた。彼も尋常高等小学校を卒業後に、山形市内の高陽堂書店の住み込み店員となり、同じく沢渡吉彦に師事した。よしをと勇治郎は昭和十二年秋、共著で童謡集「ぶどうの実」を出版した。勇治郎は昭和十四年暮れに十九歳で応召し、千葉に入営している。
この年、よしをは「ナイショ話」という詩を書いた。彼は長男であり、また家が貧しかったため、母に甘えることを強く自制した子どもだった。母に何かをせがむこともない子どもだった。その我慢は、よしをにとって切ない思い出だったのである。よしをは自作の童謡の中でのみ母に甘えた。
ナイショ ナイショ
ナイショノ話ハ アノネノネ
ニコニコ ニッコリ ネ、母チャン
オ耳ヘ コッソリ アノネノネ
坊ヤノオネガイ キイテヨネナイショ ナイショ
ナイショノオネガイ アノネノネ
アシタノ日曜 ネ、母チャン
ホントニイイデショ アノネノネ
坊ヤノオネガイ キイテヨネナイショ ナイショ
ナイショノ話ハ アノネノネ
オ耳ヘコッソリ ネ、母チャン
知ッテイルノハ アノネノネ
坊ヤト母チャン 二人ダケ
「ナイショ話」は東京・京橋の京華小学校に勤務していた山口保治に送られた。昭和十二年秋に山口保治が作曲した「かわいい魚屋さん」(作詞は印刷会社で営業の仕事をしながら作詞家を目指していた加藤省吾である)が大ヒットして以来、彼の元には全国から童謡の詞や童謡誌が送られて来るようになった。結城よしをはそれ以前から山口に自作の詩や「おてだま」を送り、文通する間柄であった。
山口は明治三十四年に豊川に生まれた。よしをよりだいぶ年長である。彼の実家は芸者置き屋や霞座という劇場を経営していた。舞台や三味線など芸事の世界を身近に接して育った。幼くして三味線を覚え、バイオリンに夢中になり、自然音楽の道を志したが、親の大反対に会い勘当されている。彼は学校で子どもたちに音楽を教えながら、子どもの歌について考えてきた。優しく、すぐ口ずさめるような易しいものがよい。
山口が「ナイショ話」を作曲したのは、詩が送られてきて間もない六月の、通勤途次の電車の中であったらしい。山口はこれをキングレコードに持ち込み、大塚百合子が吹き込んで九月に発売された。この童謡も全国の幼童に歌われるようになる。
ちなみに、サルバドール・ダリにそっくりな楽しい音楽家〈山口とも〉は、山口保治の孫に当たる。
昭和十六年七月、よしをも応召し弘前の部隊に入隊した。野砲兵としてである。やがて船舶高射砲兵隊に配属された。彼が乗船したのは山下汽船から徴用された山百合丸で、北洋方面の輸送船として任務に就いた。
「私はしばらく月を見つめていた。すると、月が母の顔に見えてきた。母は笑っていた。私は出航前夜に、いつもするように『おかあさん』と、小声で呼んで、『また征って来ます。お留守をお願いします』そう言って笑顔でお辞儀をした。私の心の中にはいつも母が住んでいてくれた。」
昭和十七年六月、日本海軍はミッドウェイ島攻略を目指した。この作戦に伴い、日本海軍は米ソ間の連絡を遮断し、敵航空基地の利用を阻止することを目的として、アリューシャン列島のアメリカ領アッツ島とキスカ島に上陸した。アッツ島は熱田島、キスカ島は鳴神島と改称された。
船舶高射砲兵隊松山隊員として山百合丸に乗船した結城よしをは、このアッツ島への輸送任務に当たった。山百合丸の補給任務は四航海に及んだ。
「十二月に入ると、川や湖は凍ってしまう。山の頂きや風当たりの強いところはプラチナのように輝き、軽い粉雪の旋風が連日吹き続けるのである。」
