駅の改札を出た細面の眼鏡の紳士が、彼を出迎えた丸い赤ら顔の眼鏡の紳士に向かって帽子をとって会釈をした。濃い鼻髭を蓄えた恰幅の良い紳士も帽子を取って会釈を返した。
「これはわざわざお出迎えいただき相済みません。だいぶお待たせいたしましたか?」
「いやいや、たった今着いたばかりです。こちらこそ、こんな所へお出でいただき恐縮です」
こんな所とは、新宿である。江戸時代、内藤家の屋敷があったことから内藤新宿と呼ばれ、当時はまだ東京府下豊玉郡で、東京市外であった。甲州街道と青梅街道が交差する所を追分といい、そこには宿屋や一膳飯屋、馬具屋が並び、裏に回ると女郎屋もあった。甲州街道は肥桶や薪炭を山と積んだ荷馬車で賑わい、馬糞と肥の糞尿の臭いがした。晴れれば馬糞混じりの砂埃が舞い、雨が降れば泥濘と化す町であった。
新宿駅は飯田町と塩尻間を結ぶ中央東本線と、品川と赤羽間を走る山手線が交わり、旅客利用よりも、桐生や伊勢崎、八王子の絹や、奥多摩や秩父、甲州の材木、石灰石、薪炭、野菜等を扱う貨物駅としての機能のほうが高かった。
二人は甲州街道に面した本屋口で待ち合わせたのである。荷馬車が行き交う甲州街道を渡り始めた二人に、猛然と走ってきた小さな少年が危うくぶつかりそうになった。
「おっとと、危ない危ない」
「危ないのはおじさんだい、どこ目つけてんだア」
子どもが乱暴に怒鳴った。彼は脱げそうになったわらじをつっかけると、再び猛然と走り去った。二人は暫し少年の走り去った方を見、そして微笑んだり、首を振ったりした。少年はちょうど六、七歳だろうか。いささか元気過ぎる少年は、この辺りでは有名な悪ガキで、駅裏の紀伊國屋という薪炭屋の小倅だった。名を田辺茂一という。
駅裏には何軒かの薪炭問屋や、外した戸板に野菜を並べただけの高野八百屋店と、駅近くの追分から場所を替えた中村屋というパン屋がある程度だった。このパン屋は元々、本郷春木町で開業し、クリームパンを売り出して評判となった。この後の大正四年、主の相馬愛蔵と妻の黒光が右翼の頭目・頭山満に頼まれ、インドの亡命革命家のラース・ビハーリ・ボースを匿い、彼からカレーを教わったことは有名な話である。
二人の紳士は千駄ヶ谷の玉川上水の葵橋を渡った。葵橋は道よりやや隆起した土橋であった。この辺りは武蔵野台地の雑木林の縁で、田や畠の中に取り残された雑木林がまだら模様に点在していた。近年は畠や田が潰され、雑木林も伐られて住宅が建ち始めていた。
しばらく行くと、黒板塀に囲まれたかなり古い傾いたような木造平屋の家の前に差し掛かった。家の裏には一二軒の家作があって、さらにその後ろは田圃のようであった。
丸顔の紳士は声をひそめ
「もう看板は取り外されましたが、ここが秋水の平民社でした」
と言った。細面の紳士は
「ほう」
とだけ言ってその家を見やった。
「向かいの家はもともと八百屋だったのですが、警察が強引に借り切りましてな、昨年まで警邏の監視所にしていました。この家に入ろうとするものを引きずり込み、人体(にんてい)尋問、荷物検査に身体検査をしておりました。家から出てくる者はずっと尾行がつきます」
「ほう」
「あまりに剣呑だから、私はこの家の前を通るのを避けておりました」
「ほう」…
当時この辺りは千駄ヶ谷町であった。現在の代々木二丁目七番辺りで、文化女子大の近くである。この年の一月、この家の主・幸徳秋水や管野須賀子ら十二名が大逆罪で死刑になった。
「須賀子は近くの正春寺に葬られたそうです」
「ほう」
すっかり春めく中を長く歩いたため、太めの紳士はその丸い赤ら顔に汗をにじませた。彼は大きなハンカチを取り出して額の汗を拭った。細面の紳士は春風の中を心地よさそうであった。彼は濃緑の風呂敷包みを抱えていた。
太めの紳士は切妻の小屋根を持った小さな門の前に来ると、立ち止まって
「ここが私の家です」
と言って、格子の引き戸を開けた。
「そのお荷物をお預かりしましょう。先ずは小川へご案内します」
彼は細面の紳士から風呂敷包みを預かると、玄関を開けて家人を呼んだ。この家は現在の代々木三丁目三番あたりで、今の山谷小の近くである。
丸顔の紳士が誘ったのは田圃の畦道と雑木林ばかりの小径であった。小径の畦にウマゴヤシの黄色い小さな花や、薄紫のレンゲの花が咲いており、傍らを小川が流れていた。水の流れはあるかなしかに思われた。幅は一間か広いところでも一間半くらいだろう。
「河骨(こうほね)川と言いましてな。その名の通り河骨の花が咲きます。間もなくですな」
「ほう…河骨は水のきれいな所にしか咲かぬそうですな」
「そのようです」
「ここが先生の散策道なのですな」
「はい、毎朝この辺りを歩いております」
「ほう…羨ましいですな」
「あ、あれが河骨ですよ。ほら水の中の茎が白い骨のようでしょう」
「ほう、ほんとですな」…
小魚が隠れ、細面の紳士は目を細めた。底から小さなあぶくが一つ浮かんで、水面で消えた。この場所は現在の代々木五丁目あたりである。
丸顔の紳士は国文学者の高野辰之博士で、細面の紳士は東京音楽学校の岡野貞一教授である。高野は文部省国定教科書の編纂委員であり尋常小学校読本唱歌の作詞委員、岡野は作曲委員であった。高野は家の近くの散策道の傍らを流れる河骨川の風情を詩に書いた。岡野がその詩に曲を付けるにあたって、ぜひその可憐な流れを見たいと言って、今日の約束となったのである。
春の小川はさらさら流る。
岸のすみれやれんげの花に、
にほひめでたく、色美しく
咲けよ咲けよと、ささやく如く春の小川はさらさら流る。
蝦やめだかや小鮒の群に、
今日も一日日向に出でて
遊べ遊べと、ささやく如く春の小川はさらさら流る。
歌の上手よ、いとしき子ども、
聲をそろへて小川の歌を
うたへうたへと、ささやく如く
ちなみに河骨川は、玉川上水の終点である新宿御苑の玉藻池の余水が流される渋谷川や、宇田川と合流して、代々木練兵場横を流れた。夏ともなると、子どもたちはこの宇田川で泳いだり水遊びをしていたのである。
これらは東京オリンピックを前に暗渠となって、今は渋谷駅の先から大きめの下水溝となり、名ばかりが渋谷川として残っている。「春の小川」の果ての姿である。
日露戦後、十一万人の死傷者と重税という犠牲を強いられた人々は、その犠牲と引き換えの如く政治的な発言をし出した。人々の意見は政府や官僚に厳しく、何故か明治天皇のカリスマ性が高まり、また心底のナショナリズムを高揚させていた。政府はこれを利用しようとした。国内に人民の敵を作り出し、国民を再結集させなければならない。政府はこれを天皇制に異を唱える社会主義、共産主義、無政府主義を壊滅させる機会と捉えた。
明治四十一年戊申詔書が出され、国家主義と忠君愛国を全面に押し出した「国定教科書改訂」が進められることになった。高野と岡野はその流れの中で、尋常小学校読本唱歌の編纂委員を委嘱されたのである。
そして、二人が先程通り過ぎてきた黒板塀のボロ屋の主、幸徳秋水と管野須賀子も、その流れの中で処刑されたのである。優れた国文学者である高野も、優れた作曲家である岡野も、無論そのような巨視的な把握はできなかった。
彼等は「日の丸の旗」という歌をつくった。国歌にしても良いほどの簡潔で捷勁な名曲である。
白地に赤く 日の丸染めて
ああ美しや 日本の旗は朝日の昇る 勢い見せて
ああ勇ましや 日本の旗は
そして彼等が「春の小川」の傍らにたたずみ、河骨川の水草の陰に小魚が隠れるさまを見て目を細め、その周辺を散策した年、東京と大阪に特別高等警察が発足した。