「深夜、急に北方の空が明るくなったと思うと、雪の面は淡桃色から紫紺色に変わっていく。清浄な雪肌がみるみるうちに、バラ色から真紅に燃えて、数限りない火花をいっせいに打ち上げたようなオーロラ。空にまたたく一つ星は真っ赤に大きく光り、一筋の赤い血を地上に垂らしているように見える。兵隊たちは我れを忘れてこの絶妙の景観に、随喜の涙を流して夜を忘れるのである。」
寒い寒い 北の島
深い深い 雪の島
冷たい冷たい 波の音
凍っているよな 風の音
それでも元気な 島の人
お船を待ち待ち 暮らしてる
「雪をいただく山々に囲まれ、ツンドラの上に天幕を張って、鉄兜を枕に、濃霧に包まれて寝る北洋の兵隊たちは、どんな夢路をたどるのだろうか。尋ねてくる人とてない兵隊たちに、毎夜のごとくキツネが花嫁姿に化けて訪ねて来るのである。親を失ったまだ目も見えない仔狐を、兵隊たちが温かく育てているのである。この熱田島特産の青狐が、夜半にテントに忍び込んで来て、夢結ぶ兵隊たちにキッスを送るのである。」
月に一度のお月夜は みんなそろって拝みます
錨おろしてもう二日 船は静かに休んでる
霧が流れてアッツ富士 白くちかちか浮いている
月に一度のお月夜は みんなふるさと思い出す
こんな月夜はアッツ富士 コンコン狐も見てるだろう
このアリューシャン列島の戦略的価値は、ミッドウェイ作戦の失敗によって完全に失われてしまった。アメリカがアリューシャン列島に反攻の兆しを見せても、大本営は全く手を打たなかった。
昭和十八年四月、結城よしをは山百合丸から〈めるぼるん丸〉に配置替えになった。
五月十二日、アメリカ軍は戦艦三隻、空母一隻、重巡三隻、軽巡三隻、駆逐艦十二隻という艦隊を組んで殺到、第七師団一万一千人がアッツ島に上陸した。大本営はアッツ島の日本軍を早々と見捨てていた。
守備部隊長の山崎保代陸軍大佐以下二千数百名は、殺到するアメリカ軍を迎え撃ち、二週間余も凄まじい戦闘を繰り広げた。はなから全滅の覚悟である。五月二十九日夜、山崎大佐は機密書類の全ての焼却と無線機の破壊処分を確認した後、自らバンザイ突撃の先頭に立って玉砕した。アッツ島は戦死者数二千六百三十八名、生還者数二十七名、生存率一%という玉砕の島であった。
よしをは、めるぼるん丸の船上で、壮麗なオーロラに涙を流した将兵たちの全滅を知った。キツネの花嫁の夢を見た兵隊たちが玉砕したことを知った。また昭和十九年一月、南方輸送任務に就いた山百合丸が、ラバウル港で撃沈したことも知った。
よしをも宇品を母港として、シンガポールやパラオ等の南方戦線への輸送任務に就いた。常に敵機の急襲や敵潜水艦の魚雷攻撃の危険に曝され続けていた。そんな中で、よしをは書き続けたのである。
やがて彼の船は、九州の門司港に入港した。巌流島で防空の任務に就くためである。しかし、おそらく南方任務中に感染したものであろうか、その船内でパラチフスが発生したのである。よしをも罹患していた。
よしをは小倉の陸軍病院に送られ、その最期を両親に看取られたのである。えつは、子ども時代のよしをの我慢と切ない想いを知っていた。だからえつは、息子の耳元で「ナイショ話」を歌ったのだ。
ナイショ ナイショ
ナイショノ話ハ アノネノネ
ニコニコ ニッコリ ネ、母チャン
オ耳ヘ コッソリ アノネノネ
坊ヤノオネガイ キイテヨネ …臨終の子に童謡を聞かせつつ頬つとふ涙妻は拭はず
部隊より届きし遺品は童謡と戦記にてありよくぞ書きける
「神様が、わたしにいいことを教えてくれた。―それは童謡」「楽しいから、うれしいから、思い出があるから、童謡をつくるのだ。」…
坊やのお願いは
「ぼくの童謡を本にして下さい」
というものであった。そのお願いが叶えられたのは、三年後の昭和二十二年のことである。
そして全国の幼童は、ナイショ話にはふさわしくない元気な声を張り上げ、よしをの「ナイショ話」を歌っていた